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第215話

Author: 風羽
夜半、山あいに白い霧が立ち込め、まるで山全体を包み込むようだった。

舞が本堂から出てきたとき、彼女は魂が抜けたような顔をしていた。

細い体は風に揺れるようにふらつき、唇は微かに澪安の名を呟いている。

彼女は未だ、あの果てしない悲しみの中にいた。

京介はすぐに駆け寄り、自分のジャケットを脱いで肩にかけようとした。

しかし舞は無言で彼を見つめるだけだった。

その瞳に生気はなく、ただ深い哀しみだけが宿っていた。

そして、彼の手を静かに払いのけた。

彼の優しさも、存在も、彼女にはもう必要なかった。

黒いジャケットは地面に落ちた。

京介は喉を鳴らし、掠れた声で言った。

「舞……たとえ怒っていようと、自分の身体は大切にしてくれ」

舞は漆黒の闇を見つめながら、決然とした声で言った。

「私がどうなろうと、あなたには関係ない」

京介は落ちたジャケットを拾い、もう一度肩にかけようとしたが、舞はその手を激しく振り払った。

産後の体はまだ本調子ではなく、感情の高ぶりに耐えきれず、そのまま真っ直ぐに倒れ込んだ——

彼女はその場で気を失った。

……

夜が更けて、舞はゆっくりと目を覚ました。

周囲は静まり返り、かすかにカラーの香りが漂っていた。

手探りで照明をつけると、そこは懐かしくも遠い記憶の中の部屋——

白金御邸の別荘だった。

京介の姿はどこにもない。

階下も静まり返っていた。

舞はスマートフォンを探そうとしたが、見当たらない。

おそらく京介が取り上げたのだろう。

ふと、胸元に違和感を覚え、浴衣の襟元を見れば、濡れた痕が広がっていた。

胸の奥が、じんわりと痛みを訴える。

舞は唇を噛み、胸元を押さえながらバスルームへ向かった。

そっと浴衣を開き、過剰な栄養を丁寧に処理していく。

鏡に映る自分の姿は、授乳でふくよかになるどころか、以前よりも一層痩せていた。

鋭い痛みが続く中、舞の瞳には自然と涙が浮かんだ。

その痛みの向こうには、澪安の面影があった。

——彼の顔を一度も見られなかった。

その苦しみに気を取られ、彼女は一階の庭で鳴った車の音に気づかなかった。

深夜、庭先に黒い車が二台滑り込んできた。

京介が車から降りた。顔には疲労の色が浮かんでいた。中川に簡潔に指示を出した。

「了解です……」

中川の目の下には、すでに真っ黒
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