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第545話

Author: 風羽
空気は重く、息が詰まるほどだった。

静香は思い上がって手を上げようとしたが、その手首は智也に強く掴まれた。

痛みに顔を歪め、涙目で叫ぶ。

「智也さん……!」

だが智也は振り返らず、視線を澄佳に注いだまま、低く告げた。

「先に出ていろ」

八年、彼女に指一本触れたことのない自分が、どうして静香に手を上げさせるものか。

不満げな顔をしながらも、智也の険しい表情に押され、静香は渋々その場を去った。

洗面所には、かつての恋人だけが残った。

智也の顔には疲労が色濃く滲み、祝福されるはずの婚約者発表の後とは思えない陰があった。

冷たいタイルに背を預けたまま、彼は懐かしむように澄佳を見つめる。

「澄佳……君にとって俺たちの八年は、そんなに無惨なものだったのか」

澄佳は鏡に映る自分を見据え、両手で洗面台を支えた。

「そうよ。他にどう呼べばいい?」

彼女の声は乾いていた。

「帰ってあなたの女に伝えなさい。違約金四十億円は返さない。返してほしければ、自分の口で『八年間はただの囲われ者でした』って公表することね」

智也は苦渋に顔を歪める。

「澄佳……もうやめよう。俺たちは綺麗に終わったはずだ」

「綺麗に終わった?」

澄佳は笑い、振り返る。瞳には氷の光が宿っていた。

「なら、あなたとその女は私の前から消えて。見るたびに吐き気がするの。八年の真心を踏みにじられたみじめさを思い知らされるから」

智也の声は震えていた。

「君にもいるんだろう?一ノ瀬翔雅と、どんな関係なんだ?」

……

澄佳は唇に赤を宿し、鏡越しに目を合わせた。

「関係?いつでも寝られる相手だよ。さっきも見たでしょ?」

立ち去ろうとした瞬間、手首を掴まれる。

反射的に、彼女の掌が智也の頬を打った。

智也は驚きに目を見開く。

「智也……私たちはもう終わったの」

そう言い捨て、扉を押し開けた。

外。

翔雅が壁にもたれ、腕を組んでいた。長い脚を無造作に投げ出し、彫りの深い顔立ちに影を落としている。

澄佳が現れると、彼はゆっくりと立ち上がり、彼女の手を取り、指を絡めた。

「場所を変えよう。食事の後は……六国スイートでどうだ?」

澄佳の心には罵声が渦巻いた。だが顔には甘い笑みを浮かべ、あっさり答える。

「お好きにどうぞ」

彼女は翔雅の腕に絡みつき、艶やかに歩き出した。二人
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