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第4話

Author: 風羽
夜の9時、舞と京介は周防家を後にした。

車に乗り込み、京介がシートベルトを締めながら、何気ないふうを装って尋ねた。「さっき、輝と何を話してたんだ?……ずいぶん楽しそうだったけど」

舞は軽くうなずいた。「ええ、あなたの幼なじみの話をしていたわ」

京介は黙り込んだ。

しばらく沈黙が続いたあと、京介はそっと舞の手を握った。その声には、彼には珍しいほどの柔らかさがにじんでいた。「……彼女とは、寝たことはない」

舞はシートに寄りかかり、目に涙を浮かべていた。

彼女はわかっていた。京介の優しさなど、何の意味もない。それはただ、今が彼女の受胎しやすい時期だからに過ぎない。彼は、彼女の腹に種を残そうとしているだけなのだ。

そこに愛などない。そして、そこに舞という人間は、まるで存在していない。

ふと、舞は思った。もし、彼が自分がもう子どもを産めないと知ったら、それでも引き留めようとするのだろうか?それとも、待ってましたとばかりに離婚にサインして、次の周防夫人にふさわしい女を探し始めるのだろうか?

今夜、京介はかなり本気だった。彼は舞に近づき、妻の情念をかき立てようとした。

けれど舞は、その瞬間、どうしようもなく自分が哀れに思えてならなかった。

彼女の夫は、彼女を愛していない。彼にとって彼女は、仕事のパートナーであり、ただの『生むための器』でしかない。彼は、彼女と肌を重ねることを楽しんでいるわけではない。ただ、毎月の義務として、子どもを作るために彼女と寝る。それはもう、感情も尊厳も存在しない。ただの動物の交尾と、いったい何が違うというのだろう。

舞は彼のキスを避けた。声はかすれ、そこにはどこか哀しみが滲んでいた。「京介……離婚の話は、本気よ。私が求めすぎていると思うなら、また話し合いましょう」

車内は暗く、京介は妻の顔をじっと見つめ、彼女の皮肉をはっきりと見ようとしているようだった。

しばらくの沈黙の後、彼の声は冷たかった——

「俺も言ったはずだ。俺たちは離婚しない」

「舞、子どもができれば、お前は余計なことなんて考えなくなる」

舞は目をそっと閉じ、力なく呟いた。「……もし私が、もう子どもを産めないとしたら?」

京介は眉をひそめ、不満げな顔で当然のように言い放った。「そんなことあるか?結婚のときに、俺たち二人とも婚前検査を受けたじゃないか」

舞は苦々しく笑った。

4年前の婚前検査の報告書は、もう無効だ。

ちょうど京介がプロポーズしたときの誓いのように、それはもう男の良心の中に消え去り、少女の優しい腕の中で消え去った……

ロイヤルガーデンに戻った頃には、時刻はもう十時近くになっていた。

京介は客間でシャワーを浴び、今夜は舞と同じ部屋で過ごすよう説得するつもりだった。だが、そこに一本の電話が入り――彼は言葉を残すことなく、足早に家を出ていった。

舞は彼が愛人に会いに行ったのだろうと推測した。

彼女は気にしなかった、少なくとも今夜は、京介に対応する必要はなかった。

一晩中、京介は戻ってこなかった。

ロイヤルガーデンの明かりは、一晩中消えることなく灯っていた。けれど、その夜も――家の主は、ついに戻ってこなかった。

次の1週間、京介は毎晩帰ってこなかった。

離婚の件を、京介は進めなかった。

あの冷たい秋の夜、舞は何をしていたのだろう?

彼女はよく寝室の大きな窓の前に立ち、外の黄色くなり始めたプラタナスの葉を見ながら、淡々と考えた。もしあの時、絵を諦めず、早く結婚せず、ビジネスの世界に入らなかったら、もっと幸せだっただろうか?

京介については、一度たりとも彼女から連絡を取ることはなかった。外で遊び歩くような男は外で死んだものと思っていた。

久しぶりの再会は、ビジネスの場での付き合いだった。

……

隠れ家。

立都市で最も豪華な高級ビジネスクラブ。

舞が個室に入った瞬間、目に飛び込んできたのは――愛果が京介のすぐそばに、ぴったりと寄り添うように座っている姿だった。まるで小鳥のように甘えていた。舞の姿に気づいた愛果は、目もくれずにスマホをいじり始め、まるで彼女の存在など見えていないかのようにふるまった。

秘書の彩香は怒りを露わにしかけた。

だが、舞はその手を静かに止めた。そして淡々とした声で言った。「彼女は今、京介様のお気に入り。まずは、好きにさせておこう」

京介の隣には、すでに空きがなかった。舞があえて先方に加わることはなかった。彼女は軽く微笑むと、口実をつけて洗面所へと立った。京介が、あの愛人をどう処理するか、その時間をたっぷり与えてやろうと思ったのだ。

トイレの中、クリスタルの照明が煌めいていた。

舞が静かに手を洗っていると、背後から女性のヒールの音が響いてきた。

鏡をふと見上げると、そこには愛果の姿が映っていた。

愛果は舞の隣まで歩み寄り、いつもの控えめな態度とは打って変わって、棘のある挑発的な口ぶりで言った。「別荘に戻ったの。京介はね、私が好きなだけ住んでいいって」

舞は静かに蛇口を閉めた。

そして、鏡越しにその清楚な顔をじっと見つめた。

たしかに、清純で、肌にはコラーゲンがみっちり詰まっていそうな若々しさ。自分のように長年ビジネスの世界に身を置き、疲れの色をほんのりと宿す顔とは違う。若さというものは、やはりそれだけで輝いているのだ。

そう思いながら、ふと気づいた。自分だって、まだ二十六歳にすぎないのに。

舞は視線を落とし、無名指にはめた六カラットの婚約指輪を指先でゆっくり回しながら、淡々とした声で言った。「白石さん、もし私があなたの立場なら、京介のそばでおとなしく金の鳥籠の中で生きているわ。騒ぎ立てず、彼に首を絡めてお金をせびって、プライベートの話をあちこちに振りまくようなことは決してしない。それに、なぜここで騒ぐの?こんな場所はあなたにふさわしくないわ」

愛果は口角を上げ、得意げに言った。「京介は私を守ってくれるわ。私にお酒を飲ませたくないの」

「そう?」

舞は相変わらず淡い笑みを浮かべながら、言葉を返した。「でもね、白石さん、あなたは知らないかもしれないけど、京介にとっていちばん大切なのは金よ。彼は、ビジネスと女をきっちり分ける男。あとでね、たとえそれが一杯のお酒じゃなくて毒だったとしても……彼はきっと、あなたに飲めって言うわよ」

愛果の顔は青ざめた。「信じないわ」

その言葉を聞いて、舞の微笑みはさらに淡くなった。

愛果が去ったあと、舞は鏡の中の自分をじっと見つめていた。さっきの啖呵、自分でも可笑しいと思えるほどの虚勢だった。少しだけ気を回せば、少しだけ策を使えば、自分が周防夫人の座に居続けることなど簡単だとわかっている。でも、それは彼女の望む人生でも、結婚でもなかった。

彼女は飽きて、テーブルをひっくり返したくなった。

舞が個室に戻ると、京介の隣の席はいつの間にか空いていた。彼女は何事もなかったかのようにそこへ腰掛け、以前と同じように、仲の良い夫婦の役を淡々と演じた。

一方で、愛果は遠く離れた席に座り、

顔には不満と涙が浮かんでいた。

京介はやや不満げに口を開いた。「……なにも、あの子を困らせなくてもいいだろう」

舞はその言葉に、何も返さなかった。彼は知らない。その愛果をかばうひと言ひと言が、どれだけ自分の胸を刺しているかを。彼が愛果のことを気にかけるのなら、これまでの彼と共に命がけで駆け抜けてきたこの数年は、いったい何だったのだろう?

そう、何なの?

舞の心の中では、静かに血が流れていた。けれどその顔は、驚くほど平静だった。彼女は微笑みながら、愛果に相手会社の人と一杯飲むよう促した。その人は明らかに愛果のような清純なタイプに興味を持っていた。

愛果は、自分が京介の女であることを誇りに思い、なんとかしてその場を断ろうとしていた。

だが、水晶のシャンデリアの下、整った京介の顔には、嵐の訪れを予感させるような陰りが差していた。

彼が気づかないはずがなかった。舞が、わざとやっていることを。

京介はゆっくりとグラスを持ち上げた。視線は舞に向けたまま、けれど言葉は、愛果へと投げられた。「メディアプロジェクトは、数兆の資金が動くプロジェクトだ。……どうあれ、白石、三浦(みうら)社長の顔を立てるべきだろう」

愛果はもう、抵抗できなかった。唇を震わせながら、か細く「はい」と答えた。

その後、彼女は三浦社長の相手としてへりくだりながら酒を飲み始める。その一方で、舞は京介と並んで席に着いていた。

京介の顔には一切の感情がなかった。舞はふと、自分がまるで意地悪な姑になったような気分になった。京介様の偉大な愛を、自分の手で土の中に葬り去ってしまったような、そんな気がした。

その瞬間、彼らは忘れていた。自分たちはまだ若い夫婦だった、ということを。

……

夜、地下駐車場。

秘書の彩香が、ふらつく舞を支えながら車の後部座席のドアを開けた。「副社長、頭をぶつけないように。今夜は、少し飲みすぎましたね」

舞は額に手を当てながら、ぼそりとつぶやいた。

彩香には、すべてがわかっていた。京介様は、今日はさすがにやりすぎだった。

メディアプロジェクト――それは最初から舞が心血を注いできたものであり、企画立ち上げから人脈の調整に至るまで、すべて彼女が動いてきた。それなのに今夜、京介はわざわざ愛果を連れてきたのだ。舞が怒るのも、当然だった。

けれど。愛果はその後、酒を飲みすぎて病院送りになったという。それだけが、せめてもの、胸のすく思いだった。

舞が車に乗り込もうとした瞬間、彼女の手首が男性の腕に掴まれた。

『バン』という音と共に、彼女の体は黒いリムジンの車体にぶつかった。

車体の冷たい高級感が、女性の無力さを一層際立たせた。

しばらくして、舞は痛みからようやく回復し、夫の嵐の前触れのような険しい顔を仰ぎ見ながら静かに言った。「彩香、少し離れてて」

彩香は本当に心配だった。しかし、京介の表情を見て、彼女は残る勇気がなく、小声で言った。「奥様も体調がよくないんです……」

舞の目に、じわりと涙がにじんだ。

彩香がその場を離れた途端、京介が感情を爆発させる。舞に歩み寄り、その顎を乱暴につかむと、冷たい声が落ちた。

「なぜ彼女をわざと困らせるの?」

「今、彼女は病院で胃洗浄して点滴を受けてるんだ。

「舞、彼女はただの親戚の娘だ。少し気にかけているだけだって言ったはずだ……」

……

一つの平手打ちが、京介の顔に飛んだ。

手のひらが痺れ、体の震えが止まらなかった。

彼女は京介を睨みつけながら、かすかに笑った。「世話って、別荘のベッドまで必要なの?京介、それって本気の愛情を隠す気がないってこと?それとも、私をただの馬鹿だと思ってるの?」

京介の端正な顔が、激しい一撃に横を向いた。

彼はゆっくりと顔を戻し、舌で口の中を押し上げた。舞をまっすぐ見つめるその目は、まるで彼女を殺さんばかりに鋭かったが、口調は冷静そのものだった。「そんなに、俺の愛が欲しいのか?何もかも犠牲にして?」

舞は彼の言い方を真似して、冷笑を浮かべた。「自惚れないでよ」

京介は、いくらか落ち着いたように見えた。

しばらく黙ったあと、彼はそっと舞の頬に触れた。「舞、前ほどいい子じゃなくなったな。周防夫人って役割、そんなに悪いか?子どもを産んで、その座を盤石にするのも悪くないだろ?なぜそんなに気にするの?なぜ俺に逆らうの?」

夜の冷たい空気の中、舞は涙を流していたが、彼女はそれに気づいていなかった。

「前?」

「自分でも、それが前だったってわかってるんだ?」

「京介、私たち、まだ昔のままだと思ってるの?昔のあなたのそばに、若い子なんていなかった。夜中に帰ってこないこともなかったし、子どもが欲しいからって、私の排卵日を毎月計算したりもしなかった!」

「京介……変わったのは、あなた?それとも私?」

……

四年間共に寝てきた彼らは、ついに顔を合わせた。

京介はじっと舞を見つめた。名声と欲望の渦を四年間共に歩んできたこの妻を。長い沈黙ののち、その目は氷のように冷たくなり、何かを決意したような光を宿していた。

静寂が夜を包み込む。

まるで、愛の終わりを悼むように。

京介は舞を放し、一歩後ろへ下がった。「明日から、おまえがメディアプロジェクトを担当する必要はない。職務については、株主総会を開いて適切に判断する」

舞はふっと笑った。

彼の剣は、まず愛する者を斬る。

彼女も、そして京介も、心のどこかでわかっていた。二人の間に横たわる溝は、決して愛果という一人の存在だけではなかった。京介はまるで、渡り切った橋を壊すかのように、舞を家に追い返そうとしている。周防家の妻として子を産み、その愛情を理由に一生を縛るつもりなのだ。

愛、子供……

この瞬間、舞の悲しみと怒りは頂点に達した。

胸の奥が、急にすうっと冷えていく。過去に信じてきたものすべてが、自分の一方的な幻想だったのだと悟った。京介との出会いは運命なんかじゃない。それは、舞自身の業だった。

彼女はもう隠したくない!

今こそ、本当のことを言わなければならない。今この瞬間、京介に伝えなければならない。自分はもう、子供を産めないのだと。

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