ログイン言葉にできないほどの想いが宿った、その視線の中で――彰人はもう抑えきれなかった。低く、かすれた声で呼ぶ。「願乃」願乃は視線を落とし、息子をしっかりと彼の腕へと預ける。「気をつけて」その声は静かで、どこまでも落ち着いていた。なぜ彼が突然そんな温もりを見せたのか――願乃には分からなかった。だが、受け入れることはできない。もう別れたから。そして今、彼の傍には涼香がいる。たとえかつて夫婦であり、二人の子どもをもうけたとしても――今、彼の隣にいるのは涼香なのだ。その線引きを願乃ははっきりと自分の中で定めていた。激しく揺れた感情もやがて静まっていく。彰人もまた、徐々に我に返った。――そうだ。もう、終わった関係だ。別れを切り出したのは自分。他に好きな人ができたと告げ、その人と生きると決めた。願乃を自由にすると言ったのも自分だ。先ほどの衝動はあまりにも身勝手だった。二人は距離を取るように別れ、願乃は家の用事を整えるために階下へと向かった。――彼を避けるように。静まり返った寝室に、彰人と清席だけが残る。彰人は息子を抱き、優しくあやした。不思議なことに、さっきまで眠るか眠らないかの状態だった清席は今はぱっちりと目を開け、じっと彰人を見つめている。まるで、初めて出会った存在を確かめるかのように。やがて、小さな手で彼の顔を包み込み――柔らかな声でこう呼んだ。「パパ」彰人は一瞬、息を呑んだ。次の瞬間、視界が滲む。――この子の口から、その言葉を聞くことはもうないと思っていた。だが、一歳の子どもはもう呼べるのだ。彼は強く息子を抱きしめ、その柔らかな頬に何度も口づけた。涙がこぼれそうになるのを必死で堪えながら。――こんな自分にまだこんな時間を与えてくれるなんて。生きるか死ぬかも分からない身でありながら、周防家は受け入れてくれた。願乃とも、子どもたちとも、こうして過ごす時間をくれた。それはきっと――彼に残された、最後の温もりなのかもしれない。彰人はかつて運命を恨んだことがあった。だが同時に――運命はどれほど自分に優しかったのかとも思う。願乃に出会わせてくれたのだから。その時、寝室の扉がそっと軋んだ。結代が布団を抱えて入ってくる。足
帰路は黒の専用車だった。運転席と後部座席は仕切られている。後部は広く、そして密閉された空間。そこに四人が座っていた。結代は彰人の腕にしがみつきながら、何気ないふりをして清席と遊んでいる。だが実際には、両親の様子に耳を澄ませていた。清席はようやく言葉を覚え始めたばかりで、まだうまく発音できず、「あー」「うー」と曖昧な声を出し、よだれも垂れてしまう。結代は慣れた手つきでその口元を拭き、車内で温めておいた哺乳瓶を取り出して、上手にミルクを飲ませた。清席は姉のスカートを握りしめながら、嬉しそうに声を上げる。その一方で――願乃と彰人の間には、どこかぎこちない空気が流れていた。一年以上も会っていなかった二人、明らかに距離ができている。人前ではまだよかったが、こうして二人きりに近い状況になると、どう接していいのか分からない。しばらくして、願乃が軽く咳払いをした。「あの子、ずいぶん安心してるみたいね」彰人が顔を上げる。「何が?」「ううん、なんでもない」願乃はそれ以上言おうとせず、視線を子どもたちへ落とした。一方、彰人はじっと彼女を見つめる。――安心してるって、何を指しているんだ。何に対しての安心なんだ。問いかけたい衝動が胸に込み上げる。だが結局、その思いは押し殺された。――自分には何一つ約束できないのだから。黒い車は静かに走り続ける。揺れに身を任せながら、三十分後――願乃の住む別邸へと到着した。そこはかつて彰人が彼女のために用意した場所だった。車が止まっても、彰人はしばらく動けなかった。あまりにも久しぶりだった。まるで夢の中にいるような感覚。再びこの場所に戻ってきた。願乃がいて、結代がいて、清席がいる場所に。視界がわずかに滲む。だが感情を抑え、先に車を降りると、車体に手を添えて願乃が降りるのを支えた。彼女は清席を抱いている。結代はすぐに彼の腕にしがみつき、離れようとしない。彰人はその小さな体を抱き寄せる。胸の奥に、さまざまな感情が入り混じる。この束の間の再会――どれほど自分は感情を抑え込んでいるのか。どれほど踏みとどまっているのか。……そうしなければ、きっとこの場を離れられなくなる。だが分かっている。自分が生きようと
最初に口を開いたのは舞だった。彰人を見つめ、静かに言う。「彰人、どうぞ座って」その一言――「彰人」という呼びかけはどれほど彼の立場を取り戻したことか。それだけで、彰人と周防家の縁が完全に切れていないことが伝わる。舞の中では、彼はいまだに「半ば家族」として扱われているのだ。席に着くと、京介が軽く肩を叩き、結代を呼び寄せて父の隣に座らせた。少女は大喜びだった。なぜこんなにも長く帰ってこなかったのか――その理由は分からない。けれど、きっと理由があるのだと信じている。父が自分や清席を愛していないはずがない、と。小さな顔を上げて、無邪気に尋ねる。「清席、かわいいでしょ?毎日ね、ママと一緒に弟のお世話してるの」その言葉に、彰人の胸が鋭く痛んだ。本当は立都市に残りたかった。子どもたちのそばにいたかった。だが、自分は足手まといでしかない。この一年、断続的に体調を崩し、脳の腫瘍はさらに一センチ大きくなった。いつ発作が起きるのかも分からない。手術がいつできるのかも、そもそも手術台から生きて降りられるのかも分からない。考えなければならないことが多すぎた。結局、浮かんだのは苦い笑みだけだった。結代もまた、微笑む。まだ幼いながらも、どこか大人びた理解を見せていた。父を問い詰めることも、泣きわめくこともない。伯母が言っていた――人にはそれぞれ事情があるのだと。父にもきっと、どうしようもない事情があるのだろう、と。でなければ、こんなにも長く帰ってこないはずがない。自分や清席、そして母のもとへ。父はまだ、母のことを想っている。結代はそう感じていた。……周防家が受け入れる姿勢を示したことで、それまで彰人と距離を置いていた者たちも、次第に彼へと歩み寄ってきた。グラスを手に、次々と挨拶に訪れる。だが京介がそれを制した。「今日は清席の誕生日だ。あとで父子でゆっくり過ごす時間もあるだろうしな。飲みすぎは子どもに良くない」もっともらしい理由だった。――本当は彰人が酒を飲めないからだ。肝移植を受けた彼の身体はもはやアルコールを許さない。生き延びたいなら、なおさらだ。それでも彰人は一度立ち上がり、軽く言葉を交わしてから、再び席に戻った。卓は静まり返って
清席が一歳になった頃――彰人は一度、立都市へ戻ってきた。その頃には、彼の肝臓の状態は安定しており、見た目はすっかり健康な人間と変わらなかった。だが、病歴を知る者でなければ分からない。彼の脳にはなお腫瘍が残っていることを。それはまるで時限爆弾のように、いつ命を奪うか分からない存在だった。その日、周防家では清席の一歳の祝いが開かれていた。五十卓にも及ぶ盛大な宴。立都市の上流社会においては、この子が彰人の子であることは周知の事実だった。だが、誰もそれを口にはしなかった。彰人が若い女性と関係を持ち、願乃とは別れ、今は海外で稼いでいる――所在すら定かでない、という噂が広まっていたからだ。そして清席を見れば、一目で分かる。顔立ちはまさに彰人そのもの、まるで同じ型から抜き出したかのようだった。まだ一歳の幼子ながら、よちよちと数歩は歩け、言葉にならない声も発している。その愛らしさに、何家族もの人々が代わる代わる抱き上げては、手放せずにいた。宴が最高潮に賑わいを見せていたその時――不意に、会場のざわめきがぴたりと止まった。視線が一斉に、入口へと集まる。そこに立っていたのは他でもない、清席の実の父、彰人だった。外では、モナと涼香が待っている。彼は一人、そこに立っていた。黒と白のクラシックなスーツに身を包み、かつて幾度となく立都市の宴に出席していた頃と何一つ変わらない佇まい。耳元の髪一筋に至るまで乱れはない。ただ、以前よりもずっと痩せていて、その分、鼻筋の高さが際立って見えた。ゆっくりと歩みを進め、願乃の前へ。そして視線を落とし、清席を見つめる。「パパ――」結代が声を上げ、その胸に飛び込んだ。彰人は少女の頭をそっと撫で、じっと顔を見つめる。それから、願乃と清席へと視線を移した。その瞳はひどく明るく澄んでいた。まるで彼自身のようでありながら、どこか違う。彰人の幼い頃には、こんな賑やかな光景も、五十卓もの客に囲まれることもなかった。あったのは陰鬱で湿った空気と、這い回る鼠だけだった。願乃もまた、彼を見つめ返す。周囲のすべての客も、息を潜めて彼を見ていた。しばしの沈黙の後、彰人は低く問いかけた。「抱いてもいいか?」願乃は目を潤ませながら、静かに頷いた。
涼香は一瞬、言葉に詰まったがすぐに柔らかな笑みを浮かべた。「氷室さんは元気にされています。海外にいらっしゃいますよ。少し落ち着いたら、結代にビデオ通話してくださると思います」その言葉で、願乃はすべてを察した。――これ以上、聞いても意味はない。それ以上は何も追及しなかった。帰宅し、車を降りたとき。澄佳は願乃の様子を気遣い、「少し一緒にいようか」と声をかけたが願乃は静かに首を振った。「大丈夫。姉さん、ほんとに平気。みんな、それぞれ前に進んでるから」それでも澄佳は安心しきれず、結代に言い含める。「何かあったら、すぐ連絡してね」結代はしっかりとうなずいた。「うん。任せて。ママと清席、ちゃんと私が見るから」その言葉に、澄佳は少しだけ安堵する。結代の頭をそっと撫でる。その顔立ちはどこか彰人に似ていた。――どうか、無事でいてほしい。どんな形であれ、かつては家族だったのだから。たとえ縁が尽きたとしても――生きていてくれさえすればいい。澄佳はそう願いながら、静かに家を後にした。家では、ベビーシッターが清席を二階の寝室へと運ぶ。そこには小さなベビーベッドが新たに置かれていた。願乃がすぐに世話をできるように。結代も休みの日には一緒に寝たがり、夜中に弟が起きれば、おむつを替えるのを手伝うこともある。まだ幼いのに、どこか大人びていた。――ママのそばには人が必要だと分かっている。――そして、その「人」は自分なのだと。結代は感じ取っていた。ママはきっと、パパを想っている。パパとママは本当に終わってしまったのだろうか。その日、清席は午前中ずっとぐずっていたが、ようやく深く眠りについた。願乃は小さな靴を履かせ、ベッドの枕元に淡い水色のウサギを置く。それだけで、清席の愛らしさが一層際立つ。彰人が残していった、たったひとつの父としてのかたち。願乃は静かに、それを見つめていた。ふと、視界がにじむ。涙がこぼれそうになるのを必死に抑える。結代には見せたくなかった。だが、その隣で、結代はそっと言った。「ママ、想うことって、恥ずかしいことじゃないよ」やさしい声だった。「私も、パパに会いたい。でもね、いなくても……こうして清席にプレゼントしてくれてるってこと
病室の扉がきい、と小さく軋んだ音を立てて開く。入ってきたのは涼香だった。手には薬のトレー。今夜、彰人が服用しなければならない薬がずらりと並んでいる。錠剤だけで二十錠近く――見ているだけで、飲み込むのが辛くなる量だ。彰人がぼんやりと画面を見つめているのに気づき、涼香も視線を向ける。そこには小さな赤ん坊の写真。彼女はトレーをそっと置き、しゃがみ込んで一緒に覗き込みながら、心からの声で言った。「きれいな子ですね、氷室さん。とても似ています。清席、でしたよね?前におっしゃっていました」彰人は小さくうなずく。「……ああ、清席だ。いい名前だろう?」その声にはわずかな苦さが滲んでいた。涼香はそっと彼の手の甲に触れ、やわらかく言葉を重ねる。「一緒にいられないのは仕方のないことです。でも、あの子のそばには周防さんと、ご家族がいます」静かに、しかし確かに伝えるように。「清席はきっと、ちゃんと守られて、大切に育てられます。誰にも見下されることもなく……きっと、幸せな人生を歩みます」彰人は彼女を見つめた。――図星だった。清席は周防の名を持つ子だ。生まれながらにして守られている。自分のような――あの冷えた出自とは違う。だからこそ、安心できる。それでも、会いに帰りたかった。だが、この身体では、それすら叶わない。穏やかな時間が続くことの方が珍しく、いつ激しい頭痛に襲われるか、いつ拒絶反応で全身が腫れ上がるかも分からない。薬を口に運びながら、ふと彰人は言った。「涼香。立都市に行ってくれないか」彼はベッド脇から、小さな箱を取り出す。「これを……願乃に渡してほしい。子どもへの、俺からの贈り物だ」中に入っていたのはやわらかな布でできた、小さな靴。丁寧な刺繍が施されている。そして、淡い水色の小さなウサギのぬいぐるみ。それは彰人が幼い頃に、どうしても欲しかったものだった。だから、清席には自分が与えたかった。そのすべてをそこに込めて。涼香はそれを受け取り、じっと見つめる。やがて、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。しばらくしてから、彼女は静かにうなずく。「分かりました」……だが、その約束が果たされたのは六月になってからだった。彰人の体調は良くなったり悪くなったりを繰
夜。翔雅が別荘に戻ったのは、まだ八時前だった。だが家の中は驚くほど静まり返り、時折、使用人の足音が響くだけ。普段は静けさを好む彼ですら、今夜ばかりはその沈黙に息苦しさを覚えた。磨き上げられた床に革靴の音が乾いた調子で鳴る。それは澄んだ音のはずなのに、妙に寂しげに響き、灯りに照らされた顔もどこかやつれて見えた。コートを脱ぎながら、彼はふと二階を仰ぎ見て、思わず口にする。「奥様は、もう休んでいるのか?」使用人は一瞬戸惑い、逡巡ののちに小声で答えた。「奥様は……すでにお引っ越しになりました。前日、篠宮様が数人を連れて来られて、お荷物をすべて運び出されました。その際
茉莉は胸元を押さえ、まるで図星を突かれた子どものように慌てた。「な、何も見てない……」琢真はそれ以上からかわず、布団の中に手を伸ばし、彼女の細い脚を優しく揉んでやった。「今日は氷の彫刻展に行こう。今年の作品は面白いらしい」「スキーじゃなければ大賛成!」茉莉の瞳はきらきら輝いた。「じゃあ、外で待ってて。着替えてくるから」そう言ったが、恋人同士にそんな遠慮は要らない。琢真はそのまま茉莉を抱き上げ、クローゼットへ。片腕で抱きしめながら片手で服を選び、白いロングダウンに柔らかなカシミヤのマフラーを添えてやる。茉莉は顔をマフラーからのぞかせ、不満げに言った。「琢真、こ
夜が更けた。マンションの大きな窓辺、白いカーテンが夜風に揺れている。茉莉は琢真に抱かれて帰ってきた。少女はずっと俯いたまま、若い男の肩に顔を寄せ、甘えるように身を預けている。琢真は覗き込み、柔らかく囁いた。「まだ恥ずかしいのか」茉莉は答えず、ぎゅっと抱きついて顔を隠す。彼は低く笑い、それ以上からかうことはせず、客室のソファへと彼女をそっと降ろした。両腕でソファを支え、茉莉を背もたれとの間に閉じ込める。額から垂れた黒髪が影をつくり、幼さに艶めいた色を添えていた。「まずドレスを脱いで、化粧も落とせ。俺はキッチンで夜食を作る」そう言って彼女の細い腕を軽くつまむ。「
立都市から少し離れたH市。宴司が予約したホテルは、本来なら琢真とは別の場所だった。だが宴司には琢真に頼みたいことがあり、わざわざ同じホテルへ変更したのだ。琢真は表面上、気にも留めなかった。だが心の奥では宴司に対してしこりが残った。感情と商売は別物だ。宴司が妃奈の野心を知りながら、彼女を自分の近くに置こうとする——そのあたりに、どうしても反感を覚えた。それでも顔には出さない。それが琢真的な礼節であった。毎晩、仕事を終えるのはたいてい深夜だった。けれど必ず、夜九時には茉莉へ電話をかける。「今日も俺のことを考えたか」——そんな甘ったるいやり取りを欠かさず、若い恋人たち







