LOGIN章真は想乃を抱いて2階の主寝室へ戻った。ようやく取り戻したばかりの娘だ。どれだけ見つめても見飽きることがない。想乃は父親の膝の上にちょこんと腰掛け、小さなボールで楽しそうに遊んでいた。自分が愛されていることを、きっと本能で感じているのだろう。好きなだけ見つめられてもまったく気にしない。ふと顔を上げれば、大きな瞳がきらきらと輝き、小さな顔立ちは人形のように整っている。可愛い子どもは、それだけで自然と自信を持つものだ。幼稚園でも先生たちの人気者なのだろう。最初はボールで遊び、次は章真のシャツのボタンを指先でつつき、やがて顎へ手を伸ばした。お髭を触ってみたかったらしい。けれど章真の顎はきれいに剃られていて、ちくちくする髭は一本もない。想乃は少し残念そうに、小さくふうっと息をついた。その様子を章真はただ黙って見つめ続ける。一瞬たりとも目を離したくなかった。父親というものは、娘には特別弱い。まして4年間も知らずに過ごしてきた娘が、ある日突然目の前に現れたのだ。その空白を埋めたいという思いと、何もしてやれなかった後悔だけで胸がいっぱいになる。……1階では、結安が章真の意図に気づいていた。彼はわざと自分へ役目を与えている。幸い蝶野は結安の立場を理解してくれていて、必要なものはすべて先に用意してくれていた。連れてきた家政婦がそれを2階へ運ぶ。想乃はまだ幼いとはいえ4歳。章真が一人で入浴を手伝うには気を遣う年頃だった。結安も一緒に2階へ向かう。その背中を見送りながら、蝶野は複雑な表情を浮かべていた。結安にはここへ残って幸せになってほしい。けれど同時に、自分の望む人生を自由に歩んでほしいとも思ってしまう。階段を上がる途中、家政婦がそっと結安へ話しかけた。「想乃ちゃんのお父さん、本当に立派な方ですね。想乃ちゃんのこと、とても大切にされているのが分かります。おじい様もおばあ様も、立花さんをすごく気にかけていらっしゃるし……葉山さんのお話、考えてみてもいいんじゃありませんか。子どもには、やっぱり家族が必要ですから」……家政婦が想乃を思って言ってくれていることは、結安にもよく分かっていた。だから否定もせず、ただ静かに微笑むだけだった。それ以上は
結安はゆっくりと顔を上げる。その瞳の奥には、壊れそうなほど脆い色が宿っていた。章真はこれまで見せたことのない眼差しで彼女を見つめている。それは少女ではなく、一人の女性を見る男の目だった。想乃が生まれる前には、一度として向けられたことのない眼差し。長い沈黙の末、彼は低く囁く。「どうして駄目なんだ。結安……ビジネスの世界はもともと残酷なものなんだ。もしあの結末を知っていたなら、俺はあんなことはしなかった。お前の家の会社なんて、失っても構わなかった。……信じられないだろうけど。過去は変えられない。だからせめて、償わせてくれ。想乃を育てさせてくれ。そして……もう一人、子どもを授かろう。もう一人家族が増えれば、この家はきっと変わる。子どもたちが大きくなったら、俺のすべてを想乃と、その子に託す。……そうしたら駄目か。お前に返せなかったものを、全部子どもたちへ返させてくれ」――償う。章真がそんな言葉を口にしたのは初めてだった。想乃が生まれたからだ。昔の彼は奪うことしか知らなかった。結安には、その変化が痛いほど分かる。胸が苦しく、惨めだった。頷きたくない。けれど逆らえば、彼が何をするか分からない。外には想乃も、使用人たちもいる。こんな場所で騒ぎになることだけは避けたかった。結安は小さく首を横へ振る。乱れた黒髪。涙を滲ませた白い頬。その儚さは胸を締めつけるほどだった。章真は彼女の顎へ手を添え、少しだけ力を込める。「俺を見ろ」視線が重なる。これほど深く見つめ合ったことは一度もなかった。章真はゆっくり身を屈める。唇が軽く触れた。ほんの一瞬で離れる。黒い瞳は真っ直ぐ彼女を捉えたまま、掠れた声で呟く。「……柔らかい」そのまま彼は再び彼女へ顔を寄せる。結安は小さく息を呑み、抗おうとする。けれど章真は離さない。重なった唇の距離は容易にはほどけず、結安の震えも、堪えきれない嗚咽も、そのまま静かに受け止めていた。扉の向こうからは幼い娘の笑い声が微かに聞こえてくる。二人の宝物。その存在がすぐ近くにあるという現実が、結安の胸をさらに締めつけた。乱れた服を整える余裕もなく、力の抜けた身体を章真が支える。その姿
結安が顔を上げる。そこには、深く静かな眼差しで自分を見つめる章真がいた。しばらく沈黙が流れたあと、結安は掠れた声で呟く。「……私が何を考えているかなんて、そんなに大事なの?」その言葉に、章真はわずかに口元を緩めた。どこか愉しげな色が瞳に差し、低い声で返す。「聞かせてみろ」彼はてっきり、結安は「チョコを連れて出て行きたい」と口にするものだと思っていた。だが彼女は焦点の定まらない瞳のまま、静かに言った。「……数年前、あなたに出会わなければよかった。そうしたら私はまだ家族と一緒にいられた。お父さんも、お母さんも失わずに済んだ。章真……あなたは私の家族を壊した。そのあなたが今さら、私と新しい家庭を作ろうなんて……そんなの、あまりにも残酷じゃない」声はとても小さかった。隣で遊ぶ娘を起こさないように。チョコは小さなボールを抱え、楽しそうに遊んでいる。楓ヶ丘邸は広く、リビングダイニングだけでも200平方メートル近い広さがある。子どもなら走り回れるほどの空間だった。まるでお城のような内装。そんな家を嫌いになる子どもなどいない。そこに住む父親は童話の王子様のように格好よくて、優しい。チョコが章真に惹かれるのも、ごく自然なことだった。結安の気持ちは変わらない。それでも娘を悲しませたくはなかった。どうして章真は、こんなにも突然現れたのだろう。どうしてこんなにも早くチョコと引き合わせてしまったのだろう。彼女には心の準備をする時間すらなかった。もう娘は章真と出会い、彼を好きになってしまった。自分に残された選択肢はあまりにも少ない。胸の苦しさに耐えきれず、結安はそっと顔を覆う。そして足早に一階の洗面室へ向かった。章真はその背中を黙って見送る。何を考えているのか読み取れない、深い眼差しだった。そのとき、ボールを抱えたチョコが母親を追いかけようとする。章真は娘を抱き上げ、そのまま膝の上へ座らせた。優しくあやしていると、チョコは洗面室の方をじっと見つめながら呟く。「ママのところ、行きたい」章真は小さな鼻をつまみ、穏やかに笑った。「ママはね、大人の悩みごとがあるんだ。それは大人にしか解決できない。だからパパがママのところへ行ってくる。いいか?」
チョコの寝顔を見届けたあと、部屋にはどこか微妙な空気が流れた。あの頃の結安はまだ幼さの残る少女だった。それが今では、章真の娘を産んだ母親になっている。澄佳には、結安を可愛がるべき年下の親族として接すればいいのか、それとも嫁となる人として迎えればいいのか、判断がつかなかった。年齢は章真よりひと回りも下だ。本来なら大切に守ってやるべき存在だ。けれど結安の表情を見る限り、本人は決してこの関係を望んではいない。正直なところ、若い二人の恋愛や結婚に口を挟みたくはなかった。だが、章真の前では結安はあまりにも非力すぎる。放っておくことなどできなかった。しばらく考えた末、澄佳は静かに口を開く。「想乃ちゃんは、きちんと葉山家の子として認めるべきよ。姓がどうなるかは別として、この子の出自だけは誰にも曖昧にさせてはいけないわ。周りから軽んじられるようなことがあってはだめ。それから……結安と結婚するかどうかは二人の問題。でも、想乃ちゃんと結安の将来だけはあなたが責任を持って保障しなさい」澄佳が案じていたのはその先のことだった。もし二人が結ばれなければ、章真はいずれ別の女性と結婚し、家庭を持つだろう。だからこそ今のうちに、結安と想乃の生活だけは守らなければならない。子どもを産んだ結安に、何一つ残らないようなことだけは避けたい。少なくとも母娘が安心して暮らせるだけの生活基盤は必要だった。そしてもう一つ。想乃は母親と一緒に育つべきだと、澄佳は強く思っていた。十月十日お腹で育てた子を、突然母親から引き離すなど、あまりにも酷だから。話し終えると、澄佳は章真へ視線を向ける。母親だからこそ分かる。この息子がどれほど扱いにくい人間なのか。思慮深く、簡単に人の言葉では動かない。親の忠告ですら届かないこともある。少し考えたあと、澄佳は言った。「それなら、結安と想乃ちゃんはしばらく私たちの家へ来ない?」章真はわずかに眉をひそめる。そして結安を見る。結安の表情は一瞬で和らいでいた。その様子を見ただけで、彼女がどれほどその提案を望んでいるかが分かる。章真の胸に小さな苛立ちが湧いた。――そんなに俺と一緒にいるのが嫌なのか。両親も妹夫婦もいる。この場で無理強いするわけにはいかない。
桐生が医師を見送る。寝室には章真、結安と蝶野、そして眠っているチョコだけが残った。少し間を置いてから、蝶野が口を開く。「お母様とお父様がもうすぐお見えになります。それから芽衣様と陽白様もご一緒です。お嬢様に会いにいらっしゃるそうです」DNA鑑定の結果など待つまでもなかった。蝶野には、この子が章真の娘だと確信できた。顔立ちは結安によく似ている。けれど目元、とりわけ目尻の雰囲気は驚くほど章真そのものだった。まるで小さくなった章真を見ているようだった。蝶野が報告を終えると、章真は結安へ視線を向け、不意に言った。「お前はどう思う?」蝶野は思わず目を瞬かせる。その口調は昔とは違っていた。どこか夫婦が何気ない相談を交わしているような響きがある。当の結安も、その言葉の意味が分からず戸惑っていた。章真は遠回しな言い方をやめ、静かに告げる。「チョコには父親が必要だ。この子を親のいないような環境で育てるつもりはない。結安――俺と結婚しよう」……蝶野は思わず息を呑んだ。驚きと喜びが胸に込み上げる。始まりは決して幸せな縁ではなかった。それでも今は子どもが生まれた。だからこそ結安には報われてほしい。お嬢様にも、ちゃんとした家庭を持たせてあげたい。章真ほどの財力があれば、母娘が苦労することはない。もう居場所を転々とする必要もなくなる。だが――結安には頷けなかった。誰にも彼女の痛みは分からない。18歳で両親を失い、望まぬまま章真の世界へ引き込まれた。そして、想いを寄せてはいけない相手を好きになってしまった。何年経とうと変えられない事実がある。両親の死は間接的とはいえ章真と無関係ではなかった。娘を授かった今でも、何事もなかったように彼と夫婦として暮らし、幸せな家庭を演じることなどできなかった。結安の表情には迷いと苦しみが滲む。章真は顎をわずかに上げ、蝶野へ目配せした。先に席を外せという合図だった。蝶野は面白くない。自分だってこの家族の一員なのに、と心の中で不満を漏らす。だが章真に一瞥されるだけで逆らえなくなり、渋々部屋を出ていく。扉を静かに閉めると、寝室には二人だけが残った。章真は結安を見つめ、もう一度静かに告げる。「結安……俺と結
その口づけは、どこまでも強引だった。決して拒むことを許さない意志が込められている。しかも場所はウォークインクローゼット。すぐ向こうの主寝室では、チョコが甘い寝息を立てて眠っている。二人の血を受け継ぐ娘がすぐそばにいるという事実が、この張り詰めた空気をいっそう危ういものにしていた。絡み合う指先。ぴたりと重なる身体。互いの体温が静かに伝わり合う。結安の艶やかな黒髪はソファへさらりと広がり、小さく整った顔立ちは淡く艶めいている。章真の指先は彼女の柔らかな頬を包み込み、その力強さが、かえって彼女のか細さを際立たせていた。乱れた衣服。一歩も引く気配のない男。結安の目尻から、一粒の涙が静かにこぼれ落ちる。あまりにも惨めで、あまりにも恥ずかしかった。隣の部屋ではチョコが眠っている。階下には、自分が連れてきた家政婦も、蝶野もいる。皆がこの屋敷にいるというのに、自分は章真に抱き寄せられ、逃れることもできない。どれほど拒もうとも、彼は決して手を緩めなかった。そこにあったのは男女の情愛だけではない。抑えきれない怒りもまた、確かに混じっていた。――彼女はずっと章真を欺いていた。何人もの男と関係があったと口にした。だが、チョコという存在を知った今、それが真実ではないことくらい章真には分かっている。それでも彼女は自分のもとを離れようとしていた。どれほど身体を重ねても、その心は自分には向いていない。頭の中にあるのは、チョコを連れて逃げ出すことだけ。そして逃げた先で、誰と生きるつもりだったのか。――藤堂駿か。その考えが章真の胸の奥にくすぶる苛立ちへ火をつける。狭い空間には、誰にも知られてはならない気配だけが静かに満ちていった。結安には、そこに安らぎなど一つもなかった。あるのは章真から与えられる罰だけ。永く続いたわけではない。10分ほどが過ぎるころには、室内は再び静けさを取り戻していた。章真は彼女の耳元へ額を寄せ、荒い息をゆっくりと整えている。しばらくしてから彼は結安の頬へ手を添え、もう一度唇を重ねた。まだ足りない――そんな執着が滲んでいる。こんな章真を見るのは初めてだった。結安は顔を背けようとする。しかし身体には力が入らず、思うように動けなかっ
マグノリア映画祭が、予定通り開催された。予想通り会場は央筑ホテルで、その夜、ホテルには名士が集い、星々のように輝いていた。今夜は、夕梨が立都市の央筑ホテルに勤務する最後の夜だった。彼女は深夜二十四時のフライトを予約していた。米国へ向かい、二年間の研修に入るのだ。六年前、彼女が央筑ホテルに入ったのは寒笙のためだった。しかし数年が経ち、彼女はこの場所を深く愛するようになっていた。だから今夜、彼女は自分の数年間のキャリアに完璧な終止符を打ちたかった。ホテルの前庭には、百メートルのレッドカーペットが敷かれた。夕梨は主催ホテルの責任者として、来賓を出迎えていた。黒のスーツに身
二人が振り返ると、そこには玲丹がいた。玲丹はお腹を突き出しており、妊娠四ヶ月といったところだ。一年ほど前、玲丹は富豪に嫁いだ。最初の年に娘を産んだが、相手の母はあまり喜ばず、娘がまだ生後三ヶ月の頃から、次の子作りを迫られ、運良くすぐにまた妊娠したのだ。第一子は帝王切開だったから、まさに命がけの出産だ。玲丹の事情はわざわざ聞かずともゴシップニュースに書かれている。夕梨はこの女に何の感情も抱いていなかった。彼女は寒真の手を振りほどき、一言だけ残した。「昔のご縁、大事にしてらっしゃい」寒真は彼女を引き留め、車のキーを彼女の手に握らせた。「車で待っててくれ、すぐ
冷たい氷水が、頭から足先まで容赦なく浴びせられた。寒真は目を覚ました。目を開けると、そこには激怒した仁政と、情けないものを見るような両親の姿があった。ソファには弟の寒笙が座り、悠々とサプリメントを飲んでいる。その横では翠乃が静かに刺繍の本を読んでいた。寒真は頭を振った。氷の雫が祖父の顔に飛び散った。仁政はさらに激昂し、罵声を浴びせた。「家にまともな人間がもう少し多ければ、私は今頃H市の豪邸で安穏とした余生を送っておったわ!こんな辱めを受けることもなくな!見ろ、今の自分のザマを。バーで泥酔なんぞしおって、野垂れ死にしなかったのが不思議なくらいだ!」晴臣が思わず口を
夕梨は彼の黒髪をそっと撫でた。普段の寒真はとにかく甘えるのが好きだ。190センチの大男なのに、恥ずかしくないのかしら。けれど――夜になり、ベッドの上にいる彼は甘え方がまるで違う。その瞳に宿る熱は触れれば溶かされてしまいそうなほどで、夕梨は時折視線を逸らしてしまう。そんなことを考えただけで、頬が少し熱くなった。彼女は何でもないふりをして言った。「あとでお義母さんがひかりを連れてくるわ。ずっと会いたがってたでしょう?今夜はここに泊まるから、ベビー用品も一緒に持ってくるわよ」寒真は最初は喜んだが、後になって少し名残惜しそうにした。手が怪我をしていて子供の世話ができず、







