LOGIN夕暮れが近づいた頃、芽衣はようやく目を覚ました。目を開けた瞬間、枕元に残る静かな男の気配が鼻をかすめる。懐かしい――そう感じた次の瞬間、理性が少しずつ戻ってきた。昨夜のこと。蓮司が去っていったこと。そして――自分が取り乱し、泣き崩れ、そのままリビングで陽白と唇を重ねたこと。激しく揺れ動いた記憶が一枚一枚、巻き戻されるように蘇る。思わず掛け布団を引き上げて中を覗くと――ほとんど何も身につけていない。……してしまった。しかも、一度ではない。芽衣はゆっくりと枕に身を沈め、天井を見つめたまま、どうすればいいのか分からなくなる。もし相手の部屋だったなら、さっさとヒールを掴んで、ドレスを抱えて出ていくところだろう。けれどここは自分の部屋だ。それに――キッチンのほうから、料理の香りが漂ってくる。陽白はまだここにいる。――料理の腕も、昔と変わらない。動揺しながらも、芽衣は思わず唾を飲み込んだ。一日、何も食べていない。お腹が小さく鳴る。そのとき、寝室のドアが大きく開いた。ドアのところに立っていたのは陽白だった。すっきりとした装い。どうやら一度自分の部屋に戻って着替えてきたらしい。黒のタートルネックに同系色のパンツ。白い肌に、長身で整った顔立ち。二人はしばらく無言で見つめ合う。やがて陽白が歩み寄り、ベッドの脇に腰を下ろした。手を伸ばし、芽衣に触れようとする。芽衣はさっと身を引いた。「……まだ帰らないの?」唇を噛みながら言う。それでも彼の手は、そっと芽衣の肩に触れたままだった。軽く笑う。「相変わらずだな」芽衣は睨みつける。彼はそのまま、気だるげに肩を軽く叩いた。「起きて顔を洗え。飯を食いながら話そう」芽衣はのろのろとベッドから下りる。隠す気にもならなかった。どうせ、もう全部見られている。……何を話すつもりなのか。そう思いながらも、彼女は着替えを済ませ、顔を洗い、長い髪を適当にひとつにまとめてリビングへ出た。心はぐちゃぐちゃで、とてもおしゃれする気分ではない。けれどテーブルに並んだ料理を見た瞬間、そんなことはどうでもよくなった。プライドも何もかも後回しにして、まずは箸を伸ばす。燻製の魚を一口。外はさくりと香ばしく、中はふっくらと柔ら
微妙な空気が流れていた。ひとりは芽衣の母。もうひとりは芽衣の元カレ。しかも、別れて何年も経つ相手だ。そんな二人が、よりにもよってこの状況で鉢合わせしてしまったのだから、気まずくならないはずがない。先に動いたのは陽白だった。布団をめくり、そのままベッドから下りる。幸い、下だけは身につけていたため、どうにか最悪の事態だけは免れていた。澄佳は言った。「外で待っているわ」そう言うと、すぐに踵を返して部屋を出ていった。陽白は手早く服を身につけ、リビングへ出ると、背後のドアをきちんと閉めた。使用人の女性は帰ってもらっていた。さすがに、この場に居合わせるにはあまりにも気まずすぎたからだ。広いリビングには、澄佳と若い男だけが残された。陽白はこういう場面での立ち回りを心得ている男だった。まず芽衣の母に茶を淹れて差し出し、それから音を立てないように散らかった服や、食べ残しの鍋料理を片づけ始めた。すべてを片づけ終える頃には、部屋はすっかり元の清潔な空間に戻っていた。陽白は澄佳の向かいに腰を下ろす。端正な顔立ちに、曇りのない表情。澄佳は茶を口に運びながら、この婿候補をゆっくりと眺め、静かな口調で切り出した。「もし今夜のことがただの成り行きだったのなら、私はこれ以上何も聞かないわ。何も知らなかったことにする」陽白は迷わず答えた。「伯母さん、本来なら、もっと早くご挨拶に伺うべきでした。芽衣に対しては本気です。もちろん、昔の私には至らないところがありました。間違った選択をして、芽衣との八年を無駄にしてしまいました。でも、もう同じことは繰り返さないです。これまでの分まで大切にします。芽衣に、安心できる関係と、落ち着いた暮らしを渡したいと思っています」……澄佳は微笑んだ。「それで、芽衣は承知しているの?あなたのその気持ちをあの子は知っているのかしら。昨夜のことを、あの子は復縁だと思っているのか、それとも一夜限りの関係だと思っているのか。ちゃんと聞いたの?」陽白はまっすぐに言った。「芽衣には、きちんと気持ちを伝えます。ただ、伯父さんと伯母さんには、少しだけ時間をいただきたいんです。芽衣は、すぐには私を受け入れられないかもしれません。だから、もう一度、最初からやり直すつもりです。やり方は少
一睡もしていなかった。陽白はほとんど一晩中休むことなく彼女を離さなかった。すべてが終わったのは夜明け前――五時近くだった。芽衣はすっかり酔いも醒め、ベッドにうつ伏せのまま、指一本動かしたくないほど疲れ切っている。だが、あれだけ身体を使ったはずの男はまるで何事もなかったかのようにシャワーを浴びて戻ってくる。彼は彼女の耳元に身を寄せ、低く囁いた。「芽衣……抱いて、風呂に連れていこうか?」芽衣はかすかに首を振る。――本当に、人じゃない。三十を過ぎているのに、まるで若い頃のまま。昨夜が何度目だったのか、もう数えることすらできない。一度も休まなかった気がする。全身が重く、鈍く軋む。長い髪は汗でしっとりと背に張りつき、シーツを引き寄せる気力すらなかった。今はただ――眠りたい。陽白との関係について考える余裕もない。目が覚めたら、そのときに考えればいい。――きっと、ただの事故として片づけることになるだろう。彼の性格を思えば、深く気にすることもないはずだ。……そう思いながら、芽衣はすぐに眠りに落ちた。白いシーツの上に、汗に濡れた黒髪が散らばる。清らかさと、どこか艶めいた気配が同時に漂っていた。陽白はその姿を見つめる。――もし体力が許すなら、まだ続けられた。それほどまでに、彼女は変わらず――いや、以前よりも魅力的だった。長い年月を経ても、求めていたものは変わらない。結局、探し続けていたのは芽衣だった。そして今、ようやく彼女は再び自分の腕の中にいる。陽白はベッドに横たわり、彼女を抱き寄せる。背を軽く叩きながら、静かに眠りへと誘う。額を彼女の髪に寄せたまま、彼もまた、穏やかな眠りに落ちていった。――予想外の出来事はいつも唐突に訪れる。……昼近くになった頃。澄佳は家の手伝いの女性を連れて、芽衣の部屋へやって来た。掃除をするためだった。この時間なら、芽衣は外に出ているだろう――そう思っていた。ドアを開けた瞬間、目に入ったのはテーブルに残された鍋のスープ。空になったワインボトルがいくつも転がっている。ソファには、娘のワンピース。その横に、男物のシャツと黒いショートパンツ。ベルトは床に投げ出されたまま。――慌ただしい夜だったことは一
蓮司が去ったあと、芽衣は何が起きたのか理解できなかった。まただ。彼はまた、自分を選ばなかった。仕事と自分――いつだって彼は迷うことなく仕事を取る。責めることはできない。そもそも、正式に付き合っていたわけでもない。――もし今夜、陽白がいなければ、きっと二人はそのまま流れに身を任せていた。身体を重ねるだけでもよかった。あんなふうに途中で離れていくより、ずっとましだった。……まだ、何も起きていない。芽衣はそう思った。けれど――胸の奥はやはり痛んだ。期待していなかったわけじゃない。蓮司と同じように、この関係に少しは未来を見ていた。それがあっさり終わった。――きっと、これが最後。もう二度と、やり直すことはない。大人はそんなふうに、行ったり来たりしない。煌びやかな照明の下で、ふと芽衣は思う。――少し、飲みたい。ワインセラーには、彼女が集めてきたボトルが並んでいる。上質な赤ワインやシャンパンばかりだ。芽衣は数本取り出し、グラスを二つ用意して、静かにワインを注ぐ。「……少し付き合って」そう言って、陽白の前に差し出した。陽白は黙って彼女を見つめる。「失恋したからか?」芽衣は椅子の上で膝を抱え、まるで二十代の頃のように小さくなりながら、グラスを揺らす。しばらくして、ぽつりと答えた。「失恋ってほどじゃない……少なくとも、八年前に比べたら。ただ、お互い選ぶ人生が違っただけ」一拍置いて、彼女は続ける。「陽白……あのときね、私、全部考えてたの。あなたの未来のことも、自分がどう支えるかも……ほんと、バカみたい。あなたが誰かに道を用意してもらうような人じゃないのに。仕事も、夢も、全部自分で掴む人だって、分かってたはずなのに。私は、あなたを繋ぎ止めることなんてできなかった。故郷だって、あなたを引き止められなかった。あなたは前に進く人だから」――あれから、いくつかの恋をした。けれど、本気で誰かを愛することはもうできなかった。もし本気で続けようと思えば、方法はあったはずだ。蓮司だって、他の誰だって。それでも、芽衣は踏み込まなかった。初恋のときのように、何もかもを差し出すことができない。誰が来ても、誰が去っても――ただ、それだけのこと。少し
男の言葉が落ちた瞬間、空気が微かに揺らぐ。――あいつにできることなら、俺にもできる。それは金の話でも、優しさでも、ましてや結婚の話でもない。ただ露骨なほどに、生々しい欲求のことだった。芽衣はもう三十歳。子どもではない。それでも――この言葉は受け止めきれなかった。何より、相手が陽白ではなおさら。しかも今、自分は蓮司を部屋に連れてきている。芽衣は言葉を選びながら口を開く。「私は彼とちゃんと向き合ってみたいと思ってるの」すぐさま、返ってくる。「俺でもいいだろ」芽衣は言葉を失った。この場を離れたい。けれど出るには、彼の前を通るしかない。だから彼女はまっすぐ陽白を見た。眩しい照明の下、互いの表情は隠しようがない。芽衣の顔には、どうしようもない困惑。陽白の瞳に、わずかな攻めの色が宿る。――ほんの数秒。次の瞬間、それは霧のように消えた。代わりに浮かんだのは、穏やかで柔らかな笑み。「冗談だよ、芽衣。彼氏ができたなら、それはいいことだ。実はあいつの映画にも出資してるんだ。気にしないでくれ、一緒に鍋を囲むくらい。年も少し下だろ?少しは気を遣わないとな……もちろん、お前の顔を立てて、だけど」――そんなに都合よく、割り切れるもの?芽衣は疑いを捨てきれない。だが、陽白はさらに続けた。「ちょうど今、メディアグループの案件を取りにいこうと思っててさ。担当、お前の義理の叔父だろ?今度、紹介してくれないか?」芽衣は一瞬、思考が止まる。――義理の叔父?それはつまり――彰人のことだ。陽白を見つめる。見れば見るほど、その立ち居振る舞いや笑みがどこか彰人に似ている気がしてくる。だが違う。彼にはあの人のような陰はない。ごく普通の家庭で育ち、穏やかに生きてきた男のはずだ。――考えすぎだ。芽衣は小さく息をついた。「……分かった。今度ね」それは蓮司のためでもあった。陽白は微笑む。笑うと、浅いえくぼがわずかに浮かび、それが不思議と柔らかな魅力を添えていた。彼は一歩近づき、芽衣を見下ろしながら、低く囁く。「そんなに好きなのか?あいつのこと」また、空気が変わる。その瞬間、足音が近づいてきた。蓮司だ。陽白は一歩退き、何事もなかったように火
芽衣はまだ蓮司の首に腕を回したままだった。本来なら、甘く濃密な夜になるはずだった。けれど――陽白の視線を浴びたままでは、どうにも続けられない。彼女はそっと腕をほどき、軽く咳払いをする。「陽白……どうして来たの?」陽白は指先の煙草を唇に運び、深く一吸いしてから床に押し消す。それから足元の荷物を持ち上げ、二人を見やりながら穏やかに言った。「実家から少し取り寄せたものがあってね。よかったら食べてくれ。新鮮なきのこで鍋にすると美味いんだ。それと――母からの年始の気持ち」そう言って、小さな箱を差し出す。あまりにも自然な仕草だった。芽衣は受け取り、中を開く。箱の中にあった翡翠のブレスレットは明らかに高価すぎた。横で蓮司もそれを見ている。愚かな男ではない。すぐに察した――陽白の意図もそして二人の過去も。蓮司は芽衣を見た。芽衣は陽白を見た。――帰ってほしい。このブレスレットは返すつもりだった。もう恋人ではないのだから、母親からの贈り物を受け取る理由はない。だが、言葉を口にする前に、陽白はまるでこの家の主のように顎を軽く上げ、芽衣に合図する。「寒いし、今食べるのがちょうどいいだろ。蓮司も一緒にどうだ……邪魔して悪いな。鍋でも囲んで、詫びにさせてくれ」ここまで言われては蓮司も断れない。芽衣も追い返すことができなかった。――奇妙な三人の夜が始まる。部屋に入ると、陽白は気遣うように言った。「二人はゆっくりしてていい。鍋は俺がやる」そう言われて、芽衣は蓮司を連れて寝室へと入った。もちろん、二人きりの時間を過ごすためではない。――ただ、彼から距離を置くためだった。芽衣は申し訳なさを感じていた。だが蓮司は穏やかに言う。「もしかしたら、ただの同窓の縁かもしれないよ。今は隣人でもあるし、関係を保っておきたいだけかもしれない。仕事でも何かと助けになるし」芽衣はそうは思えなかった。――けれど、そう思うしかない。あれほど自然に振る舞い、しかも自分たちのために鍋まで用意している。もし別の意図があるなら、普通はここまで余裕を見せないはずだ。つまり――蓮司の言う通り。過去は過去として、良い関係を保ちたいだけ。そう結論づけたとき、芽衣の胸は少し軽くなった。やが
それは一方的な満足に過ぎなかった。事が終わったあと、翔雅の心は乱れていた。彼は決して鈍感な男ではない。自分の異常さには、うすうす気づいていた。澄佳への独占欲があまりに強すぎて、彼女が嫌がることばかりしてしまうのだ。本来なら満ち足りた悦びであるはずの交わりが、いつしか彼ひとりの空しい独り舞いに成り果てていた。しばしの静寂ののち、翔雅は身を起こし、腕の中の妻を見下ろした。澄佳は目を閉じ、頬は薄紅に染まっていたが、その表情はどこか痛ましかった。男の心がわずかに軟らぎ、声は自然と柔らかくなる。「抱いて風呂まで連れて行こうか?」女は首を振った。「まだ少し整理が残ってるから
その夜、二人の子どもは一ノ瀬家に泊まることになった。本来なら一ノ瀬夫人と一緒に眠るはずだったが——寝る直前、下着姿になった二人を見た翔雅が部屋に入ってきて、片腕ずつ抱え上げて連れ去ってしまった。「まだ顔も洗ってないのに!男が子どもの世話なんてできるの?」一ノ瀬夫人が慌てて声を上げる。「俺に任せて」翔雅はそう言い残す。一ノ瀬夫人が追いかけようとしたが、平川が止めた。「せっかく家に帰ってきたんだ。子どもたちと過ごさせてやれ。お前はいつも、あいつが父親らしくないと嘆いていたろう。今こそ父親の務めを果たそうとしているんだ。邪魔してどうする」一ノ瀬夫人はなおも名残惜しげに
夜。翔雅が別荘に戻ったのは、まだ八時前だった。だが家の中は驚くほど静まり返り、時折、使用人の足音が響くだけ。普段は静けさを好む彼ですら、今夜ばかりはその沈黙に息苦しさを覚えた。磨き上げられた床に革靴の音が乾いた調子で鳴る。それは澄んだ音のはずなのに、妙に寂しげに響き、灯りに照らされた顔もどこかやつれて見えた。コートを脱ぎながら、彼はふと二階を仰ぎ見て、思わず口にする。「奥様は、もう休んでいるのか?」使用人は一瞬戸惑い、逡巡ののちに小声で答えた。「奥様は……すでにお引っ越しになりました。前日、篠宮様が数人を連れて来られて、お荷物をすべて運び出されました。その際
夜が更けた。マンションの大きな窓辺、白いカーテンが夜風に揺れている。茉莉は琢真に抱かれて帰ってきた。少女はずっと俯いたまま、若い男の肩に顔を寄せ、甘えるように身を預けている。琢真は覗き込み、柔らかく囁いた。「まだ恥ずかしいのか」茉莉は答えず、ぎゅっと抱きついて顔を隠す。彼は低く笑い、それ以上からかうことはせず、客室のソファへと彼女をそっと降ろした。両腕でソファを支え、茉莉を背もたれとの間に閉じ込める。額から垂れた黒髪が影をつくり、幼さに艶めいた色を添えていた。「まずドレスを脱いで、化粧も落とせ。俺はキッチンで夜食を作る」そう言って彼女の細い腕を軽くつまむ。「