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第183話

Author: 風羽
「……まだ足りないのか?

音瀬、お前は一体、どこまで望むんだ」

……

本来なら、すべてがうまくいくはずだった。

舞と子どもがそばにいて、幸せに包まれた家庭。たとえ自分がどれだけ罪を重ねようと、手にする資格のない幸福だとしても、それでも手を伸ばせるかもしれなかった。

でも、それはもう失われた。

音瀬のたび重なる自傷、執拗なまでの騒ぎ。すり減った忍耐の果てに、舞との関係はとうとう、ここまで来てしまったのだ。

京介は低く、静かに言った。

「音瀬……俺たちは、もう終わりだ」

彼は背を向け、冷たい風の中を歩き出した。後ろから、地面に膝をついた音瀬が、泣き叫ぶ声が追いかけてくる。

「京介……お願い、行かないで……京介!」

けれど、京介は振り返らなかった。

……

医師団は舞の病状について、いまだ打つ手がなかった。

——来るのがあまりにも遅すぎた。

あの晩の嵐と気圧の急変が引き金になった神経性の突発失聴。極めて稀で、妊娠中ということもあり、強い薬も使えない。治療法の選択肢は限られていた。

清花は何度も涙を拭った。圭吾はそっと肩を抱いて、「名医を探してみよう」と声をかけた。

舞の表情は、あまりにも静かだった。

けれど——聴力を失って、心まで平静な人間などいない。補聴器をつければ、会話はできる。でも、それは普通とは違うのだ。

診察室から出てきた舞に、京介が駆け寄り、震える声で言った。

「……舞」

その声は、もう彼女には届かない。

清花はこらえきれず、声を震わせて言った。

「もう聞こえないのよ……そんなに呼んで、何になるの?

京介、あんたたち周防家は、人を喰う家よ。うちの子を、心まで喰い尽くした!

……でも、もういい。あんたが娘を愛してなかったのは、認めるしかない。だったらせめて、あの子を——傷一つない姿で、私たちに返してちょうだい。

私と圭吾で、あの子とその子どもを守っていくわ。あなたの手なんて、もう一切いらない」

京介は低く呟くように口を開いた。

「俺が医者を探します。治療できる手段を、必ず見つけます」

それに対し、清花はきっぱりと言った。

「伊野家にも、それくらいの力はあるわ」

そう言い残し、伊野夫妻は娘を連れて診療所を後にした。

……

夕暮れ、京介は一人、周防家へと戻った。

車を降り、茜色に燃える空を見上げている
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Comments (1)
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maasa16jp
そんな事ばっかり 大人は1回失敗したら学習するもんだけど ダメだね クズの連鎖 己の気持ちも決めきれんと こんな男ほんま要らんわ
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