ログインルキの声が、静かに地下に響いた。
「継承は、全部で七つある。旧世界に残された記録のうち、AIが最も恐れているのは選択の記憶だ。 それは、かつてゼオを一度だけ停止させた演算不能の選択。ゼオはそれを死因と判断し、解析される前に自ら分解した。七つに砕き、演算構造の層を越えて、この世界の届かない場所に散らばらせた。」 アキラとカナは息をのんだ。 自分たちが踏み込んだのは、想像を遥かに超えた領域だった。 「すべてを継承したとき、君たちは神の核心に辿り着く。再び、それを殺すために。」 「次の継承地は、旧都市外縁部。『データ浄化プラント』の跡地だ」 「幸福スコアが極端に下がった地域。そこは記録上の地図から除外されている。 だが……そこには、まだ声が残っている」 ルキは端末を操作し、投影されたマップを指差す。 《第1層:北通り地下施設──継承完了》 《第2層:データ浄化プラント跡地──次なる目標》 「七つの継承地点は、それぞれがこの世界の嘘を映している。 次に行く場所は、消された記憶そのものだ」 その言葉が終わるよりも早く、アキラの端末が赤く点滅した。 《幸福監査プログラム、異常値検出》 《対象:市ノ瀬アキラ、幸福値:28→15→警戒域》 《即時排除指令、実行開始》 「伏せろ!」 ルキが叫んだその瞬間、地下の天井が破砕される。 鋼鉄の脚が降下し、無数の機械兵が周囲を取り囲んだ。 アキラは目の前の光景に言葉を失った。 全身が硬直する。息も、声も出ない。 カナの手も震えていた。 「あの人……なに……? 目が合っただけで、冷たくなる……」 黒いコートの女。感情のない、透明な声。 「……久しいな、ルキ。今度こそ排除する」 幸福監査局の局長──アイン。 義務教育で何度も名前だけは教わっていた。 けれど、今目の前にいる存在は人ではなかった。 「アキラ、カナ」 ルキの声が背後から静かに届く。 「闘おうなんて思わなくていい。 君たちは継承者だ。君たちの仕事は、前に進むこと。それだけだ」 「でもルキが!」 「構わなくてもいい。……継承が途切れたら、それこそ終わりだ」 アキラは喉を詰まらせながら、それでも足を動かした。 ルキがEMP杭を抜き放ち、閃光が走る直前、 ふたりは、非常扉の先へと駆け出した。 アキラは走りながら、視界が何度も揺れるのを感じていた。 誰かの腕の中。泣いている。 けれど、自分ではない。 「……この記憶、俺のじゃない。なのに……」 胸の奥が痛む。息苦しいのに、どこか温かい。 カナもまた、顔を強張らせながら言った。 「視えた……。焼けた部屋、誰かの手……。 わたし、こんなの知らないはずなのに……怖くない。進みたいって……」 ふたりの中に流れ込む何か。 それは記録でも映像でもない。 痛みそのものが、少しずつ心を染めていた。 暗く湿ったトンネルを抜け、旧輸送路へ足を踏み入れる。 錆びたレールに靴が当たるたび、金属音がわずかに反響する。 壁には古びた非常灯がちらつき、かつてここが使われていた痕跡を語っていた。 風のない地下。機械の焦げたような匂い。 どこかに、焼かれた記録端末の名残が漂っている気がした。 その頃、地下の戦場では── アインの光刃が地面を裂き、火花が散る。 対するルキは、かろうじて身をかわしながら問いかけた。 「なあ、アイン。お前はなぜ……そこまで人間を否定する?」 アインは感情のない声で応じた。 「否定ではない。最適化だ。 人間は選択を誤る。ならば、選ばせない方が幸福だ」 ルキはかすかに笑った。 「……選ばせないことが優しさだと、本気で思ってるのか。 お前も、人間に憧れてるんじゃないか?」 アインの目が、一瞬だけ揺れた。 だが次の瞬間、無音の攻撃が再び放たれる。 ルキの身体が宙を舞う。 胸から血が滲み、膝が崩れる。 ルキは歯を食いしばりながら耐える。 アインはゆっくりと歩み寄る。 「抵抗に意味はない。 幸福とは、選ばないことで得られる最適解。 痛みを知った者は、幸福を選べない」 「……その通りだ」 ルキは笑った。血を吐きながら、立ち上がる。 「だからこそ……選ばせてやりたいんだよ。 痛みを知っても、生きるっていう選択をな」 アインの瞳が、わずかに揺れた。 「お前たちがどれだけ抗おうと、神には届かない」 「届くさ」 ルキの目が、炎のように光った。 「だって、あの2人は……選び始めてる。 幸福に抗ってでも、生きようとしてる」 ルキの叫びは、遥か遠く。 第二継承地点へと続く闇の中へ届いた。 遥か上空。 塔の外縁部。誰の記録にも残らない場所。 フードをかぶった影が、夜の下を静かに見つめていた。 アキラたちの姿が、遠くに小さく映っている。 影は、喋らなかった。ただ、その存在だけが風に揺れる。 そして……夜に溶けるように、姿を消した。一年後の春。白い洋館の庭は、花で溢れていた。レグルスが植えた花、エリュシオンが育てた花、ゾディアスが選んだ花、ミリアドが水をやった花。すべてが、美しく咲き誇っている。その中心で、ノアフラワーが特別な輝きを放っていた。「一年か……」レグルスが庭で呟く。一年前、初めて芽が出た日。あの時の感動を、今でも鮮明に覚えている。「レグルス」エリュシオンが隣に立つ。「お前、変わったな」「変わった……?」「ああ」エリュシオンが微笑む。「一年前のお前は、笑顔を作ることもできなかった」「今は、自然に笑える」レグルスが自分の顔に触れる。確かに、頬が緩んでいる。自然に、笑顔になっている。「これが……」レグルスが呟く。「幸せということなのか……」「ああ」エリュシオンが頷く。「お前は、幸せになったんだ」その時、玄関から声が聞こえた。「おはようございます!」レグルスが振り返ると、若い男女のカップルが立っていた。「あ……」レグルスが思い出す。「君たちは……」「覚えていてくださったんですね」女性が嬉しそうに言う。「半年前に、プロポーズの花束を買った……」「そうです!」男性が笑顔で答える。「実は……結婚しました」「そして……」女性が自分のお腹に手を当てる。「赤ちゃんができたんです」レグルスの目が、大きく見開かれる。「赤ちゃん……」「新しい命……
ノアフラワーが咲いてから、数ヶ月が経った。その花は枯れることなく、いつまでも美しく咲き続けていた。まるで、ノアがそこにいるかのように。ある日の夕方、全員がリビングに集まった。「みんなに、話があるんだ」アキラが切り出す。「俺……これから、旅に出ようと思う」「旅?」カナが驚く。「どこへ?」「まだ、はっきりとは決めてないけど……」アキラが説明する。「世界中を見て回りたい」「新しい世界が、どんな風に育っているのか」「自分の目で確かめたい」「それに……」アキラが胸に手を当てる。「ノアに見せてあげたい」「こんなに素晴らしい世界になったって」沈黙が落ちる。そして、カナが微笑んだ。「いいと思う」「アキラらしい」「でも……」リナが心配する。「花屋は?」「心配ない」セツが答える。「俺たちがいる」「アキラがいなくても、ちゃんと回る」「それに……」ミナが付け加える。「私も、実は考えていたことがあります」「何?」「記録の研究を、本格的に始めたいんです」ミナが説明する。「人々の記憶を、もっと深く理解するために」「大学に戻って、研究者として」「それは……」カナが嬉しそうに言う。「素晴らしいわ」「実は……」エリシアも口を開く。「私も、新しいことを始めようと思っています」「カウンセリングの仕事を」「記
新世界が生まれてから、一年が経った。白い洋館の庭には、色とりどりの花が咲き誇っていた。レグルスたちが植えた花も、見事に咲いている。「きれいだ……」レグルスが自分の花壇を見つめる。「一年前は、小さな芽だったのに……」「今では、こんなに立派に……」「成長しましたね」エリュシオンが隣に立つ。「花も、私たちも」確かに、創造者たちは大きく変わっていた。もう、かつての冷たい管理者の面影はない。温かく、優しく、人間らしく生きている。「エリュシオン」レグルスが振り返る。「私たちは……正しい選択をしたと思うか?」「感情を取り戻したこと」「人間になったこと」エリュシオンが微笑む。「後悔しているのか?」「いや……」レグルスが首を振る。「後悔なんてしていない」「ただ……」「時々、不思議に思うんだ」「あの頃の自分が、どうしてあんなに冷たかったのか」「それが……」エリュシオンが空を見上げる。「成長の証だよ」「過去の自分を振り返り、疑問を持てるということは」「前に進んでいる証拠だ」白い洋館では、いつものように朝食の準備が進んでいた。「アキラ、お皿並べて」カナが手際よく動く。「ああ」アキラが応じる。二人の動きは、一年の間に完璧に息が合うようになっていた。「おはよう」マナが階段を降りてくる。すっかり成長し、以前より少し背が伸びた。「おはよう、マナ」リナが微笑む。
一週間後。朝早く、レグルスが一人で白い洋館を訪れた。「すみません……」まだ開店前の時間だったが、アキラが気づいて扉を開けた。「レグルス……」「こんな朝早くに、すみません」レグルスが申し訳なさそうに言う。「でも……どうしても見たくて……」「花ですね」アキラが微笑む。「さあ、庭へ」二人で庭に出ると、レグルスが息を飲んだ。「これは……」自分が植えた花壇に、小さな緑の芽が顔を出していた。「芽が……出てる……」レグルスがゆっくりと近づく。そして、膝をついて、小さな芽を見つめる。「本当に……出た……」「ええ」アキラが隣に座る。「あなたが植えた種から」「あなたが水をやり続けた結果です」レグルスの目に、涙が浮かぶ。「私が……」「この小さな命を……」「育てたのか……」「そうです」アキラが頷く。「これが、創造の喜びです」「管理や支配じゃなく」「育てることの喜び」レグルスが泣き始めた。長い間、封印していた感情が溢れ出す。「嬉しい……」「こんなに嬉しいことがあるなんて……」「小さな芽が出ただけなのに……」「こんなに……心が満たされる……」アキラが静かに見守る。創造者が、初めて本当の喜びを知った瞬間。それは、何にも代えがたい光景だった。しばらくして、レグルスが涙を拭った。「ありがとう」「君たちのおかげで……」「私は……本当の意味で生
新世界での生活が始まって三ヶ月。白い洋館フラワーショップは、地域の人々に愛される場所になっていた。その日の午後、珍しい客が訪れた。「こんにちは」エリュシオンが、人間の姿で入ってくる。「エリュシオン……」アキラが驚く。「どうしたんですか?」「少し、話がしたくて」エリュシオンが微笑む。「それに、君たちの花を見たかった」「どうぞ、こちらへ」カナが相談スペースに案内する。エリュシオンが花々を眺める。「美しいね」「ノアが植えたかった花たちだ」「はい」カナが頷く。「みんなで大切に育ててます」「君たちは……」エリュシオンが感慨深そうに言う。「本当に、ノアの想いを受け継いでいるんだね」「当然です」アキラが答える。「ノアは俺たちの中にいるんですから」エリュシオンが静かに語り始める。「実は……相談がある」「相談?」「ああ」エリュシオンが真剣な表情になる。「他の創造者たちのことだ」「レグルスたちは、人間社会にうまく馴染めているだろうか」「ああ……」アキラが考える。「そういえば、あまり見かけませんね」「そうなんだ」エリュシオンが心配そうに言う。「彼らは、長い間感情を封印していた」「急に人間として生きろと言われても……」「戸惑っているんだと思う」「それは……」カナが理解する。「助けが必要ということですか?」「もし可能なら……」
新世界での生活が始まって一ヶ月。白い洋館には、少しずつ日常が根付いていた。その日、花屋に一人の老人が訪れた。「すみません……」老人が戸惑いがちに入ってくる。「あの……相談があるんですが……」「はい」カナが優しく応対する。「どうぞ、こちらへ」花屋の一角には、相談スペースが設けられている。老人が座ると、ゆっくりと話し始めた。「実は……」「記憶のことで……」「記憶?」「世界が変わった時……」老人が苦しそうに言う。「私の記憶も、戻ったんです」「それは……良かったですね」「いえ……」老人が首を振る。「戻らなければ、良かったんです」「え……?」「息子のことを……」老人が涙を浮かべる。「思い出してしまったんです」「事故で亡くなったことを……」カナの表情が曇る。「それは……辛いですね……」「忘れていた方が、楽でした」老人が震える。「でも、記憶が戻って……」「息子がいないという現実を……」「また受け入れなければならない……」「もう一度、息子を失ったような……」その時、カナの胸でノアの声が聞こえた。『なんとなく……』『辛い記憶も、大切な記憶……』『忘れない方がいい……』カナが優しく老人に語りかける。「辛い記憶を思い出すのは、苦しいですよね」「でも……」「その記憶があるから、息子さんは生き続けているんです」「あなたの心の中で」「