LOGIN討伐の準備で慌ただしそうな城内を歩いていて、私は多くの人が出入りする部屋を見つけて覗いてみる事にした。
すると、机に向かって何かを書いている人が集まっていた。皆、近寄りがたいくらいに真剣な顔つきだ。 「あの、──ここは何をしている部屋なの?」 「お、奥様!」 辺境伯家については無関心を貫いていたアリューシャが関心を持つだなんて、よほど驚かせてしまったみたいだけど……。 「皆ペンを持っているわね。何を書いているの?今度の討伐でグルーが家を空けるから?」 辺境伯家の執務についての割り振りかと思ったのだけれど、対応してくれた者はやんわりと違う事を答えてくれた。 「奥様、当たらずとも遠からずでしょうか。これは執務とは違うのですが……戦に使う守護用の護符と、罠を仕掛ける為の呪符を書ける者が総出で書いております」 「護符と、呪符……」 「はい、世界でも我が国、いいえ、この辺境伯家にのみ伝わる文字で書かれた特別なものです」 「……それは、私にも書けるかしら?」 「え?あの、奥様?」 「いえ、そのっ、……グルーの持つものは私が書こうかと思っただけだけれど……こんな素人では役立たずよね」 出しゃばったようで、恥ずかしさに顔が熱くなる。説明してくれた者も、ぽかんとしているし。 「やっぱり、こういうのは書ける力を持つものが書いてこそよね、失礼したわ」 「──奥様!お待ち下さい。お教え致しますので、ぜひ旦那様の分を書いて頂けますか?」 「でも、忙しそうにしているわ。私に手間をかけては、迷惑に……」 「いえいえ、奥様が手ずからお書きになられた護符と呪符を持てば、旦那様は無敵でしょう。ぜひお力をお貸し下さい」 「……本当に良いの?」 「はい、もちろんです。僭越ながら私がお教え致しましょう」 素人の書いたものでは、単なる紙でしかないかもしれないのに……それでも、グルーの役に立てると言ってくれる。 「ありがとう。お願いするわ」 こうして、私は室内に入って護符と呪符に使われる文字について教えてもらえた。 見た事もない文字だから当然読めない。読めない文字は見よう見まねで書くから、難しくて時間がかかる。 私は参考にする書物を借りて、自室でも夜更かしして書き続けた。 それから、グルーが出立する前夜──。 「……書き上がった……」 少し不格好な文字の護符と呪符が仕上がった。 こんな事、グルーの為に頑張ってみている私は何を考えているのだろう? だけど、王都でのドレスのお礼もしたいし、グルーはアリューシャ──私に優しいし。 その感謝も込めて、なのだから。 「……気疲れしたわ……今夜は寝よう」 薄い寝間着姿で机に向かっていたから、体も冷えているし。 私は温かいベッドに誘われるように潜り込んだ。 ──だから、気づかなかった。 机に置いた護符と呪符が、一瞬だけ、ちかっと光を放った事に。 そのまま深い眠りに就いて、日の出までぐっすりと良く寝て、久しぶりに清々しい目覚めを得た。体も軽い。 表では出立の準備が整っているらしい。男の人の声がしきりに行き交っているのが聞こえる。 その中にはグルーもいるのだろうか。私はエミリーを呼んで、急いで身支度を整えて外に向かった。 案の定、グルーもいる。 「妻に、行ってくると挨拶もなしに戦いへ赴くのですか?」 「アリューシャ……こんな朝早くから、どうして出て来たんだ?」 「グルーが私に無言で行こうとしているからです」 「それは……すまなかった」 「いえ……あの、これを渡したいんです」 私は手にしていた二枚の紙を差し出した。 「──これは、護符と呪符か?」 「はい。……私みたいな無力な者が書いた代物ですけど……持って行って下さい」 押しつけるように手渡すと、グルーは信じられないと言いたげな目つきで手にしたものを見つめている。何だか居心地が悪いというか、落ち着かない気持ちだ。 「──それでは、行ってらっしゃいませ」 「──アリューシャ」 耐えかねて背を向けると、グルーが声をかけてきた。 「ありがとう、これは最強の護りになるだろうな」 「……大袈裟です……」 グルーはずるい、そう思った。だって、こんなに嬉しそうに笑ってみせるなんて。 「じゃあ、行ってくるよ。最速で賊を倒して首領格の首を持ち帰る」 「……はい、お気をつけて」 グルーが身軽な動作で馬に乗る。 「我が妻の守護があるぞ、必ず目的は達成される!いいな!」 「──はい!」 グルーと私のやり取りを見ていた人達も盛り上がって声を上げた。 「行くぞ!」 掛け声と共に蹄の音を響かせて、グルーと彼らの姿は見る見るうちに小さくなった。 「──奥様、そろそろ中に戻りませんと……」 「え、ええ。そうするわ」 渡すものは渡せたし、これで良いのよね? 力になれるかは疑問だけれど、グルーは喜んでくれていた。 それでいい。そう自分を納得させながら自室に戻る私とは裏腹に、グルーはこの日の野営で悩ましげに溜め息をもらしていた。 「……最近、おかしいんだ……」 「……何か、お体の具合でも悪いのですか?」 「いや、俺は健康だ。そんな事より、アリューシャの事は元より美しいと思っていたが、最近は可愛すぎるように見えてしまうし、正直に言えば抱きしめたいし口づけたい」 「はあ……」 「だが、そんな事をしてしまえば、理性を保てなくなるという確信があるから、怖くて触れられないんだよ……」 がっくりとうなだれたグルーに、聞かされていた部下は容赦なかった。 「正直に打ち明けて下さった旦那様に応えて正直に申し上げますと……」 「何だ?」 「飢えた馬でも食いつかない惚気け話でございますね」 「……お前には、これが惚気けに聞こえるのか……生殺し状態なんだぞ?」 「聞こえますので、どうぞ悶えていて下さい」 「大概ひどい部下だな……」 「戦場で雄々しく戦って下されば、あとは旦那様のご自由にしていてよろしいですよ?」 「……分かってるよ、アリューシャに耳汚しな話なんて持ち帰れるか」 グルーは散々に言われてから、気持ちを切り替えて馬を走らせ、賊の痕跡を見つけた。 気配を絶って、手筈通りに作戦を進めてゆく。 「旦那様、呪符で退路を断ちました。合図で総攻撃に入ります」 「よし、相手はまだ気づいてないな?」 「はい、呑気に酒をあおっています」 「数は?」 「ざっと見て、五十くらいかと」 「よし、精鋭を集めた小規模な軍勢で正解だったな。──行くぞ」 「はい!」 そこから一気に襲いかかる。気分良く酔っていた賊達は奇襲を受けて、無様に倒される者もいれば、これも覚悟のうちと武器を構えて応戦する者もいた。 けれど、辺境伯の部隊は歴戦の猛者が揃っている。退路も塞いでいる事から、個々が戦いに集中し、圧倒的な力をふるって制圧してゆく。 とうとう賊の首領格は、敗北を前にして我が身可愛さで手下を見捨てて、単身で逃走を図った。 「──お前達は残党を根絶やしにしろ、あいつは俺が追う!」 グルーが命じて、ここからは馬に乗っているより足で追った方が小回りが効くと判断した。 「必ず遂行してみせるからな。──アリューシャ、お前からの護りを無駄にはしない」 そう呟き、呪符を手にして目を光らせていると、一陣の風が吹いて手から呪符が離れて風に乗った。 「待て、お前は大事な……」 手を伸ばして掴もうとするものの、呪符は不思議な動きで宙を舞って木立へと向かう。 ──おかしい。まるで風が呪符を操っているかのようだ。 そう感じながらも、グルーは呪符を追いかけた。 「──よっ、と……もう離さないぞ」 やっと捕まえた。そう安堵した瞬間、木陰に人が見えた。 相手は走り出そうとする。明らかに──逃げようとしている。 咄嗟に追って腕を掴み、こちらを振り向かせた。 そして相対するのは、まさに今回狙っていた男だった。 「……よお、オリガー。会いたかったぞ。よくも再三国境を荒らしてくれたな」 「ひっ……!」 「お前の手下は全滅だ。奴らの地獄行きには相応の手土産が必要だろう?」 笑いを浮かべて凄むと、オリガーは身の程も弁えずに足掻き始めた。 それが更に殺気を高めるとも知らずに。 「頼む、命だけは助けてくれ。何なら奪ってきた品物を差し出すからよ。──これなんてどうだ?王都で悪女と名高いアリューシャ・ダンテモレの宝飾品だぞ!贅沢三昧してただけあって一級品だ!」 「アリューシャ・ダンテモレ?あいにくだな、アリューシャはもうアリューシャ・ハイラアットであり、俺の妻だ」 「は?あんたの、何だ?」 「侯爵家が王都から夜逃げを図った事は耳にしていたがな、アリューシャのルーツを穢したお前には地獄に堕ちてもらう」 「ま、待て──がっ……!」 「命で詫びろ、下衆が」 「旦那様……奥様が着けてらした宝飾品という事は、奥様のご家族は賊に……」 「……あいつには聞かせられないな」 駆け寄ってきた部下が言いにくそうに言葉を途切らせると、グルーは苦い顔をして、こみ上げる憤りに耐えた。 ──おそらく、アリューシャの家族の亡骸は打ち捨てられて獣に食い荒らされているだろう。墓を立てて弔う事すら叶わない。 「この事は他言無用だ。──頼む」 「……はい」 「賊は一人残らず始末したな。こいつらは悪逆非道な罪人として晒し首にする。持ち帰り、討伐は無事完了させた事を報告する」 「かしこまりました、旦那様」 グルーは見えない骸に向かって短く祈りを捧げてから身を翻した。 その頃の私は、辺境伯家の城で何も知らないまま留守を預かっていた。 グルーという守りのない城で。──懐妊が分かって数日。流産を狙われそうだと、粗末な食事さえも口にする事を控えながら耐えていたけれど。ある日の朝食で、大きな変化に私は驚きを隠せなかった。香ばしい匂いがする柔らかい焼きたてのパン、湯気をたてる具のたくさん入ったスープ、ソーセージと玉子料理、温野菜のサラダにカットした果物までついている。「これは……一体どういう事なのかしら?」運んできたメイドも、見慣れた無機質な人ではない。彼女は微笑んでから、声をひそめて答えた。「国王陛下と王妃殿下の計らいでございます。毒味も済んでおりますので、ご安心下さいませ」「国王夫妻の……?」「はい。これまでは、王太子夫妻の手筈で供されていたのですが……厨房には、罪人に施す食事だと仰せになられていたのです。それをお知りになられました国王陛下が……」つまり、これまでは王太子夫妻の独断専行で私を虐げていたのね。国王陛下も同意の上だとばかり思っていたけれど。「お部屋も陽当たりの良い客室に移って頂きますわ、何しろ辺境伯夫人はお子を宿した大事な時でございますから」「……それは助かるのだけれど、王太子夫妻は許すのかしら?」「──辺境伯夫人、これは王命でございますので、王太子殿下でも覆す事は出来かねますのよ」「王命……わざわざ手を差し伸べて下さったのね」「はい、さようでございます。この扱いをお知りになられた陛下のお怒りは、相当なものでございましたので。厳しい叱責を受けた王太子殿下と妃殿下には、近いうちに何らかの処罰がなされるかと」「そう……分かったわ、ありがとう」食事に使われている食器も銀食器に変わっていて、色は磨かれて輝き、変色は見受けられない。あまりにも扱いが急変した事で戸惑いはあるものの、今は冷めないうちに頂くべきだと思う事にした。「では、頂くわね」「はい、どうぞお召し上がりくださいませ」そっとスープを口にする。滋味に満ちていて美味しい。温かさに、ほっと息を
……人はなぜ、希望と絶望をもって生きるのか?それらの根源はどこにあるのか?きっと、それらは同じところから生まれているのよ。──人が人として生きていることから生まれるものなの。人は生きていれば望みを持ち、時に期待は裏切られ、失意に陥る。それでも生きている限り、人は希望を捨てきれない。生きる望みだから。光と影よ。希望を持てば、影には絶望が潜んでいる。失望と諦念を繰り返し、人は何かを得たり失ったりしても、生きることが性根にあるから再び立ち上がり歩み出す。生きていれば、失ったものを繰り返し思い出して胸を痛めはする。けれど、得たものを繰り返し反芻して味わい心を癒すもの。そうやって生きてゆき、最期に、「悪くはない人生だった」と思えるように足掻くのよ。その最期は、生きることを頑張った人間への最後のご褒美なの。誰だって、悔やみながら命を終えたくはないから、だから自分の人生を生きるのよ──。私は、孤独な王宮での生活で、そう自分に言い聞かせて励ましていた。グルーからの愛情を信じているから。──そして、私が王宮に滞在……軟禁されている間にも、グルーは国王陛下に「我が妻の返還を」と嘆願し続けていた。国王陛下も度重なれば黙ってはいられない。王太子殿下を呼び出して注意する。「ハイラアット辺境伯から、再三の書簡が来ている。妻を返すようにと。──ハイラアット辺境伯夫人は、既に純潔を失い、今現在辺境伯の子を身ごもっている可能性があると。そのような女性に執着する事は王太子としての資質を問われると知りなさい」国王陛下が苦言を呈すれば、皇后陛下も口を揃える。「元はと言えば、王太子妃の悋気と我がままであろう?お前は夫として、妻の事も治められはしないのか?既婚女性を側妃になどと、王室の品格が損なわれるものだというのに、なにゆえ妻の勝手を許している?」「……申し訳ございません……」両親であり、国の頂点に立つ国王陛下と皇后陛下には、王太子殿下も頭を下げるしかない。それを、王太子殿下は快く思わない。執務室に戻ると、不快をあらわにしてグルーを目の仇にし、暴虐な思考に走った。「グルー……あやつは捕縛して亡き者にせよ。亡骸は燃え盛る炎に投じて、残された遺骨は粉々に砕け。そうして、アリューシャの目の前で撒き散らせ。さすれば彼女も己の身の上の儚さを思い知るだろう」王太子殿下は、目を禍
──それから十日以上を費やして、必要最低限が保証されただけの、快適さとは無縁な馬車の旅も終わりとなり、私は望まぬ王宮に入って居室を与えられた。そこは日当たりも悪く、調度品も生活に必要な物だけが置かれた貧相な部屋だった。入浴するにもお湯はぬるくて少なく、髪も肌もよく洗ってはもらえない。運ばれてくる食事も質素というより、王宮の料理人が作ったとは思えないくらいお粗末なもので、到底側妃候補として遇されているとは言えなかった。しかも、自由に部屋を出る事は許されない。まるで独房に閉じ込められて、処罰を待つ罪人かとも思えた。けれど、例外としてエスター様のお呼びがあれば、部屋を出て出向く事になる。妃殿下の命令みたいなものだから、私が部屋にこもっていたくとも拒否権はない。「──よく来たわね、ガネーシャ」「王太子妃殿下にご挨拶申し上げます……」エスター様は、よく通る声で鷹揚に居丈高に話しかけてきて──うるさくて耳が痛くなる。それを堪えながら、久しぶりに見るエスター様の姿に驚いた。──これ……エスター様は生地をことさらたっぷり使って、体型が分かりにくくなるようなデザインのドレスを着ているけれど……体を隠してごまかしても、肉付きで丸くなった顔や、たるんだ顎までは、髪を結い上げずに垂らしても隠しきれていない。グルーの助言は無駄に終わったようね。明らかに暴飲暴食を日常的に繰り返して太っている。あまりにも変貌が激しくて、本当にゲームではヒロインだったのか、それすら信じがたくなった。愛くるしい顔だったはずのエスター様は目つきも荒んで、まるで蛇のように鋭くぎらついている。元より立場として許しなく話せはしないのだけれど、それでも私はエスター様の姿に言葉を失った。それをどう思ったのか、萎縮している敗北令嬢とでも見ているのか、小気味が良さそうに言葉を繰り出す。「──明日は令嬢達を集めてお茶会を開くの。あなたも出なさい。皆に紹介してあげるわ」「……ありがたく存じます……ですが、私は……」「辺境伯はお茶会に着るドレスも買ってはくれなかったの?可哀想にね。皆も理解してくれるわ、見苦しくない程度には装えるでしょう?いいわね?」「……かしこまりました。お誘いに感謝申し上げます」紹介も何も、私とて王都にいた貴族令嬢なのだから、社交の場にも顔を出していた。むしろ、私を知らない令
それから、何事もなく過ごせるようになると信じていた。──けれど、それは来訪者によって打ち砕かれた。辺境伯領を訪れたのは、王宮からの使者どころではなく……王宮にいるべき王太子殿下だったのだ。それも、私を王宮に差し出せと、それだけを命じる為に。本来ならば、たった一人の女の為に、王太子殿下が遠く離れた辺境伯領まで来るだなんてありえない。殿下は、そこまでエスター様の事を重んじておられるのか?それとも──いえ、これは考えたくもない。どちらにせよ、王太子殿下を城内に入れない訳にはいかない。貴賓の為の応接間にお通しして、グルーが応対する事になった。殿下は簡潔に、そして傲慢に迫った。「アリューシャを側妃として王宮に入れる事に、同意するよう命じに来た」お断りの書簡には、グルーがはっきりと私は既に純潔を失っているゆえ、入宮させる事は叶わないと書いていたのに、まるで無視している。当然ながら、グルーが頷く事などなかった。「アリューシャは、我が妻は私の子を宿しているかもしれないのです。にもかかわらず王宮に入れるなど出来かねます」「かもしれない、という事は確定している訳でもないだろう。子を宿していないかもしれない事になる。──一か月だ。アリューシャには一か月王宮に滞在させる。その間に月のものが来たならば、子は宿していないのだから、側妃として入宮してもよかろう」この言い草。私はグルーの正式な妻である事を考慮出来ていないし、もはやエスター様への心か、それとも妄執かで動いているようにしか見えない。私が居合わせていたら、怖気に倒れていてもおかしくない程に狂気的だった。「なぜ王室の権威だけで物事を進めようとなされるのですか?アリューシャ本人の意思と、私達夫婦の婚姻の事実を無視なされておいでです」「──屁理屈を聞きに来たのではない。ここには二日滞在して、アリューシャを連れて行く。これは決定事項だと思え」それは横暴だと言ってしまえば、グルーは不敬に問われかねない。事実すら諌める事を許さないのが、王太子殿下とエスター様なのだから。重苦しい雰囲気が立ち込める城内に、こうして王太子殿下は居座った。私はというと、その日の夜グルーが部屋を訪ねて来て、王太子殿下からの話を聞かされた。「──私はグルーから離れる事など御免こうむります。まして魑魅魍魎の住まう今の王宮に向かうなど、考
エスター様が御子を産んでから少しの時が経って、なぜか辺境伯家宛てに王家が書簡を送ってきた。その書簡を読んだグルーは、すぐに私を執務室に呼び出した。行ってみると、椅子に腰掛けて気難しげな険しい顔をしている。何か無理難題でも持ちかけられたのだろうか?「……王家からの書簡には、何と書かれていたのですか?」「どうやら、王太子妃殿下が大変な難産で女児をお産みになったそうだ」レモネードを口にしていたと王都では聞いたから、酸味を欲するなら男児で辛味を欲するなら女児という俗説の通りなら、男児かと思っていたけれど……悪阻があった間だけ酸味を好んでいたのかしら。「それは、母子共に無事でお産まれになったのでしたら、おめでたいと思いますが……」「問題はそこなんだ。どうも妃殿下は難産で体を弱くしてしまったらしい。二度と子供は望めない身になって……王太子殿下は殿下で、せめて夜を共にしようとしても、妃殿下に残った妊娠線を恐れて直視出来ずにいる、と」「妊娠線は、女性が身ごもった子を育んだ証ではないのですか?」「そうなんだがな……王太子殿下は世の中の綺麗なところばかりを見て育ったようだ」「わがままですわ、そんなの。ただの世間知らずではありませんか」「その通りだ。──しかし、現実問題として、妃殿下に世継ぎは出来なくなったし、王太子殿下と共寝も出来ずにいる」「それはお可哀想ですが……なぜ辺境伯家に書簡を?」「そこなんだ。どうやら俺はお前の夫というより保護者と見なしているとある」「……は?」「つまり、保護者として、お前を王太子殿下の側妃に差し出せと書いてあるんだ」「──身勝手にも程がございます」「俺もそう思う。第一、俺はお前の親代わりじゃない。手順を踏んで夫になった身だ」グルーははっきり断言してくれているけれど、もし強制的に王宮へ入れられたらと思うと、ぞっとする。王宮ではエスター様を妃殿下として崇拝する者も少なくないはず。そんな所に後釜として行けば、何をされるか分かったものではない。「私はグルーの妻です。王宮の問題は婚約者候補として敗北した過去がございますもの、既に無関係ですわ」「ああ。──念の為訊いておくが、王太子殿下に未練はないな?」「全くございません」言い切りながら、私をゲームのハッピーエンドを思い出していた。結婚式で祝福と幸せに包まれたエスター様
ある秋の日、グルーから執務室に呼ばれて相談を受けた。「調査を進めていたトリーティ山で、大規模な金鉱脈が発見されたんだが、お前はどうしたいか確かめたい」「私が、ですか?」「ああ、元はお前の持参した山だからな。山にも領民がいる事だし、民は神の黄金と崇めているしな」「そうですね……」私は考える素振りを見せたけれど、既に心は決まっている。「採掘に乗り出して下さい。山の民には安定した生活を保障して、守ってあげたいです」「分かった、そのようにしよう。領民の暮らしを守るのも貴族の務めだ」「辺境伯領には、金細工の工房も置きたいですね。腕のある職人を集められれば、特産にもなりますわ」「それはいいな、領民にも技術を磨かせれば、手に職を持てる。その分生活もしやすくなる」繊細な装飾品を作る技術を学ばせるには、長期的な計画が必要になるものの、手先の器用な人達だって領民の中にはいる。彼らの才能を活かせるようになる。「グルーは、今までお一人で領地の運営と国境の防衛を担われておいでだったのですよね?」「……そうだな、辺境伯家に仕えてくれている者達は頼もしいが、その彼らを守る事もまた、俺には大切な事だ」「全ての安寧と平和を願われてきたんですね」「アリューシャ……」「グルー、人は自分の人生という物語を各々が描きながら生きているものです。そこで人が何かを願い、それを叶える為に努力する時、そこには孤独が寄り添っております。──ですが、私達夫婦には孤独さえ分かち合う互いがおります事、忘れないで下さいね」「俺の妻は、日に日に逞しくなってゆくな。これ以上の力になる味方がいるか」グルーの眼差しが、あまりにも優しくて嬉しそうで、私はまだ大した事も出来ていないのに、そんなに幸せそうに言われたら彼を直視出来なくなる。「……私はグルーの、妻ですから。これから慌ただしさを増しますからね?お体は大事にしないといけませんよ?」グルーも私も、領地の運営は忙しくなるけれど、活気に溢れる事は喜ばしい。他にも、私の日々には楽しめる事が加わった。援軍を送ってくれた、マークシュタイン伯爵家のマリアナ夫人と、ホルストン子爵家のブランシュ夫人が、時おり辺境伯家を訪れて交流してくれるようになったのだ。彼女達は温和で話しやすく、また社交界の話にも通じていて、お茶会や会食の時は明るい話題を提供してくれて







