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第363話

Author: 風羽
ふたたび、沈黙が落ちた。

やがて、瑠璃がゆっくりと口を開く。

「岸本さん。もう、言うべきことは全部言ったわ」

彼女は聖母ではない。笙子の妊娠が理由で、岸本との復縁を拒んだわけではなかった。

ただ——岸本という男が根っからのろくでなしだからだ。

今見せている「誠意」も、笙子への不満と、彼女に子を産ませたくない一心から。

瑠璃はそのための口実にすぎない。

「瑠璃。そんなに意地を張るのか」

低く沈んだ声が、受話器越しに響く。

ここまで頭を下げているというのに——彼女は、一歩も退かない。

瑠璃は通話を切った。

そして、ふっと浅く笑う。

もし彼女が「意地」を捨てられる女なら、とっくに周防輝と一緒になっていただろう。

分かっている。こんな不器用さは時代遅れで、賢いやり方ではない。

——それでも、自分を誤魔化すことはできなかった。

夜は、ますます濃くなる。

岸本が携帯を置くと、視線の先——

寝室とバルコニーをつなぐ扉のそばに、笙子が立っていた。

手には上着。

どうしていいかわからず、そこに佇んでいる。

きっと全部聞こえていたのだろう。

目に溢れるのは羞恥と涙。

立場はとっくに分かっていたはずなのに、こうもあからさまに言われれば、やはり心は傷つく。

——金持ちであること以外にも、岸本には惹かれるものがあった。

大人の男の色気。

笙子の目からついに涙がこぼれ落ちる。

母性という本能が、腹の中の小さな命を守らせようとするのだろう。

彼女はかすかに震える声で言った。

「そんなに望まないなら、下ろすわ」

岸本は深く見つめ——

しばしの沈黙のあと、声を和らげた。

「産め。産んだら、俺が放っておくことはしない」

ただ、それだけの言葉。

だが、約束にも聞こえた。

笙子は顔を覆い、泣きながら笑い、彼に飛び込みたくなる。

だが岸本の胸には、別の痛みがあった。

何か大切なものを失ったような——

笙子は彼が「失恋」しているのだと悟る。

妙な空気のまま、岸本はその夜を過ごさず、しばらくして上着を持って出て行った。

車はまだマンションの下に停まっていた。

乗り込み、しばらく考え込んだ末に、低く告げる。

「瑠璃のマンションへ」

運転席の男は、心の中で苦笑する。

——この人は、あっちもこっちも愛しているつもりなのか。

三十分
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