Masuk三日後、モナは願乃に退職届を提出した。願乃は書類に目を通していたが、話を聞くと視線を上げ、モナを見つめた。およそ三十秒ほど沈黙が流れたあと、静かに口を開く。「彰人のところへ戻るつもり、なのね?」モナは一瞬、言葉に詰まった。願乃に余計な誤解を与えたくなかったからだ。願乃は一度考え込むように視線を落とし、それから淡々と言った。「いいわ。承認する。補償についてだけど――あなたは以前、彰人のもとで働いていたし、その前は母のもとにもいた。合わせて三年分の年俸相当を支払うわ。それとは別に、これは私個人からの贈り物」そう言って願乃は立ち上がり、キャビネットを開けると、大きな箱を一つ取り出した。モナは思わず息をのむ。箱を開けると、中には希少皮革のエルメスのバッグが収められていた。市場価格に加え、いわゆる配貨条件まで含めれば、約二千万円相当。しかも一定の購入実績がなければ手に入らない品で、モナが長年望みながらも決して届かなかったものだった。それを叶えられるのはいつも女性の上司だった。胸の奥がじんと熱くなる。願乃は穏やかな声で言う。「気持ちよ。あなたの意思は尊重する。彼のもとで十年働いてきたなら、そちらのほうが慣れているでしょう」モナは深く頷き、何度も頭を下げた。「ありがとうございます。本当に……」願乃は顎をわずかに上げ、柔らかく告げる。「じゃあ、手続きを済ませてきて」モナは部屋を出たあとも、胸の内にさまざまな思いが去来していた。……午後。願乃はアプリを立ち上げた。メディアの株価は安定したまま緩やかに上昇を続けている。例の謎の買い手が再び約四十億円もの資金を投じていた。画面を見つめながら、願乃は考え込む。いったい、誰なのだろう。家族にも確認したが、該当者はいない。海外から戻った大物投資家――その可能性も否定できなかった。そのとき、海外から連れてきたアシスタントの久我雅南(くが まなみ)がノックして入室し、書類を机に置いて控えめに報告した。「社長。ご指示いただいていた莫高チップですが、先方から返答がありました。責任者が、ぜひご本人と直接お話ししたいそうです。ピーターとは交渉しない、と」願乃は眉をひそめる。「ピーターは専門家よ。彼のほうが技術的にも話が通じるはずで
【冗談だと思っていた。あなたがただの気まぐれで、どこか艶やかな同僚に心変わりしただけだと。それでも構わない、とさえ思っていた。私の知っている彰人はああいう俗っぽい女を本気で好きになる人じゃない。時間さえあれば、きっと私のもとへ戻ってくる――そう信じて、私は待った。でも、どれだけ待っても、あなたの心は戻ってこなかった。それで、私は雲城市を飛び出し、立都市まで会いに来た。そこで、私は彼女を見た。周防願乃を。あなたと並んで歩き、手を繋ぎ、あなたの視線はずっと彼女の顔に注がれていた。女なら誰でも嫉妬するような顔立ち。あまりに清らかで、美しかった。最初はどこかの大学のミスコンにでも出るような子で、あなたは若さと美しさに惹かれただけなのだと思った。でも、調べてみて分かった。彼女は周防家の娘だった。その瞬間、私は悟ったのだ。もう、私には何の望みもないのだと。だから、私は飛び降りた。彰人、あのとき私は死ぬつもりだった。死ぬことで、あなたの一生に消えない後悔を刻みつけられると思った。でも、私は死ねなかった。代わりに、両脚を失った。あなたは戻ってきて、後始末はしてくれた。けれどそれは不要になった物を片づけるようなものだった。去り際、父はあなたに頭を下げた。迷惑をかけてすまない、と。でも、彰人。私たちのほうが先だったのに。この気持ちを、私は誰に話せばよかったのでしょう。私は醜くなった。自分が分からなくなった。あなたと、死ぬまで絡み合って生きるのだと思っていた。でも、脚を失った私は一歩も自由に動けない。生きることそのものの苦しさは、あなたが私に与えた痛みを、はるかに上回っていた。だから、彰人。私は行くよ。自分の命を終わらせる。死ぬと決めた直前、ようやく分かったのだ。私は、あなたに執着していた。その代わりに――私は自分自身を失っていた。――藤宮鈴音 遺書】……彰人はゆっくりと読み終えた。手紙は指先でかすかに揺れている。夜風が吹き、目尻の涙をさらっていった。彼は何も言わず、香炉の前へ進み、線香を足した。一本一本、丁寧に、鈴音へと手向ける。せめて――彼女の最期が乱雑な場所で冷たく扱われるものではなく、こうして体面を保っ
夜更け、モナは彰人の姿が消えていることに気づいた。病室の内外を探してもどこにもいない。……周防本邸の外に、すらりとした人影が立っていた。包帯を額に巻いたまま、夜風の中でただ屋敷の奥を見つめている。高い塀が一枚。それは物理的な境界であると同時に、彼の内に渦巻く渇望を遮る壁でもあった。メディアの株式現金化の件で騒ぎが大きくなって以来、周防本邸の警備は彼を見ても見ぬふりをする。以前のように煙草を差し出されることもない。彰人はまるで最初からこの家に足を踏み入れたことなどなかったかのように、完全に排除されていた。夜は澄み、静まり返っている。彰人は遠くに灯る明かりをじっと見つめた。ポケットから煙草を取り出し、火をつける。一本は自分に。一本は過去に。そしてもう一本はまだ来ぬ未来に。深夜近く、携帯が鳴った。麗子からだった。声はやけに低く、どこか背筋を冷やす響きを帯びている。「氷室さん……藤宮鈴音が亡くなりました。自殺です。まだ……体も冷えきっていません。よろしければ、来ていただけますか」生前、鈴音に冷たくしてきた分、死後が怖いのだろう。一人で対処する度胸もなく、場を支える誰かが必要だった。その役を担えるのは氷室彰人しかいない。この二年で、麗子の気位はすっかり削がれていた。彼女はもう分かっている。彰人が自分に興味を持ったことなど、一度もない。利用価値がある間、そばに置かれていただけだ。今、鈴音が死に、彼女に残された最善の結末は――無事に身を引くこと。それだけだ。麗子の声は震えていた。だが、彰人は携帯を握ったまま、表情ひとつ変えなかった。鈴音が死ねば、ほっとすると思っていた。胸が軽くなるか、せめて何かが終わった実感があるはずだと。だが、違った。湧き上がったのはただ深い寂寥だった。――ああ、あれほど灰色だった過去はこれで終わった。それでも、願乃は戻らない。張り詰めていた弦が音もなく切れたようだった。しばらくして、彰人は静かに言った。「今から行く」病院に着いたとき、医療スタッフはすでに鈴音の遺体を処理していた。白い袋に収められ、まるで医療廃棄物のように扱われている。不潔ではないが尊厳もない。そのとき、彰人が低く声を発した
願乃の表情は淡々としていた。「大丈夫。私なら」翔雅は歩み寄って腰を下ろし、そっと彼女の肩を叩く。語りかける声は低く、重みがあった。「彰人はもう理性を失ってる。気をつけて」こういう家に生まれた人間はたいてい感情や欲しいものに執着しすぎない。だが――願乃は彰人にとって特別な存在だったのだろう。失えば失うほど、取り戻したくなる。それも正気を失うほどに。彼はきっとここで引かない。翔雅にはそんな予感があった。食後、願乃は一人で寝室のテラスに出た。春の夜気のなか、外を静かに見つめる。澄佳がワインを一本持ってきて、向かいのソファに腰を下ろす。そして、そっと尋ねた。「彰人のこと、考えてる?」澄佳と願乃は同じ母を持つ姉妹だ。願乃が彰人に抱いていた想いを誰よりも知っている。初恋で、唯一の恋。しかも――澄佳でさえ認めざるを得ないほど、彰人は魅力的な男だった。結婚後も浮いた噂ひとつなく、それがまさか、鈴音という一人の女で崩れるとは。その女の話は聞いている。今は療養施設に入れられ、決して恵まれた暮らしではないらしい。想像するまでもなく、裏が見える。澄佳は妹に訊いた。「あのピーターはどういう人なの?」願乃はワインの栓を抜き、静かにグラスを揺らし、二杯注ぐ。小さく笑って答えた。「私が引き抜いた、有能な人材よ。それだけ」澄佳も微笑み、背もたれに身を預けた。姉妹は他愛ない話を続ける。英国の天気、メディアのこれから――その日の午後、メディアの株価は百円上がった。正体不明の資金が四十億円、一気に流れ込んだのだ。まるで即効性のある強心剤。願乃は調査を指示したが、新規口座で、持ち主は追えない。兄や姉の誰かだろう――そう思った。だが違った。……夜。彰人は発熱した。額は焼けるように熱い。モナは家にも帰らず、付き添い続ける。顔を拭こうとした瞬間、彼は彼女の手首を掴んだ。掠れた低い声に深い情と痛みが滲む。「願乃、願乃……一度でいい……許してくれ……後悔してる……本当に……」それを何度も何度も繰り返す。モナは胸が締めつけられた。正直に言えば、彰人は彼女によくしてくれた。それでも――周防社長を裏切った事実は変わらない。あの
結果として、救急車が到着し、彰人は病院へ搬送された。ストレッチャーが運び出されるその瞬間まで、彼は願乃の手を固く握りしめ、決して離そうとしなかった。慌ただしい足音のなか、メディア本社ビルでは社員がこぞって窓際に集まり、野次馬と化す――氷室社長VS周防社長。かつての夫婦が繰り広げる、愛憎入り混じる修羅場だ。「氷室社長は周防社長を愛しすぎたんだ。愛が狂気に変わって、理性を失い、栄光ある人生を自ら降りた」そんな声もあれば、「元夫婦が再会して、ついに大乱闘になった」という見方もあった。いずれにせよ、再会初日から圧巻の一言。氷室社長は見事に、ピーターから周防社長のすべての視線を奪い返したのだった。……病院。救急処置室。彰人は中へ運ばれてもなお手を離さず、願乃は半ば強引に一緒に入ることになった。医師と看護師が慌ただしく動き回り、傷口を洗い、処置を施しながら、合間にゴシップまで拾っていく。三十分も経たぬうちにニュースはトップに躍り出た。今日の見出しはすべてメディア一色だ。その後、彰人はCT検査へ。診断は中程度の脳震盪。感情的なもつれによる事故ということで、大事には至らなかったが、世間に格好の噂話を提供するには十分だった。午後になると、彰人はめまいを訴え、二度ほど嘔吐した。顔色も悪く、ひどく疲弊している。付きっきりで世話をしていたのはモナだった。退職後とはいえ、長年仕えてきた情は残っていた。夕方近く、彰人は朦朧とした意識の中で目を覚ました。願乃はもういない。モナも外で用事をしている。そこへ、周防家の人が来た。現れたのは翔雅だった。かつて義兄弟の間柄だった彼は、どこか同情を滲ませながらベッド脇に腰を下ろし、彰人の肩を軽く叩く。「生きてるかどうか、見に来た」彰人は苦笑し、体を起こす。「死にはしないさ」床から天井までの窓のほうを見やり、静かに視線を泳がせた。午前中、願乃はそこに立っていた。翔雅がため息をつく。「なあ……何やってるんだよ。キス一回で頭割られるなんて。新聞じゃ、お前の口は吸盤みたいで、救急車で運ばれても離さなかったって書かれてる。最近よっぽど飢えてたんだな、ってさ」彰人はぼんやり答える。「飢えてた」翔雅は一瞬きょとんとし、すぐに笑った
メディアの古参連中は満場一致で現状維持を選んだ。彼らは願乃とピーターが奇跡を起こしてくれるのを待っている――老後まで、いやというほど安泰に養ってくれる奇跡を。……社長室。彰人は静かに腰を下ろし、モニターに映る願乃の姿を見つめていた。堂々と壇上を行き来する彼女を誇らしく思う一方で、ピーターと並び、シャンパンを掲げる場面を目にした瞬間、胸の奥がきしむように痛んだ。自分が願乃を呼び戻し、成長を迫った。その結果、彼女を他の人の傍へ押しやってしまったのではないか。この一手は危うい賭けだ。負ける可能性のほうが高い。なぜなら、彼には願乃が必要だ。だが――願乃はもう彼を必要としないかもしれない。三十分後、執務室のドアが開いた。入口にモナが立ち、その脇に願乃がいる。静かな視線で彰人を見つめていた。少しして、願乃が言った。「氷室さんと、二人で話したい」モナは頷き、気遣うようにドアを閉めた。扉が閉じられると、室内にはかつて夫婦だった二人だけが残った。願乃は彰人に歩み寄り、低く、静かに問いかける。「どうして、こんなことをしたの?」その瞬間、乾いた音が響いた。強烈な平手打ちだった。彰人は避けなかった。端正な顔に五本の赤い痕が浮かんでも、彼はなお、柔らかな眼差しで彼女を見つめていた。八歳も年上の男はただ受け止めるように立っている。願乃の唇が震える。「彰人……私たちはとっくに離婚した。でも、母はあなたに恩があったはずよ。母には息子も娘もいた。それでも、あなたをあそこまで引き上げたのは度量と配慮があったから。なのに――あなたはどう報いたの?数千億を現金化してメディアを火にくべた。私を呼び戻すためだけに?利益至上のあなたが、なぜ丸ごと呑み込まなかったの。そっちのほうが、あなたらしいでしょう。何よ、この芝居がかった情は。正気なの?」言い終えるころ、視界が滲んだ。自分のためだけじゃない。母――舞のために。あれほどの規模のグループで、外姓の人間が二割を任される。どれほどの信頼と評価だったか。それを彼は売った。しかも――願乃が知る彼なら、この先にどれだけの落とし穴を用意しているかわからない。この一発は決して無駄じゃない。彰人は黙って彼女を見つめ――次の瞬間、唐突に。彼は細い手首を掴
京介は舞の手をぎゅっと掴んだ。真剣な眼差しで彼女を見つめながら静かに言った。「お前が思っているような関係じゃないんだ。ロイヤルガーデンは愛の巣なんかじゃない。俺は彼女と一線を越えたことなんて一度もない。身体の関係も何もない」舞はその手を勢いよく振り払い、一歩後ろへ下がった。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。あまりにも残酷な真実に取り繕う気力も失せていた。鼻先に溜まった涙がふっとこぼれた。恍惚とした笑みが浮かび、彼女は自分の惨めさを隠そうともしなかった。「じゃあ、それって純愛なのね。離婚のとき、あなたは法廷で必要なのはロイヤルガーデンの住まいだけ
その後、音瀬が少し咳き込んだ。京介はすぐに水を手に取り、彼女に差し出した。その姿はまるで、誰が見ても優しい恋人のようだった。舞には分かっていた。——これは音瀬が見せつけるための演技。自分がまだ京介の心にいるのだと、舞に示し、引かせようとしている。だが——残念ながら、舞はとっくに失望しきっていた。そんな見え透いた芝居、もはや彼女には何の痛痒もなかった。……とはいえ。彼女の存在そのものが、やはり不愉快ではあった。そんな舞の思考を遮るように、清花がぽつりと呟いた。「やっぱり出かける時は、ちゃんと占ってもらわないとね……運が悪けりゃ、変なものに出くわすわよ」
彼はすぐに顔色を変え、実に穏やかで人当たりの良い声を出した。「伊野夫人、京介がしたことは、どう責められても仕方ありません。今日は寛と妻、それに私で舞と赤ちゃんの様子を見に参りました」彼の合図で、使用人が高級な滋養品を次々と運び込ませた。すべてが希少な品ばかりだ。清花はこめかみに手を当て、微笑みながら言った。「うちの慶事に、周防家が首を突っ込む理由があります?その品々もお持ち帰りください。うちはちゃんと赤ちゃんを育てられますし、誰かと駆け落ちしたような父親なんて必要ありません」礼はあくまで上品な物腰を崩さずに言った。「京介は結局、海外には行かなかったじゃありませんか」清花は冷たく鼻
気づけば、もう十月の終わりが近づいていた。音瀬の病状は悪化の一途を辿っていた。彼女は腎臓のドナーが見つかる前に、自分の時間が尽きてしまうのではないかと恐れ、世界一周旅行をしたいと申し出た。だが、京介は首を振った。「……もう少し、待ってみよう」病院にはいても、彼の心はどこか別の場所にある。それを感じ取った音瀬は焦りを募らせた。——京介の心を、何としてもつなぎ止めたい。土曜の夜、有名な舞台『雷鳴』が立都市にやって来た。豪華なキャスト陣が話題で、チケットは即完売。音瀬は特別にボックス席のチケットを手に入れ、京介を誘った。だが、京介は反射的に断った。「体







