数秒の沈黙のあと、航は吹き出した。
「お前が?一人で南星島へ?冗談はやめてくれよ」
航の反応は予想通りだ。なにしろ、私は航の友人たちの間では、彼がいなければ生きていけない「重い彼女」として有名だ。
学生時代から始まったこの関係の中で、私はすっかり航に頼ることに慣れていた。服の組み合わせといった小さなことから、専攻を決めることまで、何事もまず航の意見を求めていた。
航の返信が数秒遅れただけで、すぐに拗ねて大騒ぎしたこともある。
彼は私の頬を軽くつねながら言う。「やきもち焼きだなあ。もう少し大人になれよ。この頃は忙しいから、一緒にいてやれなかったけど、落ち着いたら、一緒に南星島へ海を見に行こう」
そう言って、いつものようにキスをしようと顔を近づけてくる。しかし、私はさりげなくそれを避けた。
「リップ、塗ったばかりだから」
航は一瞬、戸惑ったように目を瞬かせた。そして私を矯めつ眇めつ眺めると、いつものように感想を口にする。「白い靴のほうが似合うな。赤は派手すぎる。お前には合わない」
私は赤いピンヒールに履き替える。「でも、こっちのほうが好き」
固まっている航を見て、にっこり笑いかける。「言ったじゃない。もう少し自分の意見を持てって」
航は何か言おうと口を開いたが、結局、「夜、迎えに行く」とだけ言った。
……
友達と夕食を済ませても、航はまだ来ていない。
レストランでさらに30分待ち、自分でタクシーを呼ぼうとしたとき、見慣れた黒い車が目の前に止まる。
助手席のドアを開けると、そこにはすでに先客が座っている。
陽菜が唇を尖らせて言う。「今日が2人の記念日だって知らなくて、先輩に友達の誕生日プレゼント選びに付き合ってもらっちゃった。こんなに待たせてごめんね」
航が私に説明する。
「たまたま陽菜がいたショッピングモールの近くで用事があってさ。ついでに乗せただけだから、変なこと考えるなよ。
研究所に戻って、今すぐ処理しなきゃならないデータがある。先に家まで送る」
そう言いながら陽菜のほうをちらりと見る。少し間を置いて付け加える。「陽菜は車酔いしやすいから、前に座らせてやってくれないか?」
言い終えると、航は少し緊張した様子で私を見る。まるで私が陽菜に食ってかかるのを恐れているようだ。
私は何も言わず、そのまま後部座席に乗り込む。
航は意外そうに私を見る。
車が走り出すと、2人は私にはさっぱり分からない専門的な話題で盛り上がり、ときおり楽しそうに笑い合っていた。
後部座席で車酔いの吐き気をこらえながら、まるで部外者になったような気分で2人の会話を聞いていた。
カーブを曲がるとき、陽菜がうっかり飲み物をこぼし、助手席のグローブボックスを開けてティッシュを探し始める。すると、中からぬいぐるみが出てきた。
陽菜は嬉しそうに目を丸くする。「これ、すごくかわいい!先輩もスパイダーマンが好きなの」
航は口元を緩める。「まあな。気に入ったなら、持っていっていいぞ」
私は思わず顔を上げる。
スパイダーマンは航の一番好きなキャラクターだ。そのぬいぐるみは、去年の彼の誕生日に私が手作りして贈ったものだ。作るために、指にいくつも血豆ができた。
「それは……」私はついに口を開いた。
航は「やっぱりか」と言わんばかりの表情で、ルームミラー越しに私を見る。「寧々、そんなにケチケチするなよ。週末、一緒に新作を見に行ってやるから」
私は身を乗り出してぬいぐるみの頭についていたヘアピンを取り外しただけで、それ以上は何も言わなかった。
陽菜は嬉しそうにぬいぐるみをバッグにしまった。
航は一瞬呆然とし、止めようとする。「待て」
しかし、陽菜の無邪気な目を見た瞬間、その言葉を無理やり飲み込んだ。
航はルームミラー越しに私のほうをちらちらと見る。眉をひそめている。
私は目を閉じて休む。
航は忘れているようだ。スパイダーマンのヒロインは、一人しかいない。
男なんてもういらない。ましてや、ぬいぐるみなんて惜しくもない。
……
実は、陽菜のことで航とは何度も喧嘩をしていた。
一番ひどかったのは、陽菜が航に2着のセクシーなネグリジェの写真を送り、どちらがいいか選んでほしいと頼んでいたことだ。
紫色のレースを見て頭に血が上り、航を問い詰めた。「これでもまだ、何も問題ないって言うの?」
航は苛立ったように眉をひそめた。
「これからは南極へ調査に行くんだ。陽菜は肌が敏感でよく眠れないから、俺に相談してきただけだ。
余計なこと考えてる暇があるなら働きに出ろよ。五体満足なのに、いつまでも俺に養ってもらうつもりだ?俺はお前の父親じゃないから、そんなことをしてやる義理はないぞ」
そう言い捨てると、航はドアを乱暴に閉めて出ていった。
胸が痛み、息をするのも苦しくなった。ふと、彼に告白された日のことを思い出した。あのとき航は「一生子どものように甘えていていい」と言った。
それに、私も大学を卒業したばかりで、すぐには仕事が見つからず、小説を書いて生計を立てていた。
航はそのあと1週間、連絡ひとつよこさず、家にも帰ってこなかった。
結局いつものように、私が先に頭を下げた。
仕事を見つけ、花束を持って、泣きながら航の胸に飛び込んだ。
彼は私の頭を撫でて、ため息をついた。「これからは子どもみたいに拗ねるなよ。もう少し大人になれ。分かってるだろ。俺が愛してるのは寧々だけだ」
航の首筋に顔を埋めながら、胸の奥には、不思議なほど静かで、麻痺したような感覚だけが広がっていた。
3日後、航のパソコンの中で、ある共同編集のExcelファイルを見つけた。
そこには世界各地の場所がリストアップされており、横のセルには航と陽菜のチャットのようなやり取りが残されていた。そこは、彼らだけが共有する秘密の場所だった。
【蒼海市。航:手配できる。海流データを補うってことで】
【南星島。陽菜:何度も行ったしパス。この前のあのお店、全然おいしくなかった(涙)
航:分かったよ。誰かさん、店を選ぶセンスがイマイチだからな(笑)
陽菜:だって、口コミでは評判がよかったのに!】
【アイスノーランド。陽菜:オーロラが見たい!
航:じゃあ、ここにしよう】
彼らの書き込みをすべて見終えて、涙で顔を濡らしていることに気がついた。
私がずっと夢見ていた南星島へ、航はとうの昔に別の女と何度も行っていた。
気持ちを整理し、南星島行きの航空券を予約した。
一人で南星海岸の遊歩道から夕日を眺め、深夜の海辺を散歩していると、ふと気づいた。一人旅も、思いのほか楽しいものだ。
東都に戻ったあと、会社から打診されていた西湖市への異動を受け入れた。
同僚の鈴木真子(すずき まこ)がからかうように言った。「前は遠距離恋愛なんて嫌だって、何があっても行きたくないって言ってたじゃない?」
私は微笑んだ。「少し、考えが変わっただけ」
どうやら私は、航がいなくても生きていける。
真子はうなずき、異動願いに判を押した。
「新しいチームのリーダー、あなたの大学の先輩らしいよ。きっと気が合うと思う」
……
知り合って10年以上、付き合って5年。今さら別れるのは、決して簡単なことではない。
この関係にけじめをつけるため、航と直接会ってしっかり話をしようと決めた。
しかし研究所の人に尋ねると、航は不在で、どこに行ったのかもよく分からないという。
そのとき、実験室から陽菜が出てきた。彼女のバッグには、あのスパイダーマンのぬいぐるみがぶら下がっている。
私を見ると、彼女はすべてを察したように笑った。「先輩なら会議に出てるよ。研究所って部外者が長居するのもあまりよくないから、よかったら私の家に来ない?ここから近いし、私もちょうど帰るところだから」
陽菜はそう言いながら、親しげに私の腕を取り、有無を言わさず私を連れ出した。
陽菜は、研究に便利だからと、この近くにロフト付きの部屋を借りているという。狭いが、必要なものはすべて揃っている。
玄関に入った途端、男性用のスリッパが目に入った。
私は一瞬、動きを止める。陽菜に尋ねようとしたが、ふと玄関に置かれたマグカップに視線が留まり、その場に釘付けになる。
航のカップだ。以前、彼が研究に没頭するあまり食事も水分補給もろくにしなかったのを心配して、私は毎日特製の栄養ドリンクを用意し、このカップに入れていた。
ちゃんと飲んだか確かめるため、飲み終わったら空になったカップの写真を撮って送るよう、航に言っていた。
それが今、目の前に堂々と置かれている。まるで、私の安っぽい心遣いを嘲笑っているかのようだ。
私の視線に気づいた陽菜が、笑いながら言う。「誤解しないでね。先輩が研究のためにうちに泊まるのは、月に数日くらいなので……」
手が震えている。部屋の中を見渡すと、ペアのクッション、航が何年も身につけていた腕時計……そこかしこに、航がここで暮らしていた痕跡が残っている。
「先輩は言ってたよ。寧々さんは体に気をつけろって口うるさいって。変なものを飲まされるけど、いつもこっそり捨ててから、写真を撮って送ってた」そう言って、陽菜はくすっと笑った。
「男の人って子どもっぽいから、上手におだてればいいの。今度来たとき、私特製の水炊きの作り方を教えてあげるね。先輩、すごく気に入ってくれてるよ」
陽菜はふと何かを思い出したように付け加える。「そうだ。この前2人が喧嘩したときも、私が先輩に帰るように言ったよ。恋人同士の喧嘩なんて大したことないんだから、ちゃんと話し合えば解決するって」
目が腫れるまで泣き、どうすれば航と仲直りできるのか必死に考えていたとき、彼はここで、別の女の慰めを受けていた。
それに、さっき見た限り、この部屋には寝室が一つしかない。
胃がひっくり返るような感覚に襲われ、吐き気が込み上げてくる。
ちょうどそのとき、ドアの電子錠に暗証番号を入力する音が響く。
「昨日作ったレポート、見なかったか?リビングのテーブルに置いたと思うんだけど」
航は慣れた様子でスリッパに履き替え、私と視線がぶつかった。
航の顔から、血の気が引いていく。
「寧々……話を聞いてくれ」
焦ったように私の手を取る。
「家は研究所から遠すぎて不便だから、たまにここで休んだり仕事をしたりしてるだけだ。陽菜とは、本当に何もないんだ。
ペアのものも、セットのほうが安かったから買っただけで、特別な意味なんてない」
私が何の反応も示さないのを見ると、航は低い声で続ける。
「結局、お前が俺にべったりで、追い詰めすぎたからいけないんだろ。俺と陽菜の間にはやましいことなんて何もないって言ってるじゃないか。信じるかどうかはお前次第だ。
寧々、恋人同士にだってプライベートは必要なんだ。今回の件はどっちもどっちだ。お互いに一歩引こう。来週までに、ここにある俺の荷物を全部片づけるから、それでいいだろ?」
耳鳴りが、少しずつ遠のいていく。我に返ると、私にじっと見つめられた航は、落ち着かない様子で、ためらいがちに私の名前を呼んだ。
しばらくして、私は静かに手を引き抜き、無理やり笑顔を作る。「うん、分かった」
航は、私がこんなにもあっさり水に流すとは思っていなかったらしい。しばらく反応できずにいる。
「……え?」
「2人の間に何もないって信じるよ。先輩が後輩の面倒を見るのは当然のことだよね」
航はしばらく言葉を失い、ただ黙って私の後ろについていく。
マンションの外に出たところで、彼はついに耐えきれなくなったように尋ねる。「俺が他の女と一緒に住んでたのに、怒らないのか?」
「もう説明してくれたじゃない?」
「でも、昔のお前なら……」航は言い淀んだ。
私は疲れを感じて、歩調を速める。
ずっと航を追いかけていたせいで、危うく忘れるところだった。
別れるのに相談は必要ない。必要なのは、ただ伝えることだけだ。
口論することに意味はない。今は異動の手続きを無事に終えることが先だ。それまでは、何一つ余計な問題を起こしたくない。
……
【両親が今日、東都に来るんだ。ずっと会いたかったろ?昼に一緒に食事しよう。紹介するよ】
【友達の家にいつまで居候するつもりだ?どうせそうやって拗ねるなら、どうして陽菜の前ではあんなに大人ぶったんだ?】
【先に言っておくが、うちの両親の理想とする嫁は、きちんとしていて大人っぽい女性だ。いつまでも子どもみたいに拗ねてるなら、両親に気に入ってもらう保証はないからな】
家で荷物をまとめている寧々は、航から次々と届くメッセージを見て、いっそのこと通知をオフにする。
航はスマホを置いて、口角をわずかに上げる。寧々の「意地っ張りな態度」が、かえって彼に昔のような安心感を取り戻させた。
航はプレゼントを持って、寧々の勤める会社へ向かう。寧々がずっと欲しがっていたが、なかなか買えずにいたネックレスだ。
航はもう、寧々が驚き、感動と罪悪感でぐちゃぐちゃになった顔を見るのが待ちきれなかった。
なにしろあの寧々のことだ。自分なしでは生きていけない寧々なのだ。
これまでの喧嘩だって、航が少しきっかけを作ってやれば、寧々はいつでも笑って自分のところへ戻ってきたのだ。
しかも今回は、ここまで心を込めてプレゼントまで用意した。2人のこれからについても、ちゃんと話すつもりだ。
「すみません、神崎寧々さんをお願いします」
受付の女性は少し怪訝そうな顔をして、もう一度航に確認する。
「神崎さんは先週の金曜日にはすでに異動願いを提出しておりますが、人違いではありませんか?」