LOGINその瞬間――胸を締めつけるような、あの感覚が襲ってきた。これまで、彰人は自分の独占欲がここまで強いとは思ってもみなかった。願乃と出会った頃、彼女はまだ二十代前半。透き通るように純粋で、触れれば壊れてしまいそうなほどだった。彼女の「初めて」はすべて自分のものだった。だからどこかで――願乃はずっと、自分のもののままだと思っていた。離婚して三年。それでも、彼女が新しい恋をしているかもしれないなんて、他の男に触れられているかもしれないなんて――一度も、考えたことがなかった。そのとき、彰人の顔色は明らかに変わっていた。ピーターを見据え、低く、噛み締めるように問う。「キスしたのか?」ピーターはまだ事の重大さに気づいていない。肩をすくめ、あっけらかんと答える。「そんなの普通だろ?オープンな関係ってやつさ。親密なことも試したけど、彼女は踏み込めなかった。それだけだよ。でも今でも思う。願乃は本当に魅力的な女性だ」外国人らしい率直さだった。ピーターにとっては、ただの賛辞。だが――彰人の耳にはまったく違うものとして響いた。育ってきた環境のせいか、彼は極めて感情を抑える男だった。外からは何を考えているのか読み取れない。だが、その均衡が崩れた瞬間だった。胸の奥で何かが弾け――理性が完全に途切れた。次の瞬間、拳が振り抜かれる。場所は休憩室だった。一撃を受けたピーターは数歩よろめき、そのまま棚へと叩きつけられる。ガシャン――食器が一斉に崩れ落ち、床に散乱する。乾いた破砕音が響き渡る。場が凍りついた。ピーターは一瞬呆然とし、すぐに英語で罵声を吐く。だが、その言葉が終わる前に、襟首を掴まれ――もう一発。容赦なく叩き込まれる。悲鳴があちこちから上がり、現場は一気に混乱に包まれた。両社のスタッフが慌てて止めに入ろうとするが――誰も彰人には手を出せない。その場に漂う威圧感はまだ消えていなかった。最初に駆けつけたのは夕梨だった。この立光ホテルのオーナーである彼女が来ないわけにはいかない。だが状況を見た彼女は願乃へと視線を送り、わずかに眉を上げた。――奪い合うからこそ、恋は成立する。でなければ、なんて味気ないのだろう。――好きにやればいい。請求書はちゃんと彰人に回すけ
数分後、願乃は男を突き放した。ふらつく足取りのまま、その場を飛び出す。外の空気は洗面スペースよりわずかに暖かいはずなのに、それでも彼女の身体はひどく不快だった。ストッキングのあたりがひんやりと冷え、そこに残る彰人の触れた感覚が、まだ消えずにまとわりついている。「社長」雅南が歩み寄る。願乃はテラスへ出て、手すりに寄りかかりながら夜風に当たる。頬に残る熱とざわつきを冷ましつつ、掠れた声で問いかけた。「お客様は?」「すべてお見送りしました」雅南は頷きながらも、上司の様子に違和感を覚える。服装は整っている。だが、髪はわずかに乱れ、ストッキングもどこか不自然に引き上げたような跡がある。まさか――さっき、氷室社長を見かけたばかりだ。整った顔立ちに、わずかな赤みを帯びた表情。どこか艶めいた空気を纏っていて、そして今の願乃の様子――それらが結びつけば、想像はひとつしかない。けれど、口に出せるはずもない。「車は下で待機しています」小さくそう告げる。願乃はすぐには答えなかった。やがてバッグから細いレディース用の煙草を取り出し、震える指で火をつける。煙をひと口吸い込むと、その声もかすかに揺れていた。「先に下で待ってて。少し、一人になりたい」雅南は何か言いかけたが、結局は言葉を飲み込み、その場を離れた。願乃は煙を深く吸い込む。淡く立ち上る煙が顔を包み込み、輪郭をぼかす。どこか大人びた影が差す。それでも、さっきの出来事が頭から離れない。イギリスにいた頃――彼女はピーターと、いわゆる恋人関係だった。身体を重ねたこともある。けれど最後には、どこかで拒絶してしまい、その関係は自然に終わった。今は、ただのビジネスパートナーだ。彰人だけが、彼女に「女としての感覚」を呼び起こす。あの震えるような感覚が、いまもまだ身体の奥に残っている。愛情ではないと、わかっている。それでも、身体が覚えている。願乃はその事実が嫌だった。まるで自分が、どこかへ引きずられていくようで。……一本吸い終えると、願乃は下へ降りた。自分の車へ向かう途中、視界に入ったのは――黒い車体の高級SUV。その後部座席の窓が開いており、外には若い女性が立っていた。薄着で、若く美しい――さっきの席で彰人
願乃が振り返り、施錠された扉を見つめた瞬間、思考がわずかに乱れた。「何してるの、彰人?頭おかしいんじゃないの?」……願乃はロックされた扉を見つめ、そのまま駆け寄って開けようとする。だが彰人の身体から漂うアルコールの匂いに気づき、刺激してはいけないと悟る。このままでは損をするのは自分だ。たとえ彼が怪我をしていようと、酒を飲んでいようと、願乃ひとりを押さえ込むことなど造作もない。結局、扉を開けることもできず、逆に男に背後から扉へと押し付けられた。逃げ場を失い、身体は強引に絡め取られる。もがけばもがくほど、状況は悪くなるばかりだった。願乃はただ、仰向けに息を荒げながら呟く。「離して」灯りの下、男の表情はどこか複雑だった。彰人は彼女を見下ろす。高く通った鼻梁が光を受けて際立ち、ほんの少し顔を寄せれば、そのまま触れ合ってしまいそうな距離――そして彼は実際にそうした。ゆっくりと願乃に近づき、彼女が息を呑んだ瞬間、片腕で腰を抱き寄せる。逃げる隙など与えない。「彰人、離して……」女の声はかすかに震えていた。いまや彼女はメディアのトップであっても、二人きりの空間では、男女の力の差はあまりにも明白だった。そしてその差があるほど、男は決して手を緩めない。腰を強く引き寄せ、黒い瞳には抑えきれない熱が宿る。低く掠れた声が彼女の唇にかかる距離で落ちてくる。「ただの付き合いだ。何もしてない。彼女には触れてもいないし、触れさせてもいない。たまたま隣に座っただけだ、場の空気を壊したくなかっただけで」その吐息は言葉の一つ一つとともに、熱を帯びて彼女に降りかかる。願乃は途切れ途切れに答える。「私には関係ない」「関係ないわけないだろ?兄貴に肋骨を三本折られたんだ。背中もほとんど裂けたみたいなもんだ。歩いても痛い、座っても痛い。そんな状態で女遊びなんてできると思うか?願乃……若い女が隣に座ってたの見て、腹が立った?」……男という生き物は驚くほど巧みに言い訳を並べる。どれだけ情を込めた声音で語ろうと、同時に相手を追い詰めることもできる。たとえ彼が心から願乃を想っていたとしても、それは変わらない。願乃は彼を見据え、はっきりと言い放つ。「彰人、ほんとにどうかしてる」男は笑った。「……ああ、そうだな」次の
医師からは一週間の入院を勧められていたが彰人は三日で退院した。退院すると、その足で莫高チップへ戻った。莫高チップはこの二年で急成長を遂げ、いまや国内の新エネルギー車メーカーにとっては、ほぼ第一選択といえる存在になっている。その日も午後四時まで仕事をしていると、モナが入ってきて、声を落として言った。「社長、万信の松山社長から、ビジネスディナーのお誘いです」彰人はデスクの向こうに腰掛けていた。白いシャツに、きっちりとした襟元。そこから覗く首筋がやけに色気を帯びている。――ビジネスディナー。その意味を彼が分からないはずがなかった。食事のあとは、たいていクラブへ流れ、歌って飲んで遊ぶ。若い女の子がつくのも、半ばお約束だ。かつて、メディアの社長だった頃の彰人なら、こうした席には出なかった。だが莫高はまだ成長期にある。多少は相手の顔を立てる必要もある。モナを見て、少し考え――「分かった。受けておいてくれ」モナは頷き、手配に向かった。彰人は彼女の背中を見送ってから、しばらくして机の上の写真立てを手に取った。春の陽気の中で撮った一枚。願乃が後ろから彼の首に腕を回し、屈託なく笑っている。彰人は長いこと、その写真を見つめていた。六時きっかりに退社し、怪我を抱えたまま会食へ向かう。それなりの地位にいる男たちの席だ。若くて綺麗な女の子がいないわけがなく、下世話な冗談も飛び交う。彰人は自分から加わることはしないが、場の空気を壊すこともしない。若い女性が一人、隣に座るのを許した。松宮可音(まつみや かのん)――まだ名前の知られていないモデル。こうした席での相場は十万〜二十万円ほど。もし気に入られて連れ出されれば、さらに別の話になる。最初、可音は彰人を狙っていた。立都市で、彰人の財力を知らぬ者はいない。だが、当の本人は至って紳士的だった。酒を飲ませることもなく、太腿に手を伸ばすこともない。可音はすぐに悟った。――この人は身持ちの堅いタイプ。たぶん、心に誰かいる。それ以上踏み込むことはせず、行儀よく隣に座っていた。その、まさに同じ夜。願乃もまた、接待の席に出ていた。個室は偶然にも隣だった。少し酒が回り、頭がぼんやりする。個室内の化粧室を使う気にもなれず
その夜のうちに、彰人は病院へ運ばれた。肋骨三本の骨折に、軽度の内出血。結局、丸一週間の入院となった。身の回りの世話は気の毒なほどモナが引き受けている。その間、周防家からも見舞いがあった。と言っても、来たのは他でもない翔雅だ。「人が死んでないか」の確認役として派遣され、元気そうなのを一目確かめると、しばらく腰掛けただけで帰っていった。翌日、放課後になると、結代が病室に顔を出した。腕を吊り、顔色の悪い父を見上げて、唇を尖らせる。「パパ、伯父ちゃんが言ってたよ。パパはあんまり打たれ強くないって。数発で限界だったらしい」彰人は今にも血を吐きそうな気分になる。――あの澪安がよくもそんなことを言えたものだ。あれほど太い棒をへし折っておいて、自分が数発受けてみろというのか。もっとも、結代はそれなりに親孝行だった。小さな手で、彼の腕を揉んでやると、すぐにノートを取り出して宿題を始める。その姿を見ていると、胸が熱くなる。未来はまだ捨てたものじゃない。彰人は尋ねた。「ママは?」「仕事だよ。パパが後始末を丸投げしたんだから、忙しいに決まってるでしょ」彰人は一瞬、言葉に詰まった。結代は鉛筆を動かしながら、独り言のように続ける。「私、早く大きくなって、パパとママの会社を継ぐの。女社長になるの。そしたら二人は思う存分恋愛すればいいじゃない。追いかけ合って、潰し合って、好きにやれば?」彰人は言葉を失った。モナは思わず口元を押さえて笑う。彰人は結代を指差し、拗ねたように言う。「ほら見ろ、この子。どこでそんな言葉覚えたんだ。伯父ちゃんに似たんじゃないか?」モナは笑いを堪えながら答える。「いえ、たぶん社長に似たんだと思います。周防さんは子どもの頃、もっとマイペースで、遊ぶのが好きでしたから。結代ちゃんみたいに野心的じゃなかったですよ」彰人は一度、ふっと笑った。だが、その笑みはすぐに固まる。願乃と出会った頃、彼女もよく笑う少女だった。大きな理想もなく、家族の願いはただ――楽しく生きてくれればいい、というだけ。それでも、その彼女をここまで追い込んだのは自分だ。彰人は自分が身勝手だと認めている。結代の、願乃によく似た顔を見つめながら、視界がわずかに滲んだ。彼は石でも鉄でもな
まずコートを脱ぎ、次にシャツを脱ぐ。一枚、また一枚と無駄のない動きだった。「分かった。仏間へ行く」仏間とはもともと周防祖父の書斎を改めたものだ。跪いて拝むことは実はそう多くない。代わりに多いのは、折檻である。周防家の男も婿も例外なく一度は打たれてきた。ただし、元婿を打つのは今回が初めてだった。だが、彰人はまるで粘りつくような存在で、願乃がどうしても振り切れない男だ。ならば、一度打つなら徹底的に打つまで。一行は仏間へと移動した。彰人は実にあっさりとしていた。祖父の遺影の前に、背筋を伸ばし、真っ直ぐに跪く。翔雅も来ていた。彼は澪安の肩に軽く肘を当て、声を潜める。「この肩と腰の差、反則だろ。昔、願乃が夢中になったのも無理ないな。どこの女の子だって、くらっとくる。外に出たら、相当な稼ぎ頭だぞ」澪安はくっと小さく笑った。そこへ、寛が震える足取りで近づき、棒を澪安に差し出した。声もまた、細かく揺れている。「祖父はな……もう目がよく見えん。澪安、お前がやるのがいい。思い切り打て。情けは要らん。壊れやせん。周防家の男で、打たれて駄目になった者などおらん。打てば打つほど、まともになる。この小僧のためだ。丁寧に、しっかり打て」澪安は棒を受け取り、静かに頷いた。「承知しました、お爺様」さすがに、彰人も一瞬、言葉を失った。澪安は働き盛りだ。本気で振るわれれば、命が半分持っていかれかねない。それでも、この場で怯むわけにはいかない。彰人は歯を食いしばり、膝をついたまま動かなかった。澪安に容赦などない。棒は一本一本、確実に、広い背へと叩きつけられる。一言も発さず、ただ黙々と執行するその姿に、翔雅は背筋が粟立つ思いだった。――昔、自分の番が澪安でなくて本当によかった。この男、容赦がなさすぎる。十分も経たないうちに、彰人の背中は血に染まった。痛みはとっくに人の耐えられる域を超えている。だが、呻けば資格を失う。ここで命乞いをすれば、周防家の敷居を二度と跨げなくなる。痛みと、願乃を失うこと――後者のほうがはるかに耐え難い。彰人はただ耐えた。――そして。乾いた音とともに、棒が折れた。同時に、彰人の肋骨も三本、折れていた。男は床に伏し、背中はもはや、
ベルリン。ホテルの最上階のスイートルーム。寒真が独りで酒を煽っていると、ドアを叩く音が響いた。ルームサービスかと思い、彼はグラスを置いて立ち上がった。しかし、ドアの向こうに立っていたのは、予期せぬ人物――玲丹だ。水色のシルクの浴衣を纏った彼女は、この上なく官能的だった。細い肩に流れる黒いウェーブのかかった髪が男を誘い、手には赤ワインのボトルを携えている。彼女はそれを軽く掲げて見せた。「一緒に一杯、どうかしら?」女の意図を察するのは難しくなかった。寒真は少し考えた後、無言で彼女を中に招き入れた。だが、部屋に戻るなり、彼はシャツとスラックスに着替え、隙のない身なりで
ついに、その時が訪れた。邸内に入った寒真は真っ先に寒笙の姿を捉えた。周囲が反応する間もなく、彼は最愛の弟を力一杯抱きしめ、その背を何度も強く叩いた。その仕草だけで、言葉以上の思いが交わされた。寒真の傍らに立つ夕梨は、ふとした瞬間に寒笙と視線がぶつかった。交わされる視線に、万感の思いが込み上げる。だが、この歓喜に沸く再会の喧騒の中で、二人がかつて愛し合っていたことを知る者は誰もいない。幼い日の無垢で、何物にも代えがたいほど尊かった恋心は、あの日、不慮の事故とともに消え去ったはずだった。再会した彼女は「兄の恋人」となり、彼は「命の恩人の娘」を妻に迎えていた。翠乃は良き妻だっ
言葉が終わるのとほぼ同時に、走行性能の高い車が、わずかに揺れた。だが、寒笙はすぐに立て直し、何事もなかったかのように淡々と口を開いた。「……彼女とは同じ大学だったんだ。昔、キャンパスで顔を合わせたことがある」翠乃は納得したように頷いた。「そうだったのね。お二人とも、とても優秀な方たちですもの。不思議じゃないわ」寒笙はふと妻の横顔に視線を向けた。形の良い薄い唇をきつく結んだまま、結局それ以上の説明はしなかった。どう説明しろというのか。若い頃に想いを寄せた相手を、ひとつの事故で失い、再会した時には自分は妻子ある身で、彼女は兄の婚約者になろうとしている――そんな残酷な真実
朝倉家にとって、これほど最悪な正月はなかった。寒真は急いで退院すると、最高の医師を雇い寒笙の治療にあたらせた。立都市からH市、さらには海外へ。世界中の名医を尋ね歩いた。これ以上心を押し殺し続ければ、寒笙は本当に壊れてしまう――そう思えたからだ。この弟を寒真は愛してもいたし、同時に憎んでもいた。……正月もすっかり明けた一月半ば。特別病棟のベッド脇に、寒真は静かに腰を下ろしていた。手には、温かいお粥の入った茶碗を持ち、やつれて人相まで変わってしまった寒笙を見つめる。「起きろ、少しは食え。後で車椅子で日光浴に連れて行ってやる。一日中閉じこもって、幽霊にでもなるつもりか