Mag-log in夕方、彰人は病院へと戻ってきた。モナは気が気ではなく、思わず叱りつけようとしたが、その瞬間、彼の後ろに立つ涼香の姿が目に入る。目を見開き、女と彰人を交互に見た。たしか、きっぱり終わらせたはずでは?どうして、また一緒にいるのか。彰人は何事もなかったかのようにベッドへ横たわり、淡々と口を開いた。「願乃とは、完全に別れた。子どもは二人とも、あいつに任せた。これで……もう関係はない」モナはしばらく言葉を失った。まったく理解が追いつかない。彼女の知る彰人は死んでも手放さない男だった。それなのに、あまりにもあっさりと手を離した。また、何か企んでいるのでは?まさか――わざと距離を置いた?すべてを隠して、あとで真実を知った願乃に後悔させるつもりなのか。だが、その予想を打ち消すように、彰人は静かに目を閉じる。「今回は、本当に終わりだ。俺が病気だってことも、あいつは知ってる。それに、これからは涼香もそばにいる。モナ――初めてだよ。こんなふうに……手放すのは。頼む。願乃には何も言うな。あいつには……あいつの人生を生きさせてやってくれ。自由を……返してやりたい」……モナの鼻の奥がつんと熱くなる。それ以上、言葉を続けられず、彼女は静かに部屋を出た。廊下に立ち尽くし、しばらく動けない。どれほど時間が経ったのか。気がつくと、そばに涼香が立っていた。そっとティッシュを差し出し、小さな声で言う。「モナさん……私も最初は受け入れられませんでした。でも……それでも、氷室さんのそばにいたいんです」モナは深く息を整え、かすれた声で問いかける。「どんな条件で、話がついたの?」涼香は少し目を伏せ、呟いた。「年、一千万円です」モナは彼女を見つめた。目は赤く滲んでいる。責めることなどできなかった。むしろ、この条件を受け入れてくれたことに、感謝すべきなのかもしれない。彰人にとって、それは最後に残された――かろうじて守れる尊厳だったのだから。モナは静かに言った。「お願い。そばにいてあげて」その夜更け。モナは一人、ある人物と約束を交わし、とある場所へ向かった。かつて彼女は舞の秘書だった。そして今は彰人の側近。――このままではいけない。そう思った。……
彰人が邸宅を出たのは午後のことだった。ここに置いてある彼の荷物は驚くほど少ない。数着の衣類と、家族写真。それに、結代の私物がいくつか――それがすべてだった。荷物を手に寝室の扉の前に立つ。本当は最後に願乃へ声をかけるつもりだった。だが、やめた。きっと、もう会いたくはないだろう。いつも彼女を計算に巻き込み、傷つけてきた男。何度も泣かせてきた男。そんな自分の顔など、見たくもないはずだ。先ほど「他に女がいる」と告げたときも、願乃は少しも悲しそうな顔を見せなかった。――本当に、終わったのだ。……彰人はすべてを願乃に残した。そして、自ら車を走らせ、邸宅を後にする。黒のロールスロイス・ファントムは静かに門を抜けていく。門番の前で一度だけ停まり、昨夜約束していたタバコを数箱手渡した。再び車を発進させる。彰人はふと、ハンドルを切り直し、バックミラー越しに邸宅の方角を見つめた。――願乃、お前のもとを離れるこの日、吹雪はひどく荒れている。二階のテラスでは、願乃がウールのブランケットにくるまりながら、静かにその背中を見送っていた。二人の関係は「別れ」と呼ぶには少し違う。ただ、離れただけ。そもそも正式に復縁したわけでもなく、恋人と呼べる関係ですら曖昧なまま、子どもができて――そして今、こうして離れる。ある意味、自然な流れだったのかもしれない。彼が言っていた「相手」とはあの玉井涼香のことだろうか。同じ業界にいる以上、噂を耳にしたことはある。けれど、それは彰人の自由だ。そして今、二人とも自由になった。……本当に?心まで、自由になれたのだろうか。願乃は彰人の言葉の意味を理解していた。これから彼はほとんどここへは来ないだろう。結代の顔を見に来ることはあるかもしれない。そして、生まれてくる清席にも。だが、もう、自分とは関わらない。それはかつて望んでいたはずの形なのに。こんな雪の降りしきる日にはどうしてか、ひどく寂しく感じられた。願乃は寝室へ戻る。ベッドの端に腰を下ろし、ナイトテーブルの上に置かれた小さな箱を手に取る。開けると、淡いピンクダイヤのブレスレットが静かに光を放っていた。きれいだ。本当は好きなのだ。彰人はいつだって、彼女の好
その夜、彰人は長いあいだ話し続けていた。やがて願乃は眠りに落ちる。目を覚ましたときには、すでに空は明るく、庭からは使用人が雪をかく音が聞こえていた。枕元にはもう彼の姿はない。願乃は静かに身を横へ向け、空いた場所を見つめたまま、しばらくぼんやりとする。やがて起き上がり、身支度を整えてゆっくりと階下へ降りると、使用人がすぐに歩み寄ってきた。「奥様、旦那様は結代ちゃんを学校までお送りになりました。すぐにお戻りになるそうです」願乃は窓の外に広がる一面の雪景色を見やりながら、問いかける。「自分で運転して?」邸宅には何台か車があり、普段は彰人が運転していた。使用人は首を横に振る。「いえ、今日は運転手でございます」願乃は小さく頷き、食卓についた。温かいミルクが運ばれてくる。湯気の立つそれを口に含むと、体の奥からじんわりと温まっていく。トーストを二枚ほど食べ終えた頃、外から車の音がした。使用人は二人の関係が少し和らいだのではないかと期待し、どこか弾んだ声で伝える。「旦那様がお戻りです」願乃はただ頷いた。ほどなくして、彰人が玄関から入ってくる。靴を履き替えながら、彼は願乃を見つめ、低く静かな声で言った。「さっき結代を学校に送ってきた。午後は……運転手とおばさんに一緒に迎えに行かせてくれ。出産前なんだから、しばらくは自分で運転しないほうがいい。最近は天気も不安定だしな」長年連れ添った夫婦だからこそ、願乃はその言葉の端々に違和感を覚える。――まるで、何かを託すような言い方だ。まるで、別れの支度をしているかのような。だが、その答えはすぐに知ることになる。三十分後。二人は書斎に向かい合って座っていた。室内は暖かく、ガラス張りの大きな窓の向こうには、凍てつく冬の景色が広がっている。雪に覆われた世界の中、それでもクリスマスらしく、街のあちこちに赤い装飾が見えて、どこか賑やかだった。彰人はデスクの向こう側に座っている。その上には分厚い書類が一式、整然と置かれていた。願乃は湯呑みを手に、ぼんやりと視線を落としている。……やはり、気づいているのだろうか。物質的なものに執着しない彼女だからこそ。この結末をすでに受け入れているのかもしれない。――ある問いがある。
彰人が寝室の扉を押し開けたとき、室内はやわらかな温もりに包まれていた。願乃は広いベッドの上で、深く眠っている。灯の下、頬はほの白く光を帯び、静かな呼吸だけが部屋に満ちていた。腹の子はもう六か月。布団越しでもはっきりとわかるほど、丸く大きく膨らんでいる。彰人は思わず、両手をそっとその上に重ねた。命の存在を確かめるように。――きっと、男の子だろうか。新しい年は穏やかに澄み。これからの道は静かに満ちていく。もし周防の姓を継ぐなら、周防清席(すおうきよせき)がいい。清席。いい響きだ。彰人はその名前を小さく紙に書き留める。そして、それを贈り物の箱に添えた。箱の中身は淡いピンクダイヤのブレスレット。あるブランドのクリスマス限定品だ。決して安価ではなく六千万円はする品だ。それに、ピンクダイヤは常に手に入るものではない。願乃が出産を迎える頃、この柔らかな光を身につけてくれたなら、きっとよく似合う。――そのとき、自分はまだそばにいられるだろうか。彼女の隣に。彼女を支える存在として。――いや、もう「伴侶」としてではないのかもしれない。願乃。どうしても、諦めきれない。けれど、この病を抱えたまま、何をもってお前を愛せるというのだろう。求めすぎたから、罰が下ったのか。彰人の瞳に、深い陰が落ちる。彼はそっとベッドに横たわり、布団越しに願乃の腹へと手を添えた。胎児はすでに胎動が活発な時期だ。最初はゆっくりとした蠢き。やがて、掌の温もりを感じ取ったかのように、とん、とんと小さく蹴り返してくる。まるで、遊んでいるかのように。……元気な子だ。結代と同じように、きっと明るく、よく動く子になる。彰人の胸が柔らかくほどけていく。この子が生まれたら、どんな顔をするだろう。どんなふうに育っていくのだろう。どうか――順風満帆に。穏やかに、何事もなく。願乃の兄、澪安のように。だからこそ、やはり、この子は周防の名を継ぐべきだ。そのとき、願乃が目を覚ました。子どもの動きに気づいたのか。それとも、彰人の気配に気づいたのか。彼女は何も言わず、静かに横たわったまま。ただ、わずかに早まった呼吸だけが、その意識を物語っていた。薄暗がりの中、彰人の声がかすか
邸宅にはひとつだけ灯りが残されていた。そして、夜番の使用人も。ふと物音に目を覚ましたその使用人は、目を開けた瞬間、彰人が中へ入ってくるのを見た。全身が半ば濡れているのに気づき、慌てて声をかける。「旦那様、こんな遅くまでどちらへ?お電話もつながらなくて……結代ちゃんが泣いておられましたよ」彰人は答えず、広いリビングへと視線を向けた。そこには大きなクリスマスツリーが立っている。色とりどりの小さなプレゼントが吊るされ、小さな灯りがきらきらと瞬いて、どこか愛らしい。庭の装飾も同じく、まるでおとぎ話のような幻想に包まれていた。彰人はその光景をしばらく見つめ続ける。やがて、かすかな声で呟いた。「きっと、がっかりしただろうな」使用人は彼の胸の内など知る由もなく、軽く相槌を打ちながら、夜食はいかがですかと尋ねる。彰人は首を横に振った。「いや、いらない。先に休んでくれ……結代の様子を見てくる」使用人は微笑みながら頷く。「旦那様、ちゃんとプレゼントもご用意されてますし。明日の朝、結代ちゃんがご覧になれば、きっと喜ばれますよ」彰人はごく薄く笑った。濡れた裾に視線を落とし、子どもに冷えが移らないよう、先に客室で乾いた服に着替えることにする。着替えを済ませると、まっすぐ結代の部屋へ向かった。ドアをそっと開ける。部屋の中はほの暗く、柔らかな香りに満ちていた。――髪を洗ったばかりなのだろう。まだ残る、少女特有の甘いシャンプーの香り。そういえばこの前、どこのブランドか嬉しそうに話していた。非常に良い香りだと。彰人は小さく笑う。――もう、そんなものを選ぶ年頃になったのか。それでも眠る姿はまだ子どものままだ。布団にうつ伏せになり、まるでぬいぐるみのように丸まっている。長い髪が枕に広がる様子はどこか願乃の若い頃に似ていた。結代は十三歳。あと十年もすれば、きっと誰かに想いを寄せられ、恋をして、やがて結婚し、子どもを持つのだろう。そして願乃の腹の中にいる子も、その頃には同じくらいの年になっているはずだ。――その時、自分はまだここにいるのだろうか。胸の奥に冷たいものが広がる。彰人はそっと手を伸ばし、結代の髪に触れた。指先に絡む柔らかさを惜しむように、静かに撫でる。――結代。もう、
目を開けると、周囲はほの暗かった。だが、鼻を刺す消毒液の匂いで、彰人は自分が病院にいるのだと悟る。――前回は肝臓だった。では今回は何だ?脳腫瘍か?そのとき、傍らで気配が動いた。雅南だった。真冬のクリスマス・イブだというのに、彼女は上司のために駆けつけている。だが、不満の色はない。むしろ、長年仕えてきた分だけ、同情とわずかな心痛が滲んでいた。医師も看護師も不在。身内もいない。雅南はしばらく言葉を選び――どう切り出すか迷っていた。ベッドに横たわる彰人が、静かに問いかける。「脳腫瘍か?」雅南は首を振った。「違います」わずかに声が詰まる。一度息を整え、できるだけ平静を装って続けた。「精密検査の結果、脳に血管腫が見つかりましたが、命に関わるものではありません。ただ……今後は定期的な検査が必要です。ただし、問題は別にあります。肝臓の疾患が再発しています。このまま悪化すれば……移植が必要になる可能性も。それと……医師の見立てでは、偏執傾向が見られるとのことです。心理カウンセリングを受けるよう、勧められています」一気に言い終える。胸の奥が重くなる。だが、彰人は驚くほど落ち着いていた。「それで全部か?」淡々とした声。「他には?心配するな、俺は耐えられる」彼はもう慣れていた。運命の残酷さにも。願乃と過ごした十年は前半生のすべてを引き換えにして手に入れたものだったのだろう。ならば、この後半生はその代償を支払う時間なのだ。――本来、持つべきではなかった十年の。雅南は首を振る。「以上です」彰人は天井を見上げたまま、ぽつりと告げる。「先に帰ってくれ。しばらく一人でいたい」雅南は躊躇う。だが――「一人にしてくれ」その一言に、もう何も言えなかった。仕方なく病室を出る。外のナースに声をかけ、様子を見るよう頼み、こっそりと心づけを渡そうとしたが、若い看護師は受け取らなかった。雅南が去ると、彰人はゆっくりと身体を起こす。シャツのボタンを留めながら、しばらくぼんやりと手を止めた。ほとんど迷いはなかった。――もう、決めていた。それでも、今夜だけは。結代に会いたかった。クリスマスを一緒に過ごすと、約束していたから。病室を出ると、
翔雅は半ば膝をつき、澄佳は身を傾けて彼の腕に抱き寄せられていた。背筋越しに見える雪のように白い肌に黒髪が絡みつき、その艶やかな姿は、男の魂をも奪うほど妖しく美しかった。かつて翔雅もその美に溺れていた。だが今、この胸に湧き上がるのは激しい衝動よりも、深い痛みだった。彼は失いかけたものを取り戻すように、強く彼女を抱き締めた。——今はまだ自分のものではない。だが、いつかきっと。そう思った瞬間、胸の奥が熱を帯び、思わず彼女の唇を塞いだ。離れたくない、離せない、もう放したくない。その口づけは熱を帯び、肌から心臓へと火を広げていった。絡み合い、繰り返される口づけに、澄佳は身動きもできず
悲劇は思わぬ形で訪れた。翔雅が勢いよく回転した瞬間、澄佳の足首がぐきりと捻られたのだ。「……っ!」低い悲鳴に眉を寄せる澄佳。「翔雅……痛い」視線を落とした翔雅は、彼女が左足をかばっているのに気づき、迷うことなく抱き上げて外周へと運んだ。水のかからない場所にそっと降ろす。「歩けるか?」試しに足をついた澄佳は顔を歪めた。「やっぱり駄目だ。病院に行こう」……一時間後、立都市の総合病院・救急外来。医師の診察結果は捻挫。安静にして一週間、湿布薬で様子を見れば問題ないと言う。翔雅はなおも食い下がった。「本当に大丈夫なんですか?」「ただの捻挫だと何度も
人は衝動に駆られると、つい理性を失いがちだ。晩餐会のオークションには十二点の出品物が並び、そのどれもが貴重な品だった。翔雅は澄佳を食い入るように見つめていた。彼女が一瞥でもくれれば、ためらうことなく札を上げ、その品を落として贈るつもりだった。結果、競りの半分以上は翔雅の独壇場となり、数十億円を投じて八つの逸品をさらっていった。「さすが一ノ瀬社長、実力が違う」ざわめきの中、人々は感嘆の声をもらした。やがて壇上に呼ばれたのは翔雅。司会を務めるのは篠宮だった。笑顔を浮かべながらも、内心では「まったく、愚か者め」と毒づきつつ、彼女は落札品を手渡し、形式的な言葉を添える。
翔雅は答えを見つけられなかった。彼は澄佳の携帯に何度も電話をかけたが、電源は切られたまま、着信拒否も解かれていない。翔雅は周防邸に向かった。もし門が閉ざされていたら、もう一度体当たりしてでも入るつもりだった。だが、門はやはり固く閉ざされていた。夕暮れ時、庭は静かで、数人の庭師が散水しているだけ。土の匂いが空気に漂っていた。黒い装飾門の外に立ち、翔雅は庭師を呼び止め、周防家の様子を尋ねた。庭師は彼を認め、周囲を見回したのち、声を潜めて言った。「本当は口止めされてますが……ご夫婦だった縁ですし、お教えします。お嬢様はベルリンで容体があまり良くなく、このまま持ちこたえ