Share

第5話

Author: 風羽
舞は、真実を口にしたその瞬間、自分と京介の関係にはもう戻る道がないことをはっきりと悟っていた。

けれど、人は心の中に積もった失望が限界に達したとき、すべてを投げ出してしまいたくなるものだ。

彼女は、かつて深く愛した夫を見上げ、己の傷口を自らの手で残酷に剥ぎ取るようにして、すべてをさらけ出した。言葉を発するときには、胸が痛みすぎて、もう何も感じなくなっていた。「京介、もう酌量なんてしなくていい。栄光グループの職も、周防夫人という肩書きも、私はもういらない。だって、私は子供を……」

「産めない」という言葉を、舞は最後まで口にすることができなかった。

そのとき、京介の携帯が鳴った。

彼は舞の顔を見つめたまま、電話に出る。受話器の向こうから、秘書の中川が焦った声で叫んでいた。「京介様、白石さんの容態が非常に危険です。すぐに来てください!」

「わかった」

京介は携帯を切ると、舞に向かって一言だけ言った。「用件はあとで話そう」そう言って、彼は黒のロールスロイスに向かい、ドアに手をかけて乗り込もうとした。

舞はその場に立ち尽くしていた。夜風が吹きつけ、全身が冷え切るような感覚に襲われた。

彼の背に向かって、最初はかすかに名を呼んだ。その声は次第に大きくなり、やがて彼女の人生すべてをかけるような絶望を込めて叫んだ。「京介……あなたは、私に一分すらくれないの?四年も夫婦でいて、私はその一言を最後まで聞いてもらう価値もないの?」

京介はドアハンドルを握ったまま、冷えた声で答えた。「愛果が危機を乗り越えるまでだ」

その言葉を残し、彼はアクセルを踏み、舞を置いて走り去った。

……

夜の冷たさは、舞の心の冷えには遠く及ばなかった。

彼女はじっと、夫が去っていった方角を見つめたまま、あの言葉をかすかに、しかし最後まで紡いだ。「京介……私は、子供を産めないの」

夜風が激しく吹き、彼女はもう一度言った——

「京介!私は、子供を産めないの!」

……

それを口にするたびに、かつて京介を愛した自分自身への容赦ない鞭打ちとなり、すべてを懸けた自分の人生への、冷酷な嘲笑のように響いた。

青春を、すべてを捧げたのに。それでも、京介にとっては、何の価値もなかった。

彼女の悲しみと苦しみは、いつも京介とは無縁だった。

ふと、舞は思った。もういい、すべてを放り出したい。この四年間、周防夫人として背負ってきた鎖を断ち切ってしまいたい。今夜が明けたら、彼女はもう周防京介の妻ではない。彼女は、ただの舞になる。

舞はうつむき、身にまとったスーツを見つめた。

ビジネスの場では、京介がそれを求めた。けれど、一歩外に出れば、彼はそれをつまらないものだと吐き捨てた。今や舞自身でさえ、この堅苦しい装いが可笑しくてたまらなかった。たった一人の男の愛を得たいがために、自分を曲げてまで迎合しようとしていたなんて。

本当に滑稽だ!

……

彩香が来たとき、

舞は上着を脱ぎ、中に着ていたシルクのブラウスのボタンをふたつ外した。淡く白い肌がわずかにのぞき、黒く長い髪が背中にさらりとかかっていた。その姿はどこか儚く、けれど抗いがたいほどの官能を湛えていた。

彼女は車体にもたれかかり、すらりと伸びた白い脚を無造作に投げ出していた。

横目で彩香を見やりながら、静かな声で尋ねた。「タバコある?一本吸いたいの」

彩香は鼻の奥がつんとした。

彼女は舞の秘書で、舞について4年、舞がどれだけ京介を愛しているかを最もよく知っていた。舞が今どれだけ惨めな状態かも彼女は目の当たりにしていた。彩香の手元にタバコはなかった。けれど、彼女は走り回って一箱のタバコを手に入れた。

舞は、今まで一度もタバコを吸ったことがなかった。

彼女はむせて涙を流した。

そのむせる煙の中で、彼女は笑いながら涙を流し、京介への愛を一片一片の恨みに変え、自分の骨髄や心臓に刺し込んでいった……

……

舞は初めて羽目を外した。

薄暗い照明、酩酊を誘う空気。すべてが、どこか退廃的だった。

彼女は酒に酔っていた。だがもう、どうでもよかった。京介の視線も、周防家の決まりも、何ひとつ――気にならなくなっていた。

舞はテーブルにうつ伏せになり、指先でグラスをコツンと叩いた。「もう一杯ちょうだい」――そんな合図だった。

バーテンダーが応えようとしたとき、長い指がそのグラスを軽く押さえ、そして清々しい姿が舞の隣に座った。

上原九郎――上原法律事務所の上原九郎だった。

男の黒い瞳には一抹の思慮深さがあり、舞をじっと見つめていた。彼女は前回よりもさらに奔放で魅惑的だった。体は柔らかく無骨にうつ伏せになり、ブラウスのボタンが二つ外れ、簡単に柔らかな春の光を覗かせていた。

舞の肌は、陶磁のように白く透き通っていた。

九郎の瞳が、静かに深い色を帯びていく。数秒の沈黙のあと、彼は自分の上着を脱ぎ、そっと舞の肩にかけた。

舞は驚き、彼を見上げた。

揺れる照明の下、彼女は、その深い瞳に吸い込まれた。まるで、底知れぬ深淵に堕ちていくようだった。

九郎の声は淡々としていたが、どこか距離を保っていた。「酔っているようだ。送ってあげる」

舞はバーカウンターに身を預けたまま、まっすぐ九郎を見つめ返す。彼は意外なものを見た。舞の目元――とくに内眼角には、普段のきっちりとした装いでは隠されていた、女としての妖艶な魅力が、わずかに滲んでいた。

舞の声は酒に揺られ、いつもの気品が崩れていた。「……あなた誰?なんで、あなたについていかなきゃいけないの?」

酔った女に、理屈は通じない。

九郎はポケットから革の財布を取り出し、中から現金の束を取り出して、そのままバーカウンターに音を立てて置いた。そして、何も言わず舞の身体を横抱きに抱き上げた。本能的に舞は抵抗しようとするが、彼はその足をしっかりと押さえ込んだ。口調は鋭く、まるで犯人を取り押さえる刑事のようだった。「明日のトップ記事になりたくないなら、今すぐここを出るんだ」

舞は男の腕の中に押し込まれた。

彼女の顔は九郎の首筋に触れており、その肌の熱さに思わず身をよじった。不快そうに顔をずらし、肩甲骨のあたりへと移す。シャツの布越しにようやく少し落ち着いたものの、それでも彼女は必死に訴えた。「九郎、私を降ろして……」

駐車場。

空一面のネオン、残るは星の光だけ。

九郎は腕の中の舞を見下ろし、その瞳にどこか奇妙な光を宿していた。舞が、自分が誰であるかをちゃんと分かっている――それがわかった瞬間だった。

だがすぐに、九郎はその胸のざわめきを押し殺す。舞は、京介の妻――軽々しく関係を持っていい相手ではなかった。

五分後、舞は車の中へと放り込まれた。

女は本革のシートに寄りかかり、軽く目を閉じた。彼女の顔には一抹の蒼白さが浮かび、眠っている姿は完全に弱々しい様子だった……

九郎は彼女に目をやりながら、ゆっくりと京介の携帯へ電話をかける。

――が、二台あるはずの携帯はどちらも電源が切れていた。

九郎は、きっと愛果と関係があるのだろうと察した。でなければ、舞がここまで酒に溺れる理由がない。彼は中川に連絡を取ろうと、携帯を持ち直したそのとき。

舞が目を覚ました。

そして、伸ばした手で九郎の携帯を叩き落とした。

「家に帰りたくない」

彼女は少し上を向き、胸が激しく上下していた。薄く柔らかいシャツの生地が彼女の体に揺れ、女の体香と混ざり合って、言葉にできないほどの誘惑を醸し出していた。

九郎の喉仏が、静かに上下する。

彼は視線をそらし、車窓の向こうに広がる寂しげな夜景を見つめた。そしてまた、隣に目を戻すと、舞は再び、眠りに落ちていた。

九郎は、しばらく黙ったまま彼女を見つめ、数秒後にそっとドアを開け、車を降りた。

夜が更けていく……

男の長身はランドローバーのボンネットに寄りかかり、黒い服が夜と一体化していた。彼はタバコを一本取り出し、唇に挟み、ライターの火をかざしてタバコに火をつけた。

淡い青い煙が立ち上り、すぐに夜風に吹き散らされ、彼の凛とした眉目を和らげた。

タバコを半分ほど吸ったあと、九郎はふと顔を巡らせ、車内の彼女をもう一度見やった。

月の光のような白い服をまとい、眉目は絵のようで、目尻には一抹の艶やかな色が漂っていた……

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1456話

    耀石グループ最上階――社長室。床まで届くほどの大きな窓には、ブラインドが下ろされていた。室内は薄暗い。章真は円形ソファに腰掛け、目の前の液晶モニターを無言で見つめていた。そこに映し出されているのは、楓ヶ丘邸の2階だった。画面は自由に切り替えられ、あらゆる角度から室内の様子を確認できる。結安は知らない。楓ヶ丘邸の2階には、至る所に隠しカメラが設置されていることを。浴室、寝室、ウォークインクローゼット――人に見られるはずのない、あらゆる場所に。結安が邸に足を踏み入れた瞬間から、章真はずっと見ていた。彼女が中へ入る姿も。荷物をまとめる姿も。あのシャツを見つめ、ぼんやりと立ち尽くす姿も。彼女は気づいていた。それなのに、まるで気に留めていないかのように、あっさりと受け入れた。自分に他の女がいるという事実を。――そうだ。彼女自身だって、藤堂駿がいるのだから。結安は長居しなかった。去るのも早かった。最初から最後まで、一度たりとも後悔する様子はなかった。それでいい。後悔などしなくていい。そもそも自分だって、もう彼女など必要としていない。そう思っているはずなのに。章真が握るワイングラスの指先は、白くなるほど強く力が込められていた。次の瞬間――彼は突然グラスを投げつけた。赤ワインの入ったグラスは、正面の壁へ激しく叩きつけられる。ガシャン……乾いた破砕音が響いた。グラスは粉々に砕け散り、濃い色の液体が壁や床へ飛び散る。それでも、章真の顔には一切の表情が浮かばなかった。その音を聞きつけ、桐生が扉を開けて入ってきた。目の前の惨状を見た瞬間、何があったのか大体察したのだろう。何も言わずに近づき、しゃがみ込んで破片を拾い始める。そして静かに報告した。「立花様がお越しです。いえ……結安さんの叔父様である立花拓凡様です。立花安奈さんもご一緒です」章真は最初、会うつもりなどなかった。一人は意気地のない男。もう一人は、ただ派手な女。そう思っていた。だが、ふと考え直す。――一度、顔を見ておくのも悪くない。しかし、部屋に入ってきたのは拓凡と安奈だけではなかった。結安の叔母、立花夫人も一緒だった。その女は一筋縄ではいかない人物だ

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1455話

    章真は主寝室のドアを開けた。リビングスペースには、結安が残していった痕跡があふれていた。彼女が寄りかかっていたクッション。彼女が使っていたクリスタルグラス。窓辺のカーテンでさえ、彼女の好みに合わせて掛け替えられたものだった。この部屋のすべてが、彼女のために整えられていた。それなのに、彼女は何のためらいもなく去っていった。身体はもう別の女に触れた。それでも――章真は、どうしても結安を忘れられなかった。彼女が残した物のせいなのか。それとも、彼女が残していった想乃の存在のせいなのか。章真は一つひとつに静かに手を触れていく。明日、結安が荷物を取りに来たら、この部屋をきれいに片づけよう。彼女の痕跡を、何もかも消してしまおう。これから先、結安という存在は、自分の人生にはもういない。最初から出会わなかったことにすればいい。想乃も――まるで石の間から突然生まれてきた子どもだったとでも思えばいい。しばらくして、章真はバスルームへ入った。シャツのボタンを一つずつ外し、そのまま脱ぎ捨てる。すると、襟元には鮮やかな口紅の跡が残っていた。章真は外の女とキスをするのは好まない。あれは、琴葉がわざとシャツに残したものだった。少しだけ躊躇したあと、彼はそのままシャツをランドリーバスケットへ放り込む。――明日、結安はここへ来る。このシャツを目にするかもしれない。それでも、隠そうとは思わなかった。いや、隠すことさえ面倒だった。もう、その必要はない。彼女は自分を選ばなかった。そして、自分ももう彼女を選ばない。シャツが床へ落ちる。スラックスも。最後に、黒いボクサーパンツも足元へ滑り落ちた。章真は裸足のままシャワールームへ入り、熱い湯を全身に浴びる。顔を上げ、目を閉じる。もう終わりにすると決めたはずなのに。どうして、ふとした瞬間に彼女のことを考えてしまうのだろう。彼女が、自分に別の女ができたと知ったら。どんな反応をするのだろう、と。――章真。彼女は、そんなこと気にも留めない。彼女の心にいるのは、藤堂だけなのだから。章真は静かに目を閉じた。――藤堂が回復したら。二人は、本当に一緒になるのだろうか。シャワーを終え、黒いシルクのパジ

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1454話

    夜になると、結安は想乃に付き添った。章真は隣の個室にいたが、それ以上彼女と顔を合わせることはなかった。その後の2日間も、二人が言葉を交わすことはほとんどなかった。結安が章真を避けていたのか、それとも章真が結安を避けていたのか――その答えは誰にも分からない。想乃が退院する日でさえ、久しぶりに顔を合わせた二人の間には、驚くほどよそよそしい空気だけが流れていた。まるで、一度も愛し合ったことなどなかったかのように。あの幸せだった日々も、幾度もの別れも、涙も――すべては幻想だったように。章真が彼女に執着したことなどなく。結安もまた、密かに彼を想い続けたことなどなかった。二人が共に歩んだ証は、想乃という存在と、世間を騒がせたあの報道だけだった。翌朝。結安は想乃の退院手続きを済ませると、小さな頭をそっと撫でた。子どもは、大人が思う以上に敏感だ。想乃はしょんぼりとうつむき、アヒルのぬいぐるみを抱きしめたまま尋ねる。「ママ……もう一緒に帰らないの?」その一言が、結安の胸を鋭く締めつけた。彼女はしゃがみ込み、想乃を優しく抱き寄せる。頬をそっと擦り寄せながら、穏やかに微笑んだ。「ママに会いたくなったら、いつでもビデオ通話してね。ママもちゃんと新しい生活が落ち着いたら、今度は想乃と一緒に暮らせるように頑張るから」――章真も、いつかは新しい家庭を築く。新しい奥さんができたら、その時こそ想乃は自分のもとへ帰って来られる。そんな淡い期待を抱いた、その瞬間だった。ふと顔を上げると、そこには章真の深い瞳があり、視線が重なった。まるで彼女の考えを見透かしたかのように、その目にはかすかな嘲りが宿っていた。だが、想乃の前だったからか、何も言わなかった。章真は歩み寄り、想乃を抱き上げると、小さな頭を優しく撫でる。「帰ろう、パパと」想乃は父親の首にぎゅっと抱きつきながら、子猫のような瞳で何度も結安を振り返る。少しずつ遠ざかっていく小さな背中。その大きな瞳には、今にもこぼれそうな涙が浮かんでいた。結安はその場に立ち尽くし、そっと顔を上へ向ける。そうしなければ、涙がこぼれてしまうから。泣いてしまうから。想乃は、自分がお腹を痛めて産んだ娘だ。愛しくないはずがない。そして、結

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1453話

    結安は黒い服に身を包んでいた。装いこそ質素だったが、その姿は以前よりもずっと痩せて見える。たった数日で、はっきりわかるほど頬がこけていた。章真は鼻で笑った。――藤堂のため、か。両親が動いたことで、藤堂の件はほぼ収束に向かっている。家もおそらく戻ってくるだろう。あいつは何一つ失わずに済む。失ったのは、自分だけだ。結安を失った。……なら、それでいい。藤堂が好きなら、あいつのところへ行けばいい。夜の闇の中、章真の瞳は氷のように冷え切っていた。結安は静かに想乃を抱き上げ、小さな体を胸に寄せると、そっと頬を寄せた。それから章真へ視線を向け、静かな声で尋ねる。「風邪?それとも、何か怖い思いをしたの?」章真は長いこと答えなかった。ただ高い位置から彼女を見下ろしている。顔を見るだけで腹が立つ。自然と脳裏によみがえるのは、彼女が床にひざまずき、両親に「章真の前からいなくなります」と涙ながらに頼んでいたあの日の姿だった。結安も彼が何を思い出しているのか察したのだろう。静かに口を開く。「章真……子どもの前にまで感情を持ち込まないで。私たちのことを、想乃に影響させないでほしいの」章真は冷たく笑った。「お前はもう出て行っただろ。そんなお前が、今さら『想乃に影響させるな』なんて言うのか?」……結安は彼から酒の匂いを感じ取った。言い争う気にはなれず、そのまま想乃を抱いたまま慣れた足取りで2階へ向かう。細い身体なのに、想乃を抱く姿は驚くほど自然だった。それだけ、この数年間、何度も何度も娘を抱きしめてきたのだろう。その光景に、章真の胸は焼けつく。愛おしい。それなのに、憎らしい。検査の結果、想乃は急性胃腸炎だった。湿度の高い気候に加え、もともと身体が弱かったため症状が出たらしい。2日ほど入院し、点滴を受ければ回復するとのことだった。点滴を終え、小さなベッドに横になった想乃は、結安の手をぎゅっと握る。「ママ……想乃のそばにいて……」結安はベッドに身を寄せ、優しく微笑んだ。「うん。ママはどこにも行かないよ。ずっと想乃のそばにいる」その言葉に想乃は安心したように笑みを浮かべる。手にはふわふわのアヒルのぬいぐるみ。しばらく遊ぶうちに、静かな寝息を立て始

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1452話

    章真は、もともと人目を惹く容姿の持ち主だった。涼しげな目元に、すっと通った鼻筋。知的で上品な雰囲気をまとっている一方で、全身から支配者特有の圧倒的な威圧感が漂っている。たった一言発しただけで、安奈は身体の力が抜けそうになり、今すぐホテルへ連れ込まれたいとさえ思ってしまう。それなのに、当の本人はここで時間を無駄にしている。安奈はグラスを手に取った。赤い唇をわずかに開き、章真を見つめながら挑発するように酒を飲み干す。空になったグラスをカウンターへ置いた。章真が顎をわずかに上げる。察しのいいバーテンダーは、すぐに店で最も高価なボトルを2本運んできた。栓を抜き、安奈の前へ2杯注ぐ。安奈はすでにほろ酔いだった。この酒がどれほど強いかも知っている。酔い潰れれば何も覚えていられないだろう。それでも彼女は上へ這い上がりたかった。どうしても章真を手に入れたかった。男も、その莫大な財産も、すべて欲しかった。今はただ、彼と一夜を共にしたかった。人は欲望を抱けば、すべてを賭けるようになる。章真の気を引くためなら、何でもする。章真は一言も発しなかった。ただ視線を向けただけだった。それだけで安奈は48度の洋酒を一本、一気に飲み干した。命こそ落とさないにしても、身体には相当こたえる量だ。飲み終えた彼女は、そのままテーブルへ突っ伏し、泥のように動かなくなった。薄暗い照明の下。胸元は大きくはだけ、肌があらわになる。章真は静かにその姿を見つめると、自分の前のグラスを手に取り、一気に飲み干した。口元には冷たい笑みが浮かんでいる。そのまま何の未練もなく立ち上がり、ジャケットを手にバーを後にした。安奈ほど魅力的な女なら、喜んで世話を焼いてくれる男など、いくらでもいるだろう。運転手はすでに外で待機していた。章真の姿を見ると、恭しく頭を下げる。「葉山様、お屋敷へお戻りになりますか」章真は後部座席へ腰を下ろし、頭を後ろへ預けて目を閉じた。酒を飲んだせいで全身が熱い。首筋にはほんのりと赤みが差している。安奈が妖艶な目で彼を狙うのも無理はない。確かに、人を惹きつけるだけの魅力はある。そうでなければ、結安が若い頃に恋をすることもなかっただろう。しばらくして、章真

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1451話

    章真は事を穏便に処理したつもりだった。それでも、結安と別れたという噂は、いつの間にか世間へ広まっていた。芸能誌には連日のように彼のゴシップが載った。今日は人気女優から告白されたという記事。明日は有名モデルと食事をしたという記事。とにかく、1日たりとも静かな日はなかった。夕暮れ時。章真のもとへ、陽白から電話がかかってきた。電話の向こうで、陽白は笑いを含んだ声を響かせる。「章真、すっかり芸能人の仲間入りだな。毎日ゴシップ誌の一面を飾ってるじゃないか。そんなに相手をしていて、身体がいくつあっても足りないだろう?」「全部でたらめだ」章真は携帯電話を握り、低い声で答えた。結安と別れてからというもの、想乃は毎日のようにママを求めて泣いている。章真は連日まっすぐ帰宅し、娘を宥めるだけで精一杯だった。ほかの女を探す気力など、あるはずもない。結安から連絡がない日が1日増えるたびに、彼女への恨みも一つずつ積み重なっていった。本当に、娘まで捨てたつもりなのだろうか。電話の向こうで、陽白が静かに笑った。「章真、久しぶりに一杯どうだ?今夜は空いてるか?」……章真は少し考え、誘いを受けることにした。酒を1杯飲むだけだ。9時には切り上げれば、帰って想乃を寝かしつけるのにも間に合う。電話を切ったあとも、章真はしばらく大きな窓の前に立ち尽くしていた。風に雲が激しく流れ、夕焼けに染まった雲が空の彼方で揺れている。頭に浮かぶのは、あの女のことばかりだった。もう3日も、何の連絡もない。本気で、すべてを断ち切ったつもりなのだろう。自分を気にかけないのは構わない。だが、想乃のことまで気にならないのか。……午後7時半。立都市でも名の知れたバー、「縁」その名に違わず、客の八割ほどは独り身だった。もちろん、陽白は例外だ。彼が章真を酒に誘ったのには、きちんとした目的があった。あの二人は別れてしまった。だが、互いに想い合っていることは、誰の目にも明らかだった。章真のやり方が、普段からいささか強引なのは事実だ。結安が受け入れられなかったのも無理はない。ここまで拗れてしまった以上、先に頭を下げるべきなのは章真だろう。そもそも、悪いのは彼なのだから。やがて

  • 私が去った後のクズ男の末路   第644話

    メディアに定義され、翔雅は真琴と「付き合っている」ことにされた。ただし大々的に発表されたわけではない。彼女を連れてイベントに出席し、事実上「彼女」として扱われただけだった。公の場では翔雅は真琴に気遣い、優しく振る舞った。だがプライベートでは冷淡で、必要以上の言葉は交わさなかった。彼の心は子どもたちへ向かっていた。礼の葬儀以来、一度も会っていない芽衣と章真。四月の終わり、夜。黒いレンジローバーが周防邸の門前に停まっていた。時刻はすでに十時近く。だが澄佳や澪安の車は現れず、代わりに現れたのは一台の黒いリムジンだった。窓が半ば降ろされ、そこから覗いたのは、なお

  • 私が去った後のクズ男の末路   第635話

    その正月を、翔雅は丸ごと真琴に費やした。一度は看護師に任せようとしたが、翔雅がいなければ真琴は薬を飲まず、時には自傷をほのめかす。結局、彼は駆けつけるしかなかった。時が経つにつれ、彼は疲れ果て、まるで運命を受け入れるような諦めを抱くようになった。松の内も明けた頃、真琴は退院した。行き先は、あのマンション。翔雅は彼女のために家政婦を一人つけてやった。だが真琴は頻繁に電話をかけてきては「一緒にご飯を」と呼びつける。精神科医の通院も必要で、常に誰かにそばにいてほしい様子だった。翔雅は真剣に、彼女を海外で静養させることを考えた。ある日の夕方、まだ六時前にマンションを訪れた。

  • 私が去った後のクズ男の末路   第511話

    夜が更けた。マンションの大きな窓辺、白いカーテンが夜風に揺れている。茉莉は琢真に抱かれて帰ってきた。少女はずっと俯いたまま、若い男の肩に顔を寄せ、甘えるように身を預けている。琢真は覗き込み、柔らかく囁いた。「まだ恥ずかしいのか」茉莉は答えず、ぎゅっと抱きついて顔を隠す。彼は低く笑い、それ以上からかうことはせず、客室のソファへと彼女をそっと降ろした。両腕でソファを支え、茉莉を背もたれとの間に閉じ込める。額から垂れた黒髪が影をつくり、幼さに艶めいた色を添えていた。「まずドレスを脱いで、化粧も落とせ。俺はキッチンで夜食を作る」そう言って彼女の細い腕を軽くつまむ。「

  • 私が去った後のクズ男の末路   第479話

    女の呼吸は乱れ、途切れ途切れだった。彼女だってひとりの女、欲を持たないわけではない。——けれど、駄目なのだ。どうしても心が許せない。それは岸本のことだけではない。茉莉のあの出来事も心に重くのしかかり、決して割り切れなかった。かつてのように情人でいることさえできない。いざという時になると、心の奥から強烈な拒絶が込み上げる。この男と関係を結ぶことなど、あり得なかった。燃え立った情は、やがて静かに冷えていった。輝は無理に迫ろうとはしなかった。先ほどの衝動は酒の勢いに任せたものに過ぎない。実際、この屋敷で本当に彼女に手を出すことなどできるはずもない。心のどこかで、岸本へ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status