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第192話
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私が去った後のクズ男の末路 第212話
舞の身体は汗に濡れ、大きく息を吐きながら、その瞳はすでに少し虚ろだった。「舞！舞、しっかりして！」清花の叫び声が、分娩室に響いた。舞はゆっくりと彼女の方を見つめ、しばらく力を溜めたあと、か細く声を絞り出す——「私は、大丈夫。ちゃんと、この子を産んでみせる……」その直後、彼女の喉から裂けるような悲鳴が上がり、手はベッドシーツをしっかりと握り締めた。分娩室の内外は慌ただしくなった。やがて医師が外へ出てきた。表情は厳しく、声は静かだった。「出血が止まりません。心の準備をお願いします。どうしても難しい場合、母体と第二子の命を優先し、第一子は……諦めざるを得ない可能性があります」その言葉に伊野祖母は呆然とし、深く長い溜息をついた。周防夫人の目には涙が溢れ、中川がそっと彼女の身体を支えている。京介の手は拳を握りしめ、額には青筋が浮かんでいた。全身がまるで張りつめた弓のようだった。しかし、その後の報告はさらに深刻だった。舞の出血は止まらず、RHマイナス型の輸血用血液も底を尽きかけていた。このままでは、三人とも命を落とす可能性がある——京介の目は暗く沈んでいた。彼は医師をまっすぐ見つめ、低く言った。「どんなことがあっても、まず母体を助けてください」彼は、子どもを愛していた。けれど、それ以上に——彼女の命を失うことなどあってはならなかった。周防夫人も涙ながらに頷いた。「ええ、舞の命が最優先です」医師は頷き、再び手術室へと戻っていった。——あと30分。それまでに第一子が産まれなければ、救えないかもしれない。血は止まらず、舞の意識も徐々に遠のき、ついにはショック状態に陥り始めた。彼女の命は、いつ途絶えてもおかしくなかった。最も深刻なのは、確保していたはずの輸血用の血液が足りなくなってきたことだ。夜の病院、RHマイナス型の献血者をこの雨の中で探すことなど、絶望的だった。分娩室からは、清花のすすり泣く声が漏れ聞こえてくる。京介は何度も電話をかけ続け、雲城市中から名医を呼び寄せようとしていた。電話を切った彼は分娩室へと向かおうとした。——もし、何かあったときのために。——もう後悔はしたくない。彼は、舞に謝りたかった。「ごめん」と伝えたかった。「もう
私が去った後のクズ男の末路 第211話
深夜の雲城市。婦人科専門病院の灯りが雨に霞んでいた。黒々とした空は、まるで大きな穴が空いたかのよう。雨柱が容赦なく地を叩きつけ、世界を洗い流すように光と影が入り混じっていた。病院の二階、分娩室——舞は出産台の上に横たわり、医師や看護師の掛け声に合わせて息を吐き、吸い、全身の力を振り絞って、子どもを産もうとしていた。日付が変わる頃、午前0時。彼女の羊水が破れた。すぐさま第一子が産道へと押し出されはじめたが、病院に到着した時点で、すでに帝王切開のタイミングは過ぎていた。今はただ、自力で産むしかない——ふたりの小さな命を、この身ひとつで。外では雷鳴が轟き、分娩台の上の舞は、すでに汗で全身びしょ濡れになっていた。傍らには清花——娘の手を握りしめ、ひたすら名前を呼び続ける。その手に、力を。その声に勇気を。出産とは、まさに死と隣り合わせの門をくぐること。清花は不安を抑えきれなかった。万が一に備え、圭吾はプライベートジェットを手配し、上原夫人を雲城市まで迎えに行っていた。圭吾は空港へ向かった。ただ、この大雨の中、無事に飛行機が離陸できるのか——清花の胸には、不安が渦巻いていた。白く強い手術灯の下、舞の顔には細かい汗がにじんでいた。息を荒くしながら、彼女は耐えていた。赤ちゃんが下りてくるのがわかる。命が押し出される感覚が、身体を突き抜けていく。でも、痛みは激しすぎて意識が遠のく。そして——その意識の奥底から、懐かしい歌声が聞こえた。おばあちゃんの声だった。優しく、あたたかく幼い日の記憶を呼び覚ます童謡——お空はぴかぴか、お月さまはにっこり。舞ちゃんは、こっくりこっくり、おねんねよ。夜の神さま、どうか邪魔しないで。うちの舞は、今、すやすや眠ってるの。ぐんぐん大きくなあれ…………舞は、ぼんやりと目を開け、その目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。そして、次の瞬間——「……おばあちゃん！」無意識のうちに叫び声をあげた。「痛いよ、おばあちゃん……どこにいるの？」さらに深い悲鳴が続いた。それは、産道を押し破る命の叫びだった。……分娩室の外、廊下に足音が響いた。駆けつけてきたのは京介だった。ロビーの椅子に腰を掛けていた伊野祖母が、険しい目
私が去った後のクズ男の末路 第210話
雲城市——夜は深く、雨は柱のように降り注いでいた。舞はリビングのソファに腰掛け、膨らんだお腹に手を添えて、どこかぼんやりとした表情を浮かべていた。彼女のお腹には双子が宿っている。だが、そのうちひとりの状態が思わしくない。医師からは、念のため入院を勧められており、万が一に備えて帝王切開の準備を整える必要があると言われていた。隣では清花が入院の準備を進めていた。明朝には病院へ向かう予定だ。娘が心ここにあらずの様子を見て、彼女は手を止め、そっと舞の手を握った。「……大丈夫よ、母さんがついてるから。圭吾も血液センターに連絡済み。RHマイナスの血液は確かに稀少だけど、しっかり準備されてるから安心して。それに、もし緊急で帝王切開になるようなら——上原夫人にもお願いしてるの。彼女も同じ血液型だから、いざというときに協力してくれるって」舞はお腹をさすりながら、かすかに首を振った。「……赤ちゃんが心配なの」あの夜の火事で失ったのは、祖母だけじゃなかった。もうひとりの命も危険に晒されたのだ。医師からは、片方をあきらめる選択肢も提示された。けれど彼女には、どうしても手放せなかった。——その子は、京介が「澪安」と呼んでいた子。——祖母が手縫いで虎頭のベビーシューズを作ってくれた子。六ヶ月を過ぎた頃から、赤ちゃんは安定し始めていた。清花はその気持ちを痛いほど理解していた。もうすぐ十ヶ月——もうすぐ、その小さな命がこの世に生まれてくる。……しばらくして、母娘は静かに言葉を交わし、清花は部屋へ戻っていった。代わりに、ふたりの専門看護師が舞のそばに残った。彼女はしばらく読書をしていたが、気分転換にバルコニーへ出ることにした。看護師は肩に薄手のショールをかけながら言った。「長くならないようにね。外は湿気が強いから」舞はうなずいた。雨のしぶきはかからないバルコニー。だが、雨と土の香りはしっかりと感じられ、心が落ち着いた。彼女は手すりにそっと手を置き、もう片方の手で大きなお腹をなでた。その顔はやわらかく母の慈しみに満ちていた。二人の赤ちゃんが、無事に生まれてきますように。そして、ふと祖母の顔を思い出した。出産が終わり、赤ちゃんが二ヶ月になる頃には——立都市に戻り、祖
私が去った後のクズ男の末路 第209話
ばったりと顔を合わせた瞬間、上原夫人の表情が強ばった。彼女はいまだに、かつて京介が上原家にした仕打ちを忘れていない。どれだけ時が経とうとも、周防家の者を見るだけで腹が立つ。怒りが込み上げすぎたせいか、手元が狂い、三角の金具で指先を切ってしまった。鮮血が床にポタポタと滴り落ちた。彼女は慌ててティッシュで傷口を押さえ、持ち歩いていた止血酵素のカプセルをすぐに飲み込んだ。用心深さには理由がある。彼女の血液型はRHマイナス、非常に稀な型なのだ。それは、長年の付き合いがある周防夫人もよく知っていた。互いに苦手意識のあるふたり。上原夫人はそのまま足早に店を後にした。彼女が見えなくなったあと、周防夫人はふと思い出した。舞も、たしかRHマイナスだった。あと半月ほどで出産予定だというのに、あの家ではしっかりと血液の備えをしているのだろうか？出産とは、死と隣り合わせの一大事。万が一のことがあってはいけない。周防夫人の胸に、わずかな不安がよぎった。……だが、ベビー服を選び終えるころには、その不安も忘れてしまっていた。周防宅へ戻ると、彼女は選んできた衣類を夫に見せた。すると珍しく、礼が満足げに手で撫でながら言った。「……いい目利きだな。なかなか可愛いじゃないか」周防夫人は鼻高々だった。服をたたみながら言った。「このあと私が手洗いして、それから乾燥機で仕上げるわ。そうすれば、澪安が着ても安心ね。今の製品は何が混じってるか分からないから、大人がきちんと準備してあげなきゃ」周防夫人がせっせと働く姿を見て、礼は心のなかで「随分と家庭的になったな」と思った。彼はそっと妻のそばに立ち、ふたたび小さな服を撫でながら言った。「……舞が身ごもってるのは、双子だ。ふたりいるんだよ。お前、おばあちゃんとしては一着分、買い足りないんじゃない？」「え……双子……？」驚いた周防夫人が顔を上げると、夫は静かにうなずき、肩に手を置いて続けた。「この二人の命は……決して容易な道じゃなかった。あの夜のことを思えば、俺たち周防家は——一生、舞に頭が上がらない」長年連れ添った夫だからこそ、周防夫人はすぐにその言葉の重みを察した。「礼……それって……どういう意味？」礼はしばし黙し、やがて低く語った。「京介
私が去った後のクズ男の末路 第208話
まばゆい陽射しの下、京介の目元は、かすかに潤んでいた。——触れたい。この手で、小さな澪安に触れたい。その存在を、確かに感じたい。……けれど、自分にはその資格がない。彼はじっと舞を見つめ、低く、震える声で尋ねた。「……もうすぐ、生まれるんだよな。よく動く？お腹越しに……手が触れたりするのか？いい子にしてる？言うこと、聞く子か？」後半は、声が詰まっていた。舞の表情は静かだった。喜びも悲しみも浮かばない。ただ、目の前の男を淡々と見つめて——冷たい声で言った。「……それは、あなたには関係ないことよ。子どもは、私ひとりのもの。姓は葉山。あなた——周防京介には、何の関係もない。おばあちゃんが亡くなった夜……あのとき、私、どう思ったか知ってる？生涯、もう二度とあなたの顔なんか見たくない。声も聞きたくないって。もしあなたと出会わなければ、私は白石音瀬なんかに巻き込まれなかった。おばあちゃんだって、あんな無惨な最期を迎えなかった。私たちは、たしかに裕福じゃなかったかもしれない。冬には白菜を蓄えて寒さをしのぐような生活だったかもしれない。それでも、おばあちゃんがいれば、私は舞でいられた。名前をくれたのも、おばあちゃん。命をくれたのも、おばあちゃん。そのおばあちゃんが、自分の体で私のお腹を庇ったとき——あなたはどこにいた？加害者のそばよ。あなたは、私の子を殺しかけたその女の、愛の言葉を聞いていた。あの瞬間、本当に、あなたが死ねばいいと願ったのよ」……言い終えると、舞はシロを抱き上げ、無言で立ち去った。彼女は、かつて言った通り——生きていようと、死んでいようと、もう会うことはないと。たとえ、子どもがまだお腹にいようとも——もう、顔を合わせる必要はなかった。カフェ店内、他の客の視線が集まっても、京介は動じなかった。舞が扉の前まで来たとき、背後から彼が小さく呼びかけた。「……舞、どうすれば——どうすれば、償える？許してもらえる？」舞は振り返り、まっすぐに彼を見据えて答えた。「……おばあちゃんを、生き返らせられる？」できるはずがなかった。京介は、彼女の背中を見送った。胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように痛んだ。自分は、まだどこかで夢見ていた
私が去った後のクズ男の末路 第207話
京介は、シロの首元をそっと掴み、慎重に抱き上げた。すぐそばで使用人が声をかけた。「旦那様、服が汚れてしまいますよ」だが、京介が気にするはずもなかった。彼はシロの頭をやさしく撫でながら、内心では激しく動揺していた——舞は、シロをとても大切にしていた。国外へ行くなら、必ず一緒に連れていくはずだ。つまり……舞は、まだ国内にいる。しかも、この雲城市に。彼女は、ずっとこの街にいた。シロはじっと彼の顔を見つめていたが、京介が黙ったままでいると、キュンと一声鳴いて、彼の胸に顔をすり寄せた。数百万円はする高級スーツは、その一瞬で台無しになった。京介は片手でシロを抱き、もう一方の手でスマートフォンを取り出し、中川に電話をかけた。「……匿名で舞に連絡を取ってくれ。犬が見つかったと伝えて、明日の午後に引き渡しの約束をしてくれ」電話の向こうでは中川が一瞬戸惑ったが、すぐに状況を察した。彼女は優秀な社畜、状況把握はプロ並みだった。——舞が雲城市にいる。——今日、シロが迷子になった。——そのシロが、偶然にも京介の別荘に現れた。——そして京介は、犬を口実にして彼女に会おうとしている。中川はホテルの固定電話から連絡を取り、引き渡しの約束を取り付けた。もちろん、シロの写真付きで——ピンクの小さなバスタブにちょこんと座る白い犬。「これから綺麗に洗われるところです」と言わんばかりの一枚。報酬として二百万円を要求したが、舞は疑うこともなく了承した。……その夜、バスルームにて。京介は上着を脱ぎ、シロをバスタブにそっと入れた。シロは気持ちよさそうに目を細め、前足を浴槽の縁にかけて甘える。時折「うぅ〜」と喉を鳴らして鳴くその様子は、どこか人懐っこく、心を和ませるものだった。京介は、無言のまま犬の体を洗いながら、ふいに思い出した——澪安のことを。もし、澪安が生きていたら……あと二年もすれば、シロと一緒に庭を走り回っていただろうか。彼の目が、静かに陰った。だがすぐに、小さく笑った。その笑みには、沈んだままの想いが、にじんでいた。風呂のあと、乾かしたシロは再び目を細めてまどろみ、京介はその小さな頭を両手で包み、そっと口づけをした。「舞。会いたくてたまらなかった」……翌日、午後二時
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