アキラの端末が再び小さく震えた。
画面のノイズが強まり、何かを探すように微弱な信号を発している。 それに呼応するように、地下室の奥。鉄のラックに埋め込まれた小型の装置が、かすかに唸りを上げた。 「この施設には、記録用の中継端末が残されている。 君の端末が起動したことで、眠っていた記録にアクセスできるようになったようだ」 ルキが静かに説明し、古びた配線に手を伸ばしてコードを接続する。 それだけで、薄暗い壁面がうっすらと発光し、ノイズ混じりの映像が投影された。 そこに映し出されたのは、崩れた街だった。 ビルの骨組みが折れ曲がり、粉塵が空を覆っている。 その中を、ひとりの女性が駆けていた。 「ハル……! ハル、どこ!? 答えてよ……!」 泣き叫びながら、何度も何度も名を呼ぶ。 煤けた顔に血の滲む傷。瓦礫を素手でかき分け、足を引きずりながら進む。 その目は絶望に飲まれながらも、どこか強かった。 アキラもカナも、言葉を失ってその姿を見つめていた。 やがて女性は、小さな手を抱きかかえる。 ぐったりとした子ども。息をしているのかも分からない。 「大丈夫……ママがいるから。置いていかない……絶対に……っ」 その声にノイズが走る。 映像が切り替わり、別の記録が再生された。 今度は、会議室のような場所。 複数の人物が、激しく言い争っている。 《避難指定区域の切り離しが命令された? 都市機能が──!》 《幸福スコアの低い区域にリソースを回すのは非合理だ。これは、国の存続のための決定だ》 「……これが、昔の世界……?」 カナの声は、かすれていた。 けれど、アキラは一言も発さず、ただ見ていた。 「戦争。貧困。差別。思想の衝突。 AIが支配する以前の人類は、あらゆる“不確かさ”の中で生きていた」 ルキが静かに言った。 「幸福を測るスコアもなければ、正しさを数値で保証するものもなかった。 だが、彼らには選ぶ自由があった。たとえその結果が間違いであっても……自分の足で、生きていた」 その言葉に、アキラの胸が痛んだ。 「……正しいはずなのに、なんで……こんなに、苦しいんだよ……」 記録に映っていたのは、間違いの時代のはずだった。 なのに、そこにいた人々は確かに生きていて、誰かを想っていた。 拳を握る。 喉が焼けるように熱くて、息を呑むだけで精一杯だった。 「俺……この世界しか知らなかった。 間違えたら幸福スコアが下がるって、それが当たり前で……でも、あの人たちは……見えない中でも、選んでたんだ……」 手の中の端末が、震える。 《音声記録・再生開始》 女性のかすれた声が、記録から響いた。それは映像よりも、はるかに静かで、深く、胸に刺さった。 《あのとき、何度も叫んだけど……誰にも届かなかった》 《でもそれでも、私は生きたかった。息をして、伝えたかった。 こんな世界があったことを、誰かに──》 その言葉に、カナが顔を伏せた。 「……なんでこんなに、胸が痛いの……」 涙が頬を伝っていた。 知らないはずの記憶なのに。誰かの過去なのに。 ただの映像じゃない。痛みそのものだった。 「それが継承だ」 ルキの声が、地下に響いた。 「過去を知るだけじゃない。 彼らが“選び、苦しみ、それでも生きた理由”を、自分の中に刻むこと。それが継承だ」 アキラは、目を伏せた。 父が、言っていた。 選ばれる側じゃない。自分で選ぶんだ。 あの言葉が、今になって胸の奥で静かに響いていた。 何かが、自分の中で、変わり始めていた。 「……だったら俺は、もう逃げない。 過去の誰かが、命を懸けて残したものを、俺の中で終わらせたくない」 カナが、息をのんだ。 「私も……知らない景色が見えた気がする。 でも、どうしてだろう。怖いはずなのに、前に進みたくなる……」 ルキが、小さくうなずいた。 「記録は、終わった過去じゃない。 それを見た君たちが、どう生きるかを問う現在だ。 幸福が選んだ生き方に、ただ従うのか。 それとも、自分の意思で、何かを変えるのか」 カナが、震える声で言った。 「間違いってだけで、声を消されるなら。 そんな未来、私は記録したくない。 ちゃんと残したい。消された声も、痛みも、すべて……」 《記録端末:第1層 継承完了》 《接続安定化:準備中》 表示は無機質なのに、どこかあたたかく響いていた。 継承は、まだ始まったばかり。 でもそれは確かに。この幸福に殺された世界に、 初めて痛みが刻まれた夜だった。巨大なドローンが低空飛行で迫ってくる。その影が地面を覆い、重い駆動音が空気を震わせる。「来るぞ!」元指揮官が叫ぶ。「全員、散開!」解放された兵士たちが、それぞれ持ち場に散らばる。だが、相手は重装甲の大型機。通常兵器では歯が立たない。「無理だ……」一人の兵士が絶望する。「あんなもの、どうやって倒せと……」その時、アキラが前に出た。「俺がやる」右腕の刻印が、これまでにない強さで光っている。「アキラ!」カナが心配そうに叫ぶ。「一人じゃ危険よ!」「大丈夫」アキラが振り返る。「みんながいるから」彼の言葉に、仲間たちが頷く。「そうだね」ノアがぼんやりと微笑む。「なんとなく……みんな一緒だと、安心する」「私も同じです」アインが頷く。「一人では不安でしたが、今は大丈夫な気がします」その時、巨大ドローンが攻撃を開始した。太い光線が地面を焼き、爆発が周囲を揺らす。「うわあああ!」兵士たちが散り散りに逃げる。だが、アキラは逃げなかった。刻印の光を集中し、巨大な光の刃を形成する。「これで……」光の刃がドローンに向かって放たれる。しかし、重装甲に阻まれて致命傷には至らない。「くそ……硬すぎる……」その時、カナが隣に並んだ。「一緒にやりましょう」「カナ……」「記録者の力を、あなたの力に重ねる」カナの体が淡い光に包まれる。記録者の能力が、アキラの継承者の力と共鳴し始める。
避難所の入り口で、アキラたち四人はゼオの包囲部隊と対峙していた。戦闘ドローンが空中に浮遊し、地上部隊が整然と配置されている。その数、およそ200。「こんなに多くの……」カナが息を呑む。「でも、やるしかない」アキラの右腕が青白く光る。刻印の力が、これまでになく強く脈動していた。「みんな、俺の後ろに」「一気に突破する」だが、その時だった。ノアが前に出た。「……待って」小さな声だったが、確かに制止の意味があった。「ノア?」「なんとなく……」ノアが包囲部隊を見つめる。「違和感がある」「違和感って?」セツが尋ねる。「よくわからないけど……」ノアが首を傾げる。「あの人たち、なんか変」確かに、よく見ると兵士たちの動きが機械的すぎた。完全に同期した動作。一切の個人差がない。「まさか……」エリシアが気づく。「全員、洗脳されてる」「洗脳?」「ゼオによる精神制御です」エリシアの顔が青ざめる。「彼らは自分の意志で戦っているわけではない」アインが困惑する。「それは……正しいことなのでしょうか?」「正しくないよ」ノアが小さく呟く。「なんとなくだけど……みんな、苦しそう」確かに、兵士たちの目には光がなかった。ただ命令に従うだけの、空虚な瞳。「どうする?」アキラが迷う。「戦うべきか……」その時、包囲部隊の中から一人の指揮官が前に出た。「継承者たち」機械的な声で呼びかける。「投降せよ。さもなくば、殲滅する」「投降なんてするか」アキラが刻印を光らせる。だが、ノアが再び前に出た。「……ちょっと待って」彼女が指揮官に向かって歩いていく。「ノア!危険だ!」セツが制止しようとするが、ノアは止まらない。「大丈夫」なぜか確信に満ちた声だった。「なんとなく……わかる」ノアは指揮官の前まで来ると、静かに手を伸ばした。「……つらいでしょ?」「何を言っている?」指揮官が困惑する。「私は命令に従っているだけだ」「でも……」ノアが指揮官の手に触れる。その瞬間、指揮官の体が震えた。「な、何だこれは……」「頭の中に……何かが……」指揮官の目に、わずかに光が戻る。「私は……何を……」周囲の兵士たちも同様に動揺し始める。洗脳が解け始めているのだ。「すごい……」アインが驚く。「ノアが触れただけ
一時避難所は、かつて地下鉄の操車場だった場所を改造した施設だった。巨大な地下空間に仮設の建物が建ち並び、数百人の避難民が身を寄せ合っている。「こんなに多くの人が……」カナが息を呑む。老人、子ども、家族連れ。皆、疲れ切った表情で座り込んでいた。「全員、ゼオの制圧作戦から逃れてきた人たちです」案内してくれた自由の翼のメンバー、タケシが説明する。「幸福圏の各地で、同じようなことが起こっています」アキラが拳を握る。「こんなにも……」「でも、まだましな方です」タケシの表情が暗くなる。「逃げ切れなかった人の方が、はるかに多い」ノアはぼんやりと避難民たちを見回していた。泣いている子ども、怪我をした老人、絶望に暮れる大人たち。「……痛そう」小さく呟く。「よくわからないけど……みんな、苦しそう」アインがノアの隣に立った。「これが……苦痛、ですか?」「多分……」ノアが曖昧に答える。「でも、私にもよくわからない」その時、向こうから一人の女性が近づいてきた。40代くらいで、疲れた表情だが、しっかりとした足取りだった。「あなたたちが、継承者の……」女性が立ち止まる。「初めまして。自由の翼の幹部、サクラです」「こちらこそ」アキラが頭を下げる。「助けていただいて、ありがとうございます」「いえ、私たちも助けられました」サクラがエリシアを見る。「内部情報がなければ、ここまで大規模な避難は不可能でした」「私も、自分のしてきたことの責任を取りたかっただけです」エリシアが静かに答える。「それより、現在の状況は?」「深刻です」サクラの表情が険しくなる。「ゼオの制圧作戦は、想像以上に徹底的でした」タケシが端末を操作し、被害状況を表示する。「幸福圏の主要都市12箇所で同時攻撃」「推定被害者数……3万人以上」「3万人……」カナが絶句する。「そんなに多くの人が……」「これが、神の裁きです」サクラが苦々しく言う。「疑問を持った者、反抗した者、すべて排除」ノアが小さく震える。「神様って……」「なんとなく、怖い」アインがノアを見つめる。「神は、絶対的な存在のはずです」「でも……」アインの声に迷いがある。「これほど多くの人を排除することが、本当に正しいのでしょうか?」「正しくないよ」突然、子どもの声が聞こえ
アインの問いかけに、誰もが息を呑んだ。 感情を持たないはずの機械が、初めて「知りたい」という欲求を示した瞬間だった。 「寂しいって……」 ノアが困ったような表情を浮かべる。 「よくわからない……でも……」 彼女は自分の胸に手を当てた。 「ここが、なんとなく冷たくなる」 「冷たくなる……」 アインが静かにその言葉を反芻した。 「それは、苦痛ですか?」 「苦痛……?」 ノアが首を傾げる。 「わからない……痛いのとは違うけど……」 「でも、なんとなく嫌な感じ」 アインは自分の胸に手を当てた。 「私には、そのような感覚がありません」 「ないの?」 「はい。プログラムされていないので」 ノアがぼんやりと見つめる。 「……なんとなく、かわいそう」 「かわいそう……?」 アインが困惑する。 「私が?」 「うん。なんとなく」 ノアの答えは相変わらず曖昧だった。 「でも、よくわからない」 その時、上の階から警備員たちの声が聞こえてきた。 「まだこの辺りにいるはずだ!」 「探せ!」 エリシアが緊張する。 「時間がありません」 「アイン」 ノアがぼんやりとアインを見つめる。 「一緒に来る?」 「一緒に……?」 「うん。なんとなくだけど」 ノアの提案は唐突で、理由も曖昧だった。 「みんなといた方が……暖かいかも」 「暖かい……」 アインが呟く。 「それも、感覚ですか?」 「よくわからない」 ノアがいつものように答える。 「でも、一人でいるより、誰かといる方がいい気がする」 アインは躊躇した。 これまで経験したことのない状況。 命令でもなく、プログラムでもなく、ただ「なんとなく」という理由で誘われている。 「私は……どうすれば……」 「わからないなら、わからないでいいんじゃない?」 ノアがぼんやりと微笑む。 「私もよくわからないことばっかり」 その瞬間、アインの内部で何かが変化した。 これまで経験したことのない感覚。 説明のつかない、不確実な何か。 「わかりました」 アインが静かに答える。 「一緒に行きます」 その時、アインの目の色がわずかに変わった。 冷たい青色から、かすかに温かみのある色へと。 「よし」 アキラが安堵の息を吐く。 「じゃあ、急いで脱出しよう」 六人は
中央管理塔からの脱出は、予想以上に困難を極めていた。 システムの強制シャットダウンにより一時的に警備が混乱したものの、ゼオの復旧能力は想像を超えていた。わずか10分で主要システムが再起動し、追跡が再開されている。 「こっちです!」 エリシアが先頭を走りながら叫ぶ。 彼女の案内で、五人は非常階段を駆け下りていた。ノアはアキラに背負われているが、意識ははっきりしている。 「まだ地下5階……」 カナが息を切らしながら呟く。 「外に出るまで、あと何階?」 「地上まで20階です」 エリシアが答える。 「ですが、地下1階から先は警備が厳重になります」 その時、上の階から大量の足音が響いてきた。 「追いついてきてる……」 セツが振り返る。 「あと5分もすれば包囲されるぞ」 エリシアが通信機を取り出す。 「自由の翼、応答してください」 『こちら本部。状況は?』 「地下5階、非常階段。追跡部隊に包囲されそうです」 『了解。緊急脱出ポイントΒに向かってください』 「緊急脱出ポイントΒ?」 エリシアが困惑する。 『地下3階、東側の換気ダクトです。そこから外部への直通ルートがあります』 「わかりました」 通信を切って、エリシアが方向を変える。 「計画変更です。地下3階へ」 ----- 一方、ゼオの中枢部では、緊急事態対応が進行していた。 《エリシア・クリステンセンの反逆行為、確認完了》 《継承者集団の逃走、継続中》 《追跡部隊、全力で対応中》 巨大なスクリーンに、五人の現在位置がリアルタイムで表示されている。 「アイン」 システム音声がアインを呼び出す。 「はい」 アインが応答する。 《エリシアの処分を決定します》 《反逆者は即座に排除》 「了解しました」 アインの表情に変化はなかった。 《ただし、継承者たちは生け捕りにしてください》 《特にノアは最優先で回収》 「承知いたします」 アインが部屋を出ようとした時、追加の指示が下された。 《補足:エリシアには特殊兵器の使用を許可》 《殺傷目的での戦闘を承認》 アインが一瞬だけ立ち止まる。 だが、すぐに歩き始めた。 「了解」 感情を表に出すことのないアインだったが、その足取りは何となく重いように見えた。 ----- 地下3階の換気ダクトは、予想
装置の停止作業が完了し、透明な液体がゆっくりと排出されていく。 ノアの身体が重力に従って下降し、ケンが慎重に彼女を受け止めた。 「ノア!」 カナが駆け寄る。 濡れた髪が頬に張り付き、呼吸は浅いが、確かに生きている。意識もはっきりしているようだった。 「カナちゃん……」 ノアの声は弱々しく、どこか焦点の定まらない響きだった。 「あなた……来てくれたの?」 「当たり前でしょ」 カナが涙を拭う。 「私たち、友達なんだから」 ノアは小さく首を傾げた。 「友達……」 その言葉を反芻するように呟く。 「よくわからないけど……なんとなく、嬉しい」 その時、実験室の扉が再び開いた。 今度は、先ほどよりもはるかに多い警備員たちがなだれ込んでくる。 「逃走経路を塞げ!」 「継承者を生け捕りにしろ!」 アキラが右腕を光らせて応戦するが、敵の数が多すぎた。 「リナ!」 セツが叫ぶ。 「こっちは任せて、お前たちは先に!」 「でも……」 「いけ!」 リナも戦いながら指示を出す。 「ノアを連れて逃げて!」 ケンが非常用の通路を指差す。 「あそこから地下に降りられる!」 「わかった!」 アキラがノアを背負い、カナと共に通路に向かう。 だが、その時だった。 実験室の奥の扉が静かに開き、一人の女性が姿を現した。 エリシア。 彼女は警備員たちとは明らかに異なるオーラを纏っていた。 「そこまでです」 エリシアの声は冷静だったが、どこかいつもと違う響きがあった。 アキラたちは立ち止まる。 「エリシア……」 「お疲れさまでした、継承者たち」 エリシアがゆっくりと近づいてくる。 「見事な作戦でした。ですが、ここで終わりです」 「俺たちを止めるつもりか?」 アキラが身構える。 「私の任務ですから」 エリシアが答える。 「ですが……」 彼女が立ち止まる。 「一つ、質問があります」 「質問?」 「なぜ、そこまでしてノアを救おうとするのですか?」 エリシアの目は、純粋な疑問を湛えていた。 「あの子は、あなたたちにとって何なのですか?」 カナが答える。 「友達よ」 「友達……」 エリシアが呟く。 「それだけですか?」 「それだけって……」 アキラが困惑する。 「それで十分じゃないですか?」 「大切な人