「グルーのいないお城は灯火が消えたようね……使用人ならば、それでも日々の仕事があるけれど……あら?」
廊下を歩いていて曲がり角に来ると、掃除担当のメイド達が、箒を動かす手も止めてお喋りしている声が聞こえてきた。 でも、その内容は通り過ぎるにも引き返すにもいかない、看過しかねるものだった。 まだ若さを残すメイドが、しきりに私への陰口を叩いているのだから、見逃せという方が無理だ。 「旦那様も、とんだ貧乏くじを引かされたものよね。ようやく妻を娶る事になっても、あんな悪評高い令嬢だなんて。だから子を成す事も控えてらっしゃるんでしょ」 「ちょっとアーシャ、言い過ぎよ。それに旦那様は仰っているじゃない、奥様はまだ出産を経験させるには若すぎて危険だって」 「何よ、それってつまりは幼稚すぎて、女としての魅力がないって意味でしょ?見れば分かるじゃない。細身なのはまだ良いとして、あの細すぎて貧相な胸に腰ときたら」 「誰かに聞かれたらどうするの?奥様への侮辱よ、許される内容じゃないわ」 「私は事実しか言ってないでしょうに。奥様が悪評ばかりだった事も、女性の魅力に欠ける事も」 私は相手の暴言を引き出すだけ引き出してから、メイド達の前に出た。 「──ずいぶん楽しそうな話をしているわね」 「お、奥様!」 「そこのあなた。当主の妻である私を否定する事は、そのまま当主を貶める事になると知っていて?当主を敬えない使用人なんて辺境伯家には不要なのよ?」 「そんな、奥様……私は旦那様を貶めるつもりなどございません!」 「それにしては品位に欠ける発言を延々としていたでしょう。あれら全てが、あなたの主を見下しているからこそ言えるものなのよ。──衛兵をここに」 「お待ち下さいませ、奥様!私は……」 「言い訳は私の耳に障るわ。衛兵、この女を城外に叩き出して」 「そんなっ……奥様の気持ち一つだけで、仕えてきた使用人を勝手に解雇したと知れば、旦那様も黙ってはおりません!」 「ええ、黙ってはいないわね。グルーの留守を預かる妻が貶されてはね。鞭打ちと追放だけでは済まないでしょう」 独断だけれど、主の妻を認めない使用人は城を蝕む事に繋がる。自由と好き勝手は違うのよ。 「私の事が言われていたから、私は追放だけで済ませてあげるのよ」 「奥様!私は……ちょっと離して!誰か!あんたも見てないで助けなさいよ!一緒に話してたでしょ!」 衛兵に両脇を固められたメイドが、一緒にいたメイドに怒鳴る。 「悪いけど……あんたの物言いはひどくて、奥様に聞かれてしまったなら仕方ないと思うわよ」 淡々とした口調で諦めるよう告げるメイド仲間に、彼女は言葉を失った。 「そんな……!奥様、紹介状なしでは奉公先もありませんのに!」 この期に及んで厚かましい。私は言い放ってやった。 「必要ならあげるわ。お仕えする主の妻を散々悪しざまに言う悪いお口の持ち主です、と書いてね」 そのメイドは、まだ騒いで抗っていたけど、衛兵に引きずられて退場した。 「──奥様、アーシャにつきましては、私からメイド長にお話し致します。彼女の口を止められず、すみません」 暴言の主は処罰したし、深々と頭を下げられ謝罪されてなお、とばっちりを食らわせる程怒り狂ってはいない。 私は浴びた罵りの言葉に胸が冷える思いを味わいながらも、平然と振る舞った。 「いいのよ。悪く言う声は、ひそめていても威力が大きいもの。それに、あんな勢いで話されては止めようがなかったでしょう」 「それは……本当に申し訳ございませんでした」 「いいから、仕事に戻りなさい」 「は、はい……失礼致します」 ぺこぺこと頭を下げて立ち去るメイドを見送って、私は小さく溜め息をついた。 ──それにしても、やっぱり私は元が悪役令嬢なのね……あんな雑用だけ任されている使用人から、口汚く言われ蔑まれるなんて。 こうも言われたら、さすがに気落ちするけれど、それでもグルーの留守はきちんと守らないといけない。 執務に関しては執事長のウァジリーがついているから任せられるものの、お城の秩序を保つには、執事長だけに頼りきってしまうのは無理があるもの。 「……あんな言葉……グルーには聞かれなくて良かった……」 呟きは微かで、広いお城の中に響く事もなく消えた。 ──グルーが無事に帰還したのは、その二日後だった。 「帰ったぞ、アリューシャ。出迎えてくれる妻がいるのも悪くないな。変わりはないか?」 「大丈夫ですわ。ご無事のお帰りで何よりです、お待ちしておりました」 我ながら、すんなりと思う言葉を口に出来たと安心していると、グルーの精悍な顔が赤くなった。 「あの、何か……」 「いや、何でもない。帰りを待つ妻に出迎えられるのも……まあ、な。それより、賊も首領格もきっちり仕留められたし、宴の準備をさせよう」 「?……はい、私にお手伝い出来る事は……」 「宴の時に、俺の妻として隣に座っていてくれればいい。段取りなら使用人達も慣れたものだからな」 「そうなのですね」 どこか不思議に思いながら、とりあえず頷いておく。 「それより、お前の持たせてくれた呪符は、てきめんな効果があったぞ」 「私が書いた呪符がお役に立ったのですか?」 「お前を宴の主役にしたいくらいだ、ありがとう。──さ、中に入ろう」 促されて隣を歩きながら、頑張って良かったと嬉しく感じる。こんな感情は、この世界で生きるようになって初めて味わえた。 グルーの留守中にアーシャを追放した事は、メイド長からウァジリーへ話を通してあったので、すぐにグルーへも伝えられたらしい。恥ずかしい事に、吐かれた暴言の内容まで。 グルーは相当立腹したようで、怒りもあらわに、ウァジリーへ唾棄すべき事として言ったそうだ。 「この城に巣食ったネズミみたいな使用人がいたとはな。アリューシャは追放以外の罰をどうした?」 「追放のみでございます」 「甘いな。実家に帰る為の金品も持たされていないなら、まだ領地のどこかにうろついているだろう。探し出して厳罰を下すか?」 「旦那様のお気が済むように。その追放されたアーシャというメイドは、道行く者に春をひさぎながら食いつないでいるようです」 「仮にも辺境伯家に仕えていた身で売春婦か?とことん恥を知らないな。──しかしアリューシャは傷ついたり悲しんだりしていないか?」 「奥様でしたら、たいそう毅然とした振る舞いで追放を命じたそうでございます。居合わせたメイドには寛大でいらしたとか」 「そうか……彼女は王太子妃の座を巡って、一瞬でも気を抜けば謀略される場所で生きてきたからな。せめて、この辺境伯家では寛いでいて欲しいと願っているが……」 「心より同感致しますところでございます」 「なのに、それを快く思わない奴もいたわけか。やはり許しがたい。今後はなんぴとたりとも、アリューシャに後ろ指など指させない」 その為か、仲睦まじい夫婦であると見せつけるように、宴でのグルーは距離が近かった。時おり私の肩を抱き、耳元で戦果について囁きかける。 「……それでな、首領格の元へ導いてくれるようにお前のくれた呪符が飛んでいったんだ。すごいだろう」 戦いの話なのに、これでは睦言みたいで、とにかく物慣れない私には刺激が強かった。 「グルー……あの、顔が近くて……どうしたらいいか……」 耐えかねて言うと、グルーは面白そうに笑って更に囁いてきた。 「そのまま、頬を染めていればいい。ありのままのアリューシャを見せてくれないか?」 こんなの、困る。蕩けるように甘すぎて、めまいがしそうだった。 アリューシャの生家である侯爵家の末路を明かさなかったのは、宴でひたすら照れるばかりの私を思いやっての事だった。 グルーは、侯爵家について一言も口にしようとしないまま、それを貫き通した。 だから、私は知る事もない。自分を売った家族の末路──その悲惨な最期を。グルーから仕事をもらえた私は、翌日さっそく盗賊討伐の時に護符などの書き物をしていた部屋へ向かった。「これは、奥様。旦那様よりお話は伺っております」「そうなのね、あなたに──あなたの名は何と言うの?」「カシウスでございます」「じゃあ、カシウス。前に私が書いたものは、初めてでも書ける比較的簡単なものだったのよね?」「はい、きちんと書ける事が大事でしたので」「おかげでグルーにきちんと渡せたわ、ありがとう。──今度は、もっと強力な護符と呪符を書きたいの」「お礼には及びません。──強力なと申しますと、それだけ書くのも難しく複雑になりますが……」「構わないわ。頑張って書くから、参考になる見本の書物があれば貸してもらえるかしら?」「奥様が旦那様のお為に、そこまで……お見えになられた当初より、ずいぶん変わられましたね」「それは、私も変わらなければ……誰の為にもならないもの」アリューシャはよほど辺境伯家に馴染めていなかったみたいね。拒んでいたからこそ私がアリューシャにされたのだから、それもそのはずかもしれない。私の言葉を聞いたカシウスは、心底嬉しそうに笑みを浮かべて頷いてくれた。「奥様が旦那様を思って下さる事は、辺境伯家において何よりも喜ばしい事でございます。かしこまりました、書くのは困難になりますが見本をお渡し致します」「ええ、お願いするわ」書庫からカシウスが出してくれた見本の書物は古めかしくて、開いてみると確かに私が書いたものより遥かに複雑な書き方だった。でも、これを書けたら──もっとグルーを助けられる。私はもっとグルーの役に立ちたい。叶うならばグルーを支えられるようになりたいけれど……でも、グルーにとって私はまだ未熟な女の子でしかない。だからこそ、もらえた仕事は手抜きなく念入りに仕上げたい。グルーを驚かせるくらい。その一心で、私は私室にも持ち込んでペンを進めていた。「──奥様、今宵も遅くまで書かれておいでで……根を詰めてはお体によろしくありません。どうかお休みになられて下さいませ」「待って、もう少し……あと一時間くらい書いたら、きりのいいところまで書けるから」「旦那様のお為にと頑張られる奥様は素敵ですが、頑張りすぎては旦那様が心配なさいますよ、私どもも奥様がお体を壊されないか気に病みますし……」「エミリー、ごめんなさいね。皆に心配
──所は変わって、王宮の王太子夫妻が住まう宮殿では、エスター様が奔放な振る舞いをされていた。「王太子殿下ならびに王太子妃殿下、トリステア帝国の宰相が予定通り三日後には王国にお見えになります。お出迎えは国王陛下より任されておりますゆえ……」「分かっている。エスターも大切な貿易相手国だ。丁重にもてなさなければならない事は理解してるだろう」「はい、仰せの通りに。妃殿下には王国とトリステア帝国の関係性につきましても、……説明させて頂いております」トリステア帝国には、主に麦と武器を輸出している。王国は良質な鉄の産出国として知られていて、作られる武器も値打ちが高い。その高価な武器を惜しむ事なく輸入してくれる帝国は、格好の取り引き相手だった。だけど、お嬢様として華やかに生きてきたエスター様には今ひとつ呑み込めないらしい。エスター様の私室では、専任の教師が口を酸っぱくして話す事にも半ば諦めた様子で、妥協策を見いだそうとしていたようだ。「妃殿下はまだ、トリステア帝国の言語を習得なさっておいでではございませんので、通訳を付けさせて頂きます」「ええ、頼むわ。──あのような戦に明け暮れる野蛮な国の言語でも、今後は覚えなくてはならないのね」「妃殿下に申し上げますが、国庫を思えば、そのように軽んじてはなりません」「もう、お説教は十分に聞いたつもりよ?」教師が言葉を失う。そこに、グロウラッシュ殿下が訪れた。「エスター、王太子妃教育は捗っているか?」「グロウラッシュ殿下!──はい、本日はトリステア帝国についてと、王国の建国神話についてお話を伺いましたわ」「建国神話?歴史では初歩的なものだが……」「それは、とても興味深くて何度も聞いてしまいますの」本当は覚えられずにいて、繰り返し聞かされている。しかし、その事実は明かせない。王太子妃としてのプライドが許さないし、何より教育が進まない事を殿下に知られたら失望させてしまう。そして、最も許しがたいのは──アリューシャと事あるごとに比べられてしまう現実だ。何しろ、アリューシャは幼い頃から家庭教師を付けられて学び、主要五カ国の言語も読み書き出来る。更には淑女としての礼儀作法にも通じていたのだから。それがエスター様には気に食わない。心に潜む劣等感を認める事すら許せない。──アリューシャ様は、勉学も進んでいたようだけれ
「グルーのいないお城は灯火が消えたようね……使用人ならば、それでも日々の仕事があるけれど……あら?」廊下を歩いていて曲がり角に来ると、掃除担当のメイド達が、箒を動かす手も止めてお喋りしている声が聞こえてきた。でも、その内容は通り過ぎるにも引き返すにもいかない、看過しかねるものだった。まだ若さを残すメイドが、しきりに私への陰口を叩いているのだから、見逃せという方が無理だ。「旦那様も、とんだ貧乏くじを引かされたものよね。ようやく妻を娶る事になっても、あんな悪評高い令嬢だなんて。だから子を成す事も控えてらっしゃるんでしょ」「ちょっとアーシャ、言い過ぎよ。それに旦那様は仰っているじゃない、奥様はまだ出産を経験させるには若すぎて危険だって」「何よ、それってつまりは幼稚すぎて、女としての魅力がないって意味でしょ?見れば分かるじゃない。細身なのはまだ良いとして、あの細すぎて貧相な胸に腰ときたら」「誰かに聞かれたらどうするの?奥様への侮辱よ、許される内容じゃないわ」「私は事実しか言ってないでしょうに。奥様が悪評ばかりだった事も、女性の魅力に欠ける事も」私は相手の暴言を引き出すだけ引き出してから、メイド達の前に出た。「──ずいぶん楽しそうな話をしているわね」「お、奥様!」「そこのあなた。当主の妻である私を否定する事は、そのまま当主を貶める事になると知っていて?当主を敬えない使用人なんて辺境伯家には不要なのよ?」「そんな、奥様……私は旦那様を貶めるつもりなどございません!」「それにしては品位に欠ける発言を延々としていたでしょう。あれら全てが、あなたの主を見下しているからこそ言えるものなのよ。──衛兵をここに」「お待ち下さいませ、奥様!私は……」「言い訳は私の耳に障るわ。衛兵、この女を城外に叩き出して」「そんなっ……奥様の気持ち一つだけで、仕えてきた使用人を勝手に解雇したと知れば、旦那様も黙ってはおりません!」「ええ、黙ってはいないわね。グルーの留守を預かる妻が貶されてはね。鞭打ちと追放だけでは済まないでしょう」独断だけれど、主の妻を認めない使用人は城を蝕む事に繋がる。自由と好き勝手は違うのよ。「私の事が言われていたから、私は追放だけで済ませてあげるのよ」「奥様!私は……ちょっと離して!誰か!あんたも見てないで助けなさいよ!一緒に話してたでしょ
討伐の準備で慌ただしそうな城内を歩いていて、私は多くの人が出入りする部屋を見つけて覗いてみる事にした。すると、机に向かって何かを書いている人が集まっていた。皆、近寄りがたいくらいに真剣な顔つきだ。「あの、──ここは何をしている部屋なの?」「お、奥様!」辺境伯家については無関心を貫いていたアリューシャが関心を持つだなんて、よほど驚かせてしまったみたいだけど……。「皆ペンを持っているわね。何を書いているの?今度の討伐でグルーが家を空けるから?」辺境伯家の執務についての割り振りかと思ったのだけれど、対応してくれた者はやんわりと違う事を答えてくれた。「奥様、当たらずとも遠からずでしょうか。これは執務とは違うのですが……戦に使う守護用の護符と、罠を仕掛ける為の呪符を書ける者が総出で書いております」「護符と、呪符……」「はい、世界でも我が国、いいえ、この辺境伯家にのみ伝わる文字で書かれた特別なものです」「……それは、私にも書けるかしら?」「え?あの、奥様?」「いえ、そのっ、……グルーの持つものは私が書こうかと思っただけだけれど……こんな素人では役立たずよね」出しゃばったようで、恥ずかしさに顔が熱くなる。説明してくれた者も、ぽかんとしているし。「やっぱり、こういうのは書ける力を持つものが書いてこそよね、失礼したわ」「──奥様!お待ち下さい。お教え致しますので、ぜひ旦那様の分を書いて頂けますか?」「でも、忙しそうにしているわ。私に手間をかけては、迷惑に……」「いえいえ、奥様が手ずからお書きになられた護符と呪符を持てば、旦那様は無敵でしょう。ぜひお力をお貸し下さい」「……本当に良いの?」「はい、もちろんです。僭越ながら私がお教え致しましょう」素人の書いたものでは、単なる紙でしかないかもしれないのに……それでも、グルーの役に立てると言ってくれる。「ありがとう。お願いするわ」こうして、私は室内に入って護符と呪符に使われる文字について教えてもらえた。見た事もない文字だから当然読めない。読めない文字は見よう見まねで書くから、難しくて時間がかかる。私は参考にする書物を借りて、自室でも夜更かしして書き続けた。それから、グルーが出立する前夜──。「……書き上がった……」少し不格好な文字の護符と呪符が仕上がった。こんな事、グルーの為に頑張って
──そうして、辺境伯家で新しい生活に馴染もうと努めている中で。「──何かね、グルーの役に立ちたいと思うのよ」私は辺境伯家に仕えている執事長のウァジリーに、こう相談していた。すると、意外な返事が返ってきた。「奥様、奥様の持参金にも巨額の価値がございます。辺境伯領が十分に潤うのですよ」「巨額の価値……?」傾いた侯爵家に、そんな値打ちのあるものが出せるわけがない。しかも私は売られた身だ。「──何の話をしてるんだ?」そこに、折りよくグルーが入ってきた。「グルー、あなたは私の持参金を納得した上で受け取られたのですか?」「もちろんだ。トリーティ山こそアリューシャの持参金として相応しいと思ったからな」トリーティ山。侯爵家の避暑地で、夏をすごす別荘がある場所だ。嫁入りの際に婚姻の作法に則って、持参金として辺境伯へ贈られたのが、この山だけとは。「侯爵家からは、娘に持たせる持参金は用意出来かねる為、代わりに領地の一部をと打診されていた」娘が嫁ぎ先で恥をかく事くらい分かりきっていただろうに、それでも持参金を持たせられない程、侯爵家は困窮しきっていたのね……。「俺は領地を見て巡り、農地の改良点を侯爵家に伝えたのち、トリーティ山を持参金にと申し出る事にした」ゲームのシナリオ通りなら、せっかく改良点を教われたとしても、あの家は活かせる事なく没落する。──でも、今はそれよりもグルーがトリーティ山を望んだ事実よ。何しろその山は、アリューシャが幼い頃に川遊びで砂金を見つけた山でもあるから。そこには恐らく──推察が正しければ、金鉱脈があるのだろう。巨額の価値とは、つまりそういう事だ。麦や家畜といった農作物がとれる土地や、侯爵家に残された宝飾品などより、よほど旨みがある。それを察して、心が冷えてゆくのを感じた。「没落し、後ろ指をさされる貴族の娘を娶るとは、物好きもいたものだと思いましたが……一枚岩ではなかったようですね」「待て、何か誤解があるようだが──」「誤解とは?私に持参金として金鉱脈を持たせられれば、辺境伯家は莫大な富を得ますよね。こんな悪評高い私でも、得られるものが大きければ目を瞑れるものでしょう?」「それは間違ってる。俺はお前の親からの説明では、トリーティ山について「侯爵家の避暑地があり、アリューシャが己の身分も弁えず、泥混じりの川で川遊びなど
私が暮らしていた世界に置いてきてしまった、家族、友人、仕事、趣味、娯楽。様々なもの達に心残りはもちろんある。叶うなら元の生活に戻りたい気持ちも残っている。それでも、──アリューシャとしてでも生きている限り、お腹はすくし、眠りもする。何より、グルーや使用人達が甲斐甲斐しく面倒を見てくれるおかけで、心はともかく体は元気を取り戻していった。そうして、普通に動けるようになると、グルーはさっそく王都のデザイナーを呼び寄せた。「奥様は細身でございますし、お肌もお美しいですから……それらを活かしたドレスに致しましょう」デザイナーが採寸しながら話して、次々とデザインされたドレスは、どれも豪奢に宝石をあしらったりしてこそいなくても、アリューシャの残した記憶の認識で安物ではないと分かる。一見するとシンプルなようでいて、レースや刺繍の施し方といった細かいところの意匠が凝っている。侯爵家で着飾られていた頃の華やかな感じこそないものの、質素ではなく、むしろ高級感があり高貴に見えるドレスばかりだ。「あの、これでは贅沢すぎませんか?普段使いのドレスですよね?」しかも数が多すぎる。何でグルーが突然こんな甘やかし方を始めたのか、さっぱり分からない。だけど、衣装合わせを手伝うエミリーは楽しそうに笑うばかりだ。「それは、旦那様は奥様に新しいドレスをあつらえて差し上げたがっておりましたもの。ようやく機会を得て、嬉しくて仕方ないのでしょう」確かにアリューシャの記憶では、グルーに新しいドレスをねだる事もなく、手持ちのドレスを着古していたけれど……。「……私、そんなにみすぼらしく見えていたのかしら?」「そうではございませんよ、奥様。旦那様は奥様に心細い思いをさせまいと願っておいでなだけです」「グルーが?」「──失礼する。アリューシャ、まだドレスが足りないようなら……」そこに、グルーが来て更にドレスを増やそうとするものだから、私は焦って言い返した。「十分すぎる程です、もう季節ごとに十着も作って頂いたのですよ?」そう、合計すると四十着にもなる。あまりにも多い気がしてならない。だけどグルーは平然としている。「──お前が侯爵家から持ってきたドレスは六着。夏用と冬用が二着ずつ、春と秋はたったの一着だ。もう着るものにも困るような生活はさせない」アリューシャ……痩せ我慢して意地