LOGIN章真の車が楓ヶ丘邸へ戻った頃だった。まだ車を降りてもいないうちに、桐生から電話がかかってきた。その声は珍しく切迫していた。「葉山社長、大変です。ネットのトレンド一位になっています。ご覧になりましたか?社長とシェリーさんが密会していたとか、彼女が恋人だとかいう噂です。国家代表チームの敗戦ニュースまで押しのけてしまっています。どう対応しましょうか」章真は眉をひそめた。「彼女は結安だ」電話の向こうが静まり返る。長い沈黙のあと、桐生はようやくその意味を飲み込んだ。――あのシェリーが結安だった?結安が帰ってきた?いや、帰ってきたのではない。ずっと立都市にいたのだろう。ただ、この街はあまりにも広すぎる。幹線道路は何車線も続き、人が偶然出会うにはあまりに難しい。だが、社長がどうやって結安と再会したのか。桐生にそれを尋ねる勇気はなかった。「……どのように対応なさいますか?」そう小さく問いかける。章真は迷いなく答えた。「広報に声明を出させろ。女優シェリーとのスキャンダルを否定する」桐生は思わず息を呑んだ。これは事実上、関係を公表する絶好の機会だった。もし社長が結安と本気で一緒になるつもりなら、今こそ彼女に正式な立場を与えるべきではないのか。否定してしまえば、結安はまた日陰の女のままだ。桐生の中では、結安は今でもあの十八歳の少女だった。何か言ってあげたかった。けれど、章真の意思は固かった。彼は腹を立てていた。胸の奥にくすぶる不快感を抑えきれない。自分にもかつて多くの女性がいた。だが、結安と出会って以降は違った。それなのに彼女は芸能界に身を置き、何人もの男と関係を持ったと言った。男なら受け入れられるはずがない。正式な立場など与えたくない。何より、彼女自身も望んではいないのだ。章真は電話を切った。車のドアを開け、邸内へと入っていく。その夜、耀石グループは異例の速さで声明を発表した。【厳正なる声明現在インターネット上で拡散されております葉山章真氏と女優シェリー氏との交際報道につきまして、耀石グループは以下の通り見解を表明いたします。当社は悪質な誹謗中傷およびネット上の暴力行為に対し、今後さらに厳正な対応を取ってまいります。法令に抵触する行
車に乗り込む。章真がシートベルトを締めながら、何気ない口調で尋ねた。「寄っていくか?」家へ帰ろう、とは言わなかった。そんな言葉を口にする資格などないと思っているのだろう。彼女ははっきり言ったのだ。すべては彼の独りよがりだったと。自分たちは恋人ではなかったと。だから彼は、ただ「寄っていくか」とだけ言った。結安はすぐには答えなかった。窓越しに広がる夜景を見つめながら、小さく呟く。「やめておきます」隣から短い笑い声が聞こえた。章真が顔を向ける。その視線は真っ直ぐだった。「蝶野さんには世話になっただろう。家の使用人たちも、お前を可愛がっていた。会いたくないのか?この数年、ずっとお前のことを気にかけていた」結安は黙ったままだった。ここで折れてはいけない。章真は飽きれば離れていく。彼には女がいくらでもいる。若くて綺麗な女性など、望めばいくらでも手に入る。けれど一度あの家へ戻れば話は変わる。曖昧な関係のまま、また過去へ引き戻されてしまう。それだけは嫌だった。彼女には彼女の計画がある。十分な資金を貯めたら、チョコを連れて海外へ行く。そこで新しい人生を始めるのだ。章真は知らない。自分に娘がいることを。この先きっと彼は結婚し、家庭を持ち、自分の人生を歩いていく。それでいい。結安の沈黙は、はっきりとした拒絶だった。章真もそれ以上は言わない。彼女が距離を置きたいなら好きにすればいい。男はスマートフォンを彼女へ投げるように差し出した。「住所」声は冷たい。「送ってやる」スマートフォンにはまだ彼の体温が残っていた。結安は妙に熱く感じる。結安は視線を落とし、マンションの住所を入力した。それを彼へ返す。返す際、指先がわずかに触れた。結安は慌てて手を引っ込める。すると耳元で、男が小さく嗤った。「昼間はあんなだったのに、指が触れただけで照れるのか?結安、お前はもう十八歳の小娘じゃないだろう」……彼女はもう他の男を知っている。そう思うと、どうしても許せなかった。他の男と関係を持つくらいなら。あちこちの男のもとを渡り歩くくらいなら。なぜ自分と家庭を築こうとはしなかったのか。あの半年余り。章真にと
食事を終えると、女店主が伝票を持ってやって来た。「お会計、六千円になります」章真は財布から千円札を六枚取り出し、テーブルに置く。そして結安を見て言った。「行くぞ」結安が立ち上がったその時だった。背後から若いカップルが慌ただしく通り過ぎ、危うく彼女にぶつかりそうになる。身体がよろめき、腰がテーブルの角に当たりそうになった瞬間――一本の大きな手が細い手首を掴んだ。軽く引かれる。それだけで、彼女の身体は危険な位置から離れていた。体勢を立て直した結安は、反射的に手を離そうとする。だが、男は離さなかった。結安は視線を落とす。絡み合ったままの二人の手。周囲の喧騒が、不意に遠のいた気がした。午後から続いた濃密な時間でさえ、この瞬間には敵わない。父と母を失い、ひとり取り残されたあの日。章真もまた、こんなふうに彼女の手を握り、自分の傍へ連れて行った。その瞬間――彼女は二十四歳の女性ではなくなっていた。十八歳だったあの秋へ。初めて章真と出会った日へ。意識だけが引き戻される。章真は見下ろしながら言った。低く落ち着いた声だった。「行こう」そうして彼は、手を離さないまま店を出た。二人ともまだ若い。だが、周囲の学生たちとはどこか違う空気をまとっていた。店内ではすでに何人かが結安に気づき始めていた。「あれ、シェリーじゃない?」そんな囁き声も聞こえていたが、本人たちは気づいていない。そのまま二人は車に乗り込み、別の場所へ向かった。連れて来られたのは、立都市でも指折りのヘアサロンだった。オーナーが章真を知らないはずがない。澄佳も芽衣も長年のVIP顧客であり、章真自身も母や妹に付き添って何度も訪れている。入口をくぐった瞬間、オーナーは結安を見て目を細めた。――この人が、あのシェリーか。だが、商売人にとって見て見ぬふりは基本だ。彼は何も言わず笑顔で歩み寄った。「葉山様、本日はどのようなご希望でしょうか」章真は顎を少し上げる。「髪をストレートにしてやってくれ」それだけ言うと、近くのソファへ腰掛け、煙草に火をつけた。四年経った今も、相変わらず煙草が手放せないらしい。――本当に変わらない。結安はそう思った。注文は単純だった。
料理を待つ間。結安は静かに尋ねた。「どうしてここで食事なんですか?」ここは高級レストランではない。――喫煙もできる。章真は煙草を指に挟み、ゆっくりと煙を吐き出していた。店内には若い客が多く、その大半はカップルだった。周囲の女子学生たちが何度もこちらを盗み見ている。章真を見る者もいれば、結安を見る者もいる。二人ともあまりにも目を引く存在だった。誰かがひそひそ声で話していた。「あの男、耀石グループの社長じゃない?」「じゃあ隣の女性は誰?」「シェリーっぽくない?知ってるでしょ。ここ数年で少し売れてきた女優さん。三番手くらいだけど、すごく綺麗なのに決定打がなくて大ブレイクまではしてない人。雰囲気がすごく似てるんだよね」「でもシェリーっていつももっと派手な格好じゃない?」「だからこそ気になるの。写真撮ってネットに上げてみようかな。もし本人なら話題になるかも。相手も有名人だし」「バレないようにね」「わかってるって」……二人は自分たちが撮影されていることなど知らなかった。やがて料理が運ばれてくる。章真は煙草をもみ消した。そして結安を見つめながら、静かに口を開く。「ここを選んだのは京央美術大学の近くだからだ。もしあの時、お前がいなくならなかったなら、仕事の合間に迎えに来て、そこのカップルみたいに飯を食っていたと思う。今みたいにな。結安、お前が去らなかったなら、の話だが」結安は彼を見つめ返した。章真が二人をそういう関係として語ったのは、これが初めてだった。だが、本当にそうだったのだろうか。当時の彼女には選択肢などなかった。すべては彼の意思から始まったことだった。人生を変えられたのも。多くのものを失ったのも。それなのに今では、まるで彼の方が傷つけられた側であるかのようだ。――滑稽だ。結安はかすかに笑った。「それも全部、もしの話ですよね。現実には私は去りました。現実には、あなたと一緒に生きることを選ばなかったです。たとえ正式な立場を与えられたとしてもです。理由はあなたもわかっているはずです。最初から間違っていたんです。当時の私は幼くて、抗う力がありませんでした。そして今も――結局、抗えないのかもしれません。あなたには絶大な力があります。
「薬局?」男はすぐに彼女の意図を察した。わずかに眉をひそめる。本来なら産めばいいと言うつもりだった。だが、結安が口にした「三人」という言葉を思い出し、その考えを捨てる。無言のままアクセルを踏み込み、最寄りの薬局へ向かった。店の前に車を停めると、男は当然のようにシートベルトを外し、自分で買いに行こうとした。「待って」結安が慌てて呼び止める。「私が行くから」あの時もそうだった。彼が買ってきた薬が原因で思わぬ事態になったことがある。同じ失敗はしたくなかった。男はじっと彼女を見つめた。しばらくして了承したのか、背もたれに身を預ける。結安は車を降り、店へ向かった。買い物はすぐに終わった。店を出ると、黒いクーリナンが路肩に停まっている。開いた窓から伸びる長い指先には、真っ白な煙草。男はゆっくりと煙を吐き出していた。淡い煙が夜空へ溶けていくたび、引き締まった前腕が静かに動く。それだけの仕草なのに、不思議と目を奪われる。彼はダークグレーのシャツを着ていた。上着はもう脱いでいる。ネイビーのジャケットは後部座席へ無造作に放り出されていた。端正で引き締まった横顔には細縁の眼鏡。知的でありながら、どこか近寄りがたい深さもある。結安はその姿を静かに見つめた。自分はどれほど長い間、この人に会っていなかったのだろう。それなのに再会しても不思議なほど他人には感じない。彼に抱き寄せられたことさえ、どこか自然に受け入れてしまった。共に過ごした時間は一年にも満たなかったはずなのに。彼女の視線に気づいたのだろう。男は煙草をもみ消し、こちらを見た。そして彼女の手にある袋へ目を向ける。「慣れてるのか?そういうの、よく買うのか。好きなメーカーでもあるのか?」結安の喉が詰まる。意識が現実へ引き戻された。夜風が吹き抜ける。少し冷たかった。彼女は何も答えないまま車へ戻った。未開封のミネラルウォーターを探していると、収納スペースの奥に小さなヘアクリップが目に入る。淡い色合いの上品なデザイン。二十代前半くらいの女性が好みそうなものだった。それが彼の財布のすぐ隣に置かれている。まるで当然のように。数秒見つめたあと、結安は静かに尋ねた。「彼
ダークカラーの家具に、グレーのシーツ。そこは休憩室のベッドだった。それだけで、結安には巨石エンターテインメントの実権者がすでに入れ替わったのだとわかった。そうでなければ、彼がこんな場所で女性を泊めるはずがない。彼はそういうことに人一倍こだわる男だ。それに、枕に残っているのは彼の匂いだけだった。結安は細い身体を枕に預けながら、ぼんやりと考える。これから先、この場所は彼が女優たちを招き入れる場所になるのだろう。それが自分かもしれない。あるいは、別の誰かかもしれない。――昔から、彼は驚くほどスタミナのある人だった。背後には、鍛え上げられた男の体温がある。男は彼女の艶やかなロングヘアを指先でもてあそんでいた。正直なところ、悪くなかった。彼女はもう幼い少女ではない。彼もまた、痛くはないか、不快ではないかと気を遣う必要はなくなっていた。だから先ほどは、自分の欲望の赴くままに振る舞った。だが、それでも満足はしていないらしい。やがて男は冷えた声で言った。「起きろ」ベッドの上に服が投げられた。黒のスキニーパンツに白いTシャツ。その上から羽織るネイビーのジップアップジャケット。おそらく桐生が急いで買ってきたものだろう。結安はシャワーを浴び、その服に着替えた。着てみると驚くほどサイズが合っている。一方の男はすでに身支度を終えており、淡々とした目で彼女を見ていた。先ほどまでの余韻など微塵もない。まるで用事を済ませて立ち去るだけのような顔だ。床から天井まで届く窓の向こうでは、街に灯がともり始めていた。男は煙草を一本取り出し、ゆっくりと煙を吐く。そして彼女を見つめた。悪くない。先ほどよりはずっとまともな姿になった。だが、まだ直すべきところがある。しばらくして煙草をもみ消し、言った。「まずは飯だ」そのあとサロンへ連れて行き、髪をストレートにさせるつもりなのだろう。こんな派手な巻き髪はもう二度と許さないと言わんばかりに。結安が彼に連れられて外へ出るときには、サングラスをかけていた。メイクを落とし、服も着替えていたため、誰にも気づかれなかった。入口で待っていた小野ですら、目の前の女性が自分の上司であるシェリーだと気づくまで時間がかかったほどだ
央筑ホテルに特大の案件が舞い込んだ。バレンタインデーの前後三日間、周防家がホテルを丸ごと貸し切り、澪安と慕美の結婚式を執り行うという。当日は、二百六十室すべての客室と全宴会場――そのすべてを周防家が使用する。総額およそ五千万円。だが価値は金額のそれにとどまらない。栄光グループは国内最大の財閥であり、その社長がここで結婚式を挙げるとなれば、とてつもない話題性が生まれる。この一件が、央筑ホテルの名を全国へ押し出すのは目に見えていた。まさにホテル側にとっての分岐点――そんな重大イベントだった。ホテル責任者の蒼川青河(あおかわ せいが)は、夕梨を執務室へ呼び出した。夕梨
一同席に着いた。発言の口火を切ったのは学生会長だった恒一だ。グラスを手に場慣れした様子で言葉を操る。どうやら好きな人の前で格好をつけたいらしく、話ぶりも堂々としている。それは朱里の顔をこれ以上ないほど立てるものだった。朱里は誇らしげに恋人を見つめ、顔には自信が溢れている。――見て。恒一は私が選んだ男。これが私の最低ライン。自分の未来は順風満帆だ。それに比べて、岸本夕梨。男に寄りかかって生きている女。まともな男がそんな女を妻に迎えたいと思うだろうか?朱里はその場の視線を一身に集め、得意げだった。恒一がスピーチを終えると、グラスの酒を一気に飲み干す。
若い者たちにとって、澪安をからかえる機会など滅多にない。そう簡単に解放するはずがなかった。披露宴は深夜まで続いた。慕美は先に部屋へ戻り、休むことにした。澪安がようやく解放されたのは夜明け前――それも京介の顔を立ててもらえたからこそで、そうでなければ朝まで引きずり回されていただろう。皆それぞれ満足し、ようやく散っていった。……周防本邸の別院は次第に静けさを取り戻した。澪安はすぐに新婚の部屋へ戻らず、裏庭へ足を向けた。そこで淡い紫の百合と白い桔梗を一束摘み取る。清らかな白とやわらかな薄紫――穏やかな夜によく似合う色合いだった。廊下ですれ違う使用人たちには
夕梨は顔を上げ、彼の瞳をまっすぐに見返して率直に言った――「そのままの意味よ。昨夜は、ただの衝動。お互い納得した上のことだったでしょう?あなたも言ったじゃない、私たちはどちらも独身で、余計なことを気にする必要はないって」……寒真は彼女を見据えた。黒い瞳には嵐の気配が渦巻いている。だが、怒るどころか、彼は笑った。「ずいぶん成長したじゃないか、岸本夕梨。つまり、一夜限りってことか?昔はキスするだけで真っ赤になってたくせに、今じゃこんな言葉を、平然と口にできるようになった。この数日で色々ありすぎたのか?それとも……吹っ切れて、遊びを覚えた?」夕梨は寒真を恐れなかった。







