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第610話

Author: 風羽
翔雅は真琴に会うつもりも、連絡を取るつもりもなかった。

——大人だからこそ、退くべきところは退く。

……

夕暮れ。プレゼンが終わる頃。

迎えに来ていた翔雅の車に乗るため、澄佳は運転手を先に返した。

映像プラットフォームのビルを出ると、黒いベントレーが階段の前に停まっていた。

窓が下がり、端正な顔立ちが現れる。

「乗れ」

澄佳は助手席に滑り込み、バッグを探りながら言った。

「家に電話しておくわ。夕飯はいらないって。それとも、周防家に戻って食べる?偶然ばったり会ったから、子どもの顔を見に来ただけって言ってくれればいいし」

翔雅は前方を見据え、ハンドルを軽く握りながら薄く笑う。

「じゃあ昨夜のことも、お前のご両親に偶然一緒にベッドに入ったって伝えようか」

澄佳は冷ややかな目を向ける。

「あんたって、ほんとエロいね」

「ベッドの上では、澄佳もなかなかエロかったけどな」

二人はいつものように軽口を叩き合う。

その瞬間、澄佳の胸には比較がよぎった。

——かつて智也と付き合っていた頃、彼を愛しすぎて、常に譲り、気を遣ってばかりだった。

けれど翔雅との関係には、そうした遠慮がない。二人とも真っすぐな性格。時折、翔雅が昔の男を妬むことを除けば。

そんな思考の最中、路肩に白いセダンが止まっているのが目に入った。

傍らに立つのは——真琴。

電話をかけながら困惑した様子。小雨に衣服を濡らされ、いくらか心細げに見える。

澄佳が窓を下ろす。

「相沢さん、車が故障したの?」

振り向いた真琴の視線は、ゆっくり近づくベントレーへ。ほんの一瞬だけ翔雅を見やり、すぐに澄佳に笑みを向けた。

「ええ、古い車だから……時々こうして止まるの。お二人はお食事に行くのでしょう?気にしないで。私はレッカーを待ちます」

澄佳は翔雅を見て提案する。

「一緒に行きましょうよ。ちょうど細かい打ち合わせもあるし」

雨空の下、ワイパーがリズムを刻む。

翔雅は濡れそぼる女の姿を横目で捉えた。哀れに見えるが、同情は後々の厄介を招くと知っている。

「俺は……二人だけの時間がいい」

澄佳は冗談めかして笑った。

「てっきり、二人の女に囲まれる方が好みかと思ったわ」

翔雅の表情が一瞬翳る。

結局、澄佳は真琴を呼び寄せ、秘書にレッカーを手配させた。

真琴は胸いっぱいの感謝を
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