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第669話

Author: 風羽
翔雅は新婚を機に、郊外に豪奢な別荘を購入した。

その後の一か月、彼の人生は順風満帆に見えた。事業は成功を重ね、栄光に包まれていた。

さらに彼はあらゆる手を尽くし、栄光グループの株式4%を掴み取った。若くして株主に名を連ね、得意げに胸を張るその姿には、勢いしかなかった。

翔雅は澪安が悔しがるだろうと踏んでいた。

だが、その日——栄光グループの株主総会で、初めて株主として堂々と本社の門をくぐったとき、彼は澪安の姿を目にすることはできなかった。

秘書によれば、澪安はドイツ・ベルリンに滞在中だという。

ベルリン——そこには、あの人がいる。

会議室に座る翔雅の胸に、得意の笑みは浮かばなかった。

勝利は虚しく、拳を振るっても手応えはなく、まるで厚い綿に吸い込まれていくようだった。

彼の勝利を讃える者はなく、すべては独り芝居に過ぎなかった。

その日の夕刻、翔雅は久しぶりに実家を訪れた。両親の顔を見たかったのだ。

だが門は固く閉ざされ、ひっそりと静まり返っていた。

車中で長く待ち続けると、一台の白い車が出てきた。運転していたのは悠だった。

車は十数メートル先で止まり、やがてバックして翔雅の隣に並ぶ。

「翔雅さん」

悠は変わらず、昔の呼び方で声をかけた。

翔雅は降りようとしたが、悠は時間がないと手で制した。そして、両親のことも澄佳のことも周防家のことも、一切触れずに、ただ礼儀正しく言った。

「ご結婚、おめでとうございます」

その一言に、翔雅の顔が強張った。

気づけば、悠の車はもう遠ざかっていた。

翔雅はミラー越しに自分の顔を見た。

端正なはずのその顔には迷いが濃く刻まれ、新婚の甘さも、事業の昂揚感も、微塵も見当たらなかった。

「一ノ瀬様、これからどちらへ?」

運転席から問いかける声。

翔雅は一瞬ためらい、低く答えた。

「帰宅だ」

黒塗りの車は新居の別荘へと向かった。

……

暮色が濃くなる頃、黒いゲートが開き、車がゆっくりと敷地へ入った。

翔雅は車を降り、スーツのボタンを外し、上着を腕にかけて玄関へ向かう。頭の中では夕餉の献立を思い浮かべていた。

——今夜はサバの味噌煮が食べたい。

玄関では使用人が迎え、上着を受け取った。

「奥様は麻雀に出かけられました。今夜は戻られないとのことで……旦那様は簡単に済ませてくださいと」

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