LOGIN私の名前は高瀬志穂(たかせ しほ)。 結婚して7年目、夫・高瀬昭彦(たかせ あきひこ)の愛情はすべて、離婚した初恋の女・西園寺玲奈(さいおんじ れな)とその娘・亜衣(あい)へと向かっていた。 それが分かってから、私は娘に、夫のことを「おじさん」と呼ぶように教え始めた。 娘が喘息の発作で顔を真っ青にして苦しんでいる時でさえ、玲奈からの「亜衣が暗いところを怖がって……」という電話一本で、彼は迷わず私たちを置いて出て行った。 私は娘の目をそっと塞ぎ、「おじさん、いってらっしゃい」と小さな声で言わせた。 娘がずっと楽しみにしていたピアノコンクールでも、玲奈が「パパがいないから、亜衣が怖がって舞台に上がれないの」と泣きついてくると、彼は何の躊躇いもなく私たちに背を向けて立ち去った。 胸が引き裂かれるような思いを必死に堪えながら、コンクールに落ちて悲しむ娘に、「おじさん、わざわざ見に来てくれてありがとう」とお礼を言わせた。 その度に、娘は私の腕の中でただ静かに涙を拭うことしかできなかった。 そんな日々が続いた後、彼もようやく私たちに対して微かな罪悪感を覚えたらしい。 珍しく仕事の付き合いを断り、週末に私たちを遊園地へ連れて行くと自分から言い出したのだ。 だが、遊園地の入り口に着いたまさにその時、またしても玲奈から電話がかかってきた。 「昭彦、遊園地にいる他の子たちが、亜衣をパパがいないってからかうの。 お願い、亜衣を迎えに来てくれないかしら……」 一瞬、彼の顔に迷いが浮かんだが、すぐにそれを振り切るようにしゃがみ込み、娘に言い訳を並べ立てようとした。 今回は、私が口出しをして言い聞かせるまでもなかった。 娘は自ら、繋いでいた彼の手をそっと離したのだ。 彼女は涙で濡れた顔に作り笑いを浮かべ、驚くほど聞き分けよく一歩後ろへ下がった。 「大丈夫だよ、おじさん。あの子のところへ行ってあげて。 私はママが買ってくれた綿菓子があるから、これだけで十分だよ」
View More昭彦の顔から血の気が引いた。彼は手を伸ばし、私のスカートの裾を掴もうとした。私は汚いものを見るような目で、半歩後ろへ下がった。「あなたが今日ここへ来て土下座して許しを請うのは、私のことを愛しているからでもなければ、ましてや娘を愛しているからでもないわ。あなたはただ、自分の『支配者』としての立場が崩れた事実を受け入れられないだけよ。自分が道具のように扱ってきた『付属品』に、逆に捨てられたという屈辱に耐えられないだけよ」私は彼を冷たく見下ろした。「父親の愛だなんて、吐き気のするような言葉を盾にしないで。結局のところ、あんたが愛しているのは自分自身だけよ」ちょうどその時だった。悠真がビルから出てきた。この光景を見ても、彼は少しも怒らなかった。極めて自然な足取りで近づき、温かいコーヒーを私の手の中へそっと持たせてくれた。そして、穏やかな声で昭彦に告げた。「高瀬さん。手遅れになった愛なんて、路傍の石より価値がないんですよ。志穂さんは今、とても幸せです。ですから、あなたのそんな遅すぎた愛などもう必要ありませんよ」私はそのまま自然に悠真の手を握って、指を絡め合わせた。この1年で一番晴れやかな笑顔を向けてみせた。 「悠真が言った通りよ。あの時、あんたが私を捨ててくれたことに感謝してるわ。おかげで私は、本当に信頼できる人に出会えたの」しっかりと繋がれた手と、私の瞳の奥に宿る光を見て昭彦はようやく悟った。 自分がどれほど痛切に後悔してみせたところで、今の私たちの幸せの前では、塵ほどの価値すらないのだと。彼がすがっていたちっぽけなプライドは、私の拒絶によって跡形もなく砕け散った。昭彦はよろめきながら地面から立ち上がった。全身の力が完全に抜け落ちてしまったようだった。彼は空を見上げ、狂ったように高笑いを続けた。だが突如として、その口から真っ赤な血が吐き出された。冷たい風の中、彼はそのまま真っ直ぐに倒れ込んだ。半月後。病院のベッドで目を覚ました昭彦は、ついに諦めた。彼は欠席判決が下される最終期限の直前に、ようやく離婚届と財産放棄に関する合意書にサインをした。 彼には分かっていた。これ以上執着すれば、奈々の中にある彼との思い出のすべてが、激しい嫌悪へと変わり果
昭彦はもう1歩たりとも、動くことができなかった。あの男の名前は、藤堂悠真(とうどう ゆうま)だ。彼は私の上司であり、この1年間、私へのアプローチを続け、誰よりも私たち母子の傍に寄り添ってくれた男性だった。昭彦は薄暗い木陰に身を隠していた。嫉妬で気が狂いそうになり、目を真っ赤に血走らせたが、それでも、飛び出していく勇気はなかった。それからの数日間、彼はまるでドブネズミのようにサングラスと帽子で顔を隠し、スーパーや遊園地へ行く私たちを尾行し続けた。スーパーで、悠真がイチゴ味のすべてのお菓子を注意深く避ける姿を見た。リビングのカーペットに座り、悠真が2時間もかけて奈々と一緒にレゴブロックを組み立てているのを見た。昭彦が言いようのない痛みに苛まれた。かつては、彼にも自分の子供にそれらすべてをしてやる機会があったはずだ。それなのに、彼はそのすべてを自らの手で手放し、他の女とその子供に付き添ってしまったのだ。週末の公園。とても天気のいい日だった。奈々は広場でキックボードに乗って遊んでいた。悠真は飲み物を買いに行き、私はベンチに座って書類に目を通していた。その時、奈々がうっかりバランスを崩した。キックボードが傾き、彼女は勢いよく地面に倒れ込んだ。膝をすりむいてしまった。「わあぁぁん!」彼女は痛みのあまり泣き出した。それを見た昭彦は植え込みから飛び出し、地面に倒れている奈々を抱き起こした。「痛いか?」彼の声は、みっともないほど震えていた。「大丈夫よ、パパが、痛いの飛んでいけしてやるから……」奈々は一瞬、ポカンとした。そして、目の前にいるやつれて無精髭を生やした男の顔を認めた瞬間、彼女は昔のようにすがりつくどころか、恐怖に顔を引きつらせた。 彼女は必死で昭彦を押し退け、まるで恐ろしい不審者でも見るかのように、悲鳴を上げた。「あんたなんか知らないの!離して!」その声を聞きつけ、私は全力で駆けつけた。昭彦の手から奈々を強引に奪い返し、自分の後ろにしっかりと庇った。そして、道端のゴミでも見るような冷え切った視線を彼に向けた。飲み物を買ってきた悠真も、ペットボトルを放り捨てて駆けつけてきた。彼は私たちの前に立ちふさがり、しっかりと守ってくれた。昭彦は目を赤く腫ら
「パァン、パァン!」という乾いた音が響き渡った。昭彦は自らの頬を容赦なく2度、思い切り張り飛ばした。その力があまりに強かったため、彼の口の端からは血が滲み出ていた。玲奈はドサリと床に膝をついた。「昭彦、ごめんなさい。私、あなたが奪われるのが怖かったの……ただあなたを愛しすぎていただけなの……」彼女は狂乱したように床に額を擦り付け、必死に許しを乞うた。だが、昭彦に一切の躊躇はなく力任せに彼女を蹴り飛ばした。「自分がどれだけひどい真似をしたか、刑務所の中でじっくり反省するんだな!」彼は直ちに監視カメラの映像と音声データを証拠として警察に提出した。玲奈を児童虐待の罪で刑事告発したのだ。それと同時に、彼は玲奈母娘へのすべての資金援助を容赦なく打ち切った。彼女に買い与えたマンションも、有無を言わさず回収した。けりをつけたが、失われた家族たちが戻ってくることはない。昭彦は、あのもぬけの殻になった家に戻ってきた。彼が取り返してきたすでに汚れの染み付いたあのドレスを抱きしめて部屋の隅に縮こまり、まるで全てを失った負け犬のように泣きじゃくっていた。……その頃、澄み切った陽光が射し込むメルボルンの朝。 新しいドレスに身を包んだ奈々と手を繋ぎ、心地よいそよ風に吹かれながら、笑みを浮かべていた。新しい生活が、ここから始まるのだ。1年後。私はスキルを活かして実績を積み重ね、メルボルン支社でしっかりと足場を固め、今は誰もが認めるやり手のエリアディレクターとして活躍している。奈々の喘息も穏やかな日々のおかげか、あの日以来一度も発作を起こしていなかった。彼女は驚くほど明るく自信に満ちあふれるようになっていた。 先月は、地元のコミュニティが主催するピアノコンクールに出場した。そこで見事な演奏を披露し、見事に優勝を果たしたのだ。「パパ」がいなくても彼女の人生は以前よりずっと輝きで満ち溢れていた。一方、国内。昭彦は仕事上では次々と商談を勝ち取り、成功を収め続けていた。だが、誰の目にも明らかなほどに彼は老け込んでいった。こめかみには白髪が混じり始めていた。重度の不眠症と鬱病を患い、毎晩大量の睡眠薬に頼らなければ眠りにつくことすらできない。眠りについても、夢の中に出てくるのは「おじ
録音はそこでプツリと途切れた。昭彦は激しいめまいに襲われ、思わず数歩後ずさった。 彼はそれでも現実を受け入れようとしなかった。あらゆる人脈を使って、私たちの飛行機や新幹線の移動記録をしらみつぶしに調べさせた。だが、分かったのは私が半月も前から、海外への異動申請を出していたということだった。さらに、私の情報にはアクセス制限がかけられ、彼にも閲覧できない状態になっていた。彼が誇っていた「すべてを思い通りにコントロールできる力」など、私の断固たる決別の前では、単なるくだらない笑い話でしかなかった。絶望の中、昭彦の視線はあの絵日記帳の最後のページに落ちた。そこには、端が破り取られた1枚の絵が描かれていた。裏返してみるとそこにはこう書かれていた。【ママが言ったの。おじさんは「強盗」だってだからいつか、別の「強盗」にやりかえされる日がくるんだよって】それを見た瞬間、昭彦の目は一気に血走り、怒りに顔を歪めた。彼は車のキーを掴み取るなり、怒り狂う野獣のように、玲奈の家へと車を走らせた。「ドォン!」という凄まじい音と共に、昭彦は玲奈の家の玄関ドアを蹴り破った。玲奈はまだセクシーなシルクのネグリジェを着たままだった。てっきり昭彦が謝りに来たのだと思い込み、ツンとした態度を取ろうとしていた。「昭彦、やっと来てくれたのね……」だが、彼女は最後まで言い終えることはできなかった。玲奈は、射殺すような昭彦の目に恐怖を覚え、思わず数歩後ずさった。昭彦は大股で歩み寄り、リビングのガラスのローテーブルを持ち上げ、思い切り床へ叩きつけた。「ガシャン!」ガラスの破片が床一面に飛び散った。「きゃあっ!」玲奈が金切り声を上げた。昭彦は彼女の首を鷲掴みにし、怒鳴りつけた。「昨日の亜衣の高熱、あれは一体どういうことだ!」玲奈は恐怖で顔を真っ青にし、口ごもりながら言い訳をした。「ただ……ただ風に当たって、風邪を引いただけよ……」昭彦は彼女の戯言など聞く耳を持たなかった。彼女のスマホを力ずくで奪い取り、そのまま技術者を呼びつけ、削除されていた監視カメラの映像を復元させた。玲奈の家にはペット用の監視カメラが設置されており、データはクラウドに保存されていた。復元作業はあっという間に終わった。
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