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第6話

مؤلف: 花野めい
依果は口では「わかった」と言いながら、部屋を出ていく摩美の背中に向かって、思いきり舌を出した。

――

千歳が由樹の腕を取ってダイニングへ向かう残酷な場面が、三久の頭から離れなかった。

あれは、見るんじゃなかった。

帰り道、冷たい夜風を浴びながら少し正気を取り戻した三久は、途中の店で温かい食事を食べてからアパートへ帰った。

それから数日、由樹と千歳に関する華々しいニュースが連日のように報じられていた。

もどかしかったのは、肝心の退職手続きにまだ何の動きもないことだ。

人事部で顔のきく大島沙織(おおしま さおり)に電話をして事情を聞いてみた。

驚いたことに、沙織は三久が退職を申し出ていたことすら知らなかった。

人事部長のアシスタントとして、三久の退職申請は必ず沙織の手を通るはずだ。知らないということは、トップである由樹がまだ決裁を下していない証拠だ。

三久は車のアクセルを踏んで、百栄グループ本社へ直行した。

あいにく由樹は会議中で、秘書室のスタッフに応接室で待つよう促された。

三十分ほど待っていると、千歳が現れた。

今季限定のブランドバッグを腕にかけて、完璧なメイクに血色のよい肌。秘書室のスタッフと笑いながら話すその姿には、すでにここの女主人のような貫禄があった。

社長室に入る前に、千歳は応接室に座る三久をちらりと目に入れた。

そっと若い秘書の松村奈緒(まつむら なお)を手招きして聞く。

「あれ、何?」

「早坂支社長が社長にご用があるようですが、事前にアポイントメントがなかったので、お待ちいただいております」

奈緒は千歳に愛想よく笑いかけた。

千歳は手入れの行き届いた爪をいじりながら、目を光らせて奈緒に何かを小声で耳打ちした。

ほどなくして、奈緒が応接室に入ってきた。

「早坂支社長、社長はお時間がございません。お引き取りいただけますか」

三久は顔を上げた。

「会議はまだ終わっていませんよね。それは社長がおっしゃったことじゃないはずです」

奈緒が言葉に詰まった。

三久は冷静に言った。

「会議が終わりましたら、五分だけお時間をいただきたいと社長にお伝えください」

「お電話ではなくわざわざ直接いらしたのは、何か特別なご事情でも?」

奈緒は探りを入れてくる。

「電話が繋がらなかったもので」

そうでなければ、わざわざここまで足を運ぶことなどなかった。

奈緒は三久の言葉をそのまま千歳に伝えた。

千歳は信じなかった。本当に仕事の急用なら、あの気の強い三久がじっと座って待つはずがない。根気よく待っているということは、仕事の用件ではなく、個人的に由樹に会いたいのだ。

この半年、三久は遠くでおとなしくしていたから、千歳もすっかり気にしていなかった。

なのに今、婚約目前というこの大事な時期に、また図々しく顔を出してきた。

気を抜くわけにはいかない。

奈緒が三久のもとへ戻ってきた。

「早坂支社長、東側の会議室でお待ちください。こちらの応接室は後ほど来客が使う予定がございまして」

三久はバッグを持って立ち上がり、無言のまま移動した。

東側の会議室は廊下の奥の角にある。由樹が戻ってきてもこちら側を通らないルートで、ここから社長室を見張るのは物理的に無理だ。

席に座り込んで、三久はスマホでメッセージを送った。

【理紗、社長が戻ったら知らせてもらえる?】

細田理紗(ほそだ りさ)は奈緒と同期入社だが、性格はまるで違う。奈緒は上を向いて立ち回るタイプで、三久が社長夫人だった頃はよく擦り寄ってきたが、三久はずっと適当にあしらっていた。実直に仕事をこなす理紗のほうが、ずっと肌に合った。

理紗からすぐに「OK」の返信がきた。

支社の積み残しの仕事をパソコンで片づけながら待っていると、気づけば昼になっていた。

会議室のドアが慌ただしく開いて、理紗が飛び込んできた。ひどく申し訳なさそうな顔をしている。

「早坂さん、すみません!社長が村上さんとご昼食に六階のレストランへ行かれてしまって……会議が終わった時に私がたまたま席を外していて、気づかなくて」

三久はパソコンを閉じてバッグに仕舞い、立ち上がった。

「大丈夫よ。今から追いかければ間に合うかも」

「本当にすみません、戻ってこられたの全然わからなくて……」

理紗が謝り続けるのを、三久は責める気になれなかった。自分も仕事に集中して、確認を怠っていたのだから。

エレベーターに乗り込み、六階で扉が開いた瞬間、ちょうど正面の社長専用エレベーターもゆっくりと開いた。

「洋食のシェフをわざわざフランスから呼んだんだ。口に合うか食べてみてくれ」

由樹の穏やかな声が聞こえた。黒のスーツを完璧に着こなしている。

千歳は白いニットにミニの黒いスカート姿で、甘えるように彼に寄り添っていた。

「もし今回も私の口に合わなかったら、海外まで行って、そのシェフがいるお店ごとここに連れてきてね」

「わかった、好きにしていい」

由樹は甘やかすように苦笑いしながら答えた。

千歳は満面の笑みでエレベーターを出た。由樹は大きな手でドアを押さえ、彼女を先に通した。

廊下に三久が立っているのを見て、千歳の美しい表情がわずかに曇った。

「少しだけよろしいでしょうか。五分だけ」

三久は進み出て、静かに目を伏せた。

千歳が由樹の腕にさっと独占欲をむき出しにして手をかけるのが、視界の端に映った。

由樹は少し考えてから、千歳のほうへ向いた。

「洋食は冷めると味が落ちる。先に入っていてくれ」

「早く来てね」

千歳は甘えた声でそう念を押してから、名残惜しそうに腕を離し、レストランへ向かった。

「こっちに来い」

由樹は短くそう言って、廊下の奥の人のいない休憩スペースへ歩き出した。

三久は静かについていった。

由樹が煙草に火をつけ、腕時計を見た。

「五分だ」

「お昼をお邪魔してすみません。退職願を早急に承認いただけないでしょうか」

三久は単刀直入に切り出した。

由樹の形の良い眉がわずかに動いた。薄い唇から煙草を離す。

「何の退職願だ」

三久は顔を上げた。

「あの日、会議のあとに小林さんに渡していただいたものです」

由樹はその時になってようやく、あの白い封筒のことを思い出した。

開ける前に出国の連絡が入り、帰国後にはもうどこにもなかった。すっかり頭から抜け落ちていたのだ。

「見ていなかったんですか?」

三久は違和感に気づいて尋ねた。

由樹は煙草の煙を吐き出し、しばらく黙ってから言った。

「理由を言え」

三久は少し視線を揺らして答えた。

「支社長職は、私には荷が重くて。半年経ちましたが、まだ慣れないものですから」

「なら本社に戻せばいい」

由樹はあっさりと言って、彼女を冷たく一瞥した。

「遠回しにするな。用があれば直接言え」

「そういう意味じゃないんです。私は……」

廊下をひっきりなしに従業員が行き来し、レストランのドアが開くたびに、濃厚な油とソースの香りが流れてきた。

言い終わらないうちに、胃の奥から激しい吐き気が込み上げた。三久は素早く口を押さえ、振り向いて隣のトイレに飛び込んだ。

妊娠二ヶ月足らず。つわりが一番ひどい時期だ。

毎回、何も吐き出せない。それでも、胃がひっくり返るようにしんどかった。

どうにか呼吸を整えてトイレから出ると、由樹の姿はもうどこにもなかった。

「早坂さん、出てきましたね」

哲朗が、由樹の立っていた場所でスマホを操作していた。

「たった今、人事部に連絡を入れたところです。休憩時間のうちに支社から荷物を引き取ってきてください。午後からそのまま、本社勤務に戻れます」

三久の胸がすとんと落ちた。もうトップの命令が出てしまっている。

「待ってください、まだ話が終わっていません!」

三久はレストランへと踵を返した。

哲朗の手が止まる。

「社長は今、レストランにいらっしゃいませんよ。村上さんがシェフの料理が口に合わないとおっしゃって、外に食べに出られました。それに、もう人事の手配は完了しています」
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