Masuk駿が問いかけていたのは――十八歳だった頃の結安のことだった。抗う術すら持たなかった、あの頃の結安。結安の唇が小さく震える。「……違う」「嘘だ。結安、お前は嘘をついてる。違うはずがない」その言葉に、彼女の唇はさらに強く震えた。結安は足早に歩き出す。十八歳だった自分が、どれほど愚かだったのか。自分を追い詰めた相手を好きになってしまったことなど、認めたくなかった。歩幅はどんどん速くなる。その後ろを駿もついてくる。けれど追いつこうとはしない。近すぎず、遠すぎず。ただ静かに、彼女を見守るようについて歩いていた。……マンションへ戻ると、結安は避妊薬を飲んだ。軟膏を塗る間もなく、郊外でチョコの世話をしてくれている女性から電話が入る。「チョコちゃんが熱を出しています。かなり高熱です」結安は顔色を変え、慌てて服を着替えて外へ飛び出した。車はまだショッピングモールの駐車場に置いたまま。タクシーで向かうしかない。だが、深夜二時。そんな時間に、車はなかなかつかまらない。途方に暮れていた、そのときだった。白いカイエンが静かに目の前で止まる。窓がゆっくり下がる。運転席には、無表情の駿がいた。顎で助手席を示しながら言う。「乗れ」結安は少しだけためらった。それでも黙って助手席へ乗り込む。何も話さないまま、車は郊外へ向かって走り出した。胸の鼓動が速くなる。嫌な予感が胸をかすめる。そして案の定、駿はごく自然な口調で尋ねた。「子ども、熱があるんだな?」結安は息を呑んだ。――駿は知っていたの?駿はハンドルを握る手に力を込める。白く浮き出た指の関節。口元には、自嘲めいた薄い笑みが浮かんでいた。「ずっと、お前を見てた。二年くらい前だったかな。偶然、お前に子どもがいることを知った。結安、お前は大したもんだよ。たった一人で子どもを産んで育てながら、その父親とは、まるでドラマみたいな恋愛ごっこを続けてたんだから。でも、その物語のヒロインは、お前一人じゃなかった。あの人には、もう別の相手がいる。だから、あんなに泣いてたんだろ?どうして言わない?二人には子どもがいるって」結安は静かに窓の外へ視線を向けた。以前は、言えなかった。
通話を切った途端、章真はもう何一つ遠慮しなかった。容赦なく、何度も彼女を求める。結安は抗う術もなく、ただ翻弄されていく。どれほど時間が経ったのか分からない。ようやくすべてが終わる頃には、彼女はベッドへうつ伏せになったまま、指一本動かすことさえ難しかった。全身が重く、ひどく疲れ切っている。それでも薬だけは飲まなければならない。かつて抱いた淡い恋心を悼む余裕など、もうどこにもなかった。そんな感情は許されるものではない。まして彼には、もう新しい「立花結安」がいる。相手が誰なのか尋ねようとも思わない。そんな資格は、自分にはないのだから。今の自分は章真が金で買った女。ただ、それだけだった。俗っぽくて、あまりにも分かりやすい関係。章真はまだベッドの上にいた。ヘッドボードにもたれ、煙草をくゆらせながら、満ち足りたように紫煙を吐く。彼女の身体も気持ちも、気遣う様子は一切ない。煙にむせて結安が小さく咳き込むと、耳元で皮肉げな声が落ちてきた。「気分でも悪いか?」「……いいえ」「そうか?」「私は……自分の立場くらい、分かっていますから」結安は静かに答えると、ゆっくり身を起こした。少し湿った黒髪を指で整え、小さく尋ねる。「もう帰ってもいいですか?薬を買いに行きたいんです。あなたも……産まれるのは望んでいないでしょう?」章真はすぐには答えなかった。ただ、彼女の黒髪をひと房すくい上げる。――本当に、美しい。二十歳の美月でさえ、彼女には敵わない。それでも。憎い。すべてを壊したのは、この女だ。彼女さえいなければ、自分たちは今も何も変わらず一緒にいられた。章真は煙草を揉み消し、口元に薄い笑みを浮かべた。「できたなら、産めばいい」本気で言ったわけではない。ただ夜の戯れに口にした、軽い冗談。それでも、その一言は結安の胸を深く刺した。彼女もまた、小さく笑う。――昔の私は、本当に幼かった。心が弱かった。あんな状況で、この人を好きになってしまうなんて。彼が自分を恨んでいることくらい分かっている。何も告げずに姿を消したのだから。でも、あのまま彼と一緒にいることなどできるはずがなかった。彼の愛も、憎しみも。どちらも、自分には
章真はダークカラーのソファにもたれ、指先には一本の煙草を挟んでいた。だが、火はつけていない。クリスタルシャンデリアの眩い光の下、彼は結安をじっと見据えていた。バスローブに包まれたその身体は今なお華奢でしなやかだった。しかし四年前とは、どこか違う。――何人もの男を知ったからなのか。そんな考えが胸を蝕む。自堕落な生き方を嫌悪しながらも、彼女を求める欲望だけはどうしても抑えきれない。章真は隣の席を軽く叩いた。それは、あまりにも侮蔑的な仕草だった。結安は逆らわなかった。静かにソファの前まで歩み寄ると、その場に膝をつき、少しだけ身を乗り出して彼の口元へ唇を寄せる。――昔、彼は女から甘えてこられるのが好きだった。少しでも機嫌が良くなれば、自分も少しは楽になれる。そう思っただけだった。だが、章真は微動だにしない。冷え切った眼差しで彼女を見下ろし、片手で顎を掴んでそれ以上近づけさせなかった。その口から零れた声もまた、氷のように冷たい。「そういう手練手管は、どこで覚えた?他の男にも、猫みたいに甘えて誘っていたのか?」結安は唇を噛んだ。バスローブの前をぎゅっと握りしめ、小さな声で呟く。「機嫌、悪いんでしょう?今日は……やめて、また今度にしよう?」……だが、彼女に拒む資格など最初からなかった。章真の苛立ちは収まるどころか、さらに募っていく。思いやりの欠片もない、荒々しい振る舞い。その最中、結安は震える手で彼の腕を強く掴み、薄く涙の滲む瞳で訴えた。「それを使って。私……妊娠しちゃダメなの」ここまで来てなお躊躇う彼女に、章真の怒りは頂点に達する。結安は必死に耐えながらも、とうとう堪えきれず涙を零した。彼女は彼の首へ腕を回し、その首筋へ頬を押し当てる。涙が静かに彼の肌を濡らしていく。決して心地よいものではない。それでも彼女は泣くことしかできず、最後まで素直には従えなかった。章真は不機嫌そうに顔を逸らし、低く問いかける。「四十億円払った相手に、まだ『嫌だ』なんて言えると思ってるのか?他の男にも、そんな条件をつけていたのか?結安――俺がまだ、お前を甘やかしてくれると思っていたのか?」その言葉は、あまりにも残酷だった。結安の細い腕から、少しずつ力
「章真……」結安の顔から、さっと血の気が引いた。もし今の着信がチョコだったら――娘の存在を隠していたことが、すべて章真に知られてしまう。そうなれば、もう二度と逃げることなどできない。……着信音は鳴り続けている。章真はスマートフォンを握ったまま結安を見つめ、ゆっくりと画面へ視線を落とした。表示されていた名前は――【林監督】章真は無言で通話を切ると、そのまま電源まで落とした。そして結安を見据える。「林からの電話で、そこまで慌てるのか。俺と一緒にいることを知られたくないのか?それとも、このあと俺と一夜を過ごすことを知られたくないのか?林の前では、いつまでも清純な女でいたいってわけだ」結安の鼓動が激しく跳ねる。――助かった。全身から力が抜けそうになる。その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、涙がこぼれた。あまりにも人生が苦しかった。苦しい時期は、もう終わったと思っていた。無名の芸能事務所に入り、三流タレントとして必死に働き、少しずつ生活を立て直してきた。本当は医師になりたかった。けれど学歴も資格もない。自分には何もない。残されたのは、この容姿だけだった。それを武器に稼ぐしかない。守らなければならない娘がいるから。すべて計画どおりに進んでいたはずだった。それなのに――また章真と再会してしまった。今はまだ逃げられない。お金のためではない。ただ、章真がまだ自分を手放そうとしないから。涙を浮かべたまま、結安は静かに問いかけた。「……私がどうして芸能界に入ったか、知ってる?お金になるから。高校しか出ていない女でも、生きていける世界だったから。高校卒業の女に何ができる?食器でも洗って暮らせっていうの?監督に取り入って、有力者に気に入られて……そうやって生きるしかなかった。章真だって、その一人じゃない。何を偉そうにしてるの?結局、身体を求めているだけでしょう。私の身体は私のもの。誰の所有物でもない。もし独り占めしたいなら――いいわ。その代わり、お金を払って。十分なお金をくれるなら、あなただけを相手にする。大人の世界なんて、そういうものでしょう。そういう生き方を教えたのは……章真、あなたよ」……章真
車内には重苦しい沈黙が流れていた。結安は章真に行き先を尋ねなかった。どうせ向かう先は一つしかない。身体を重ねるだけなら、場所などどこでも同じだった。今日はもう疲れ切っている。本当なら買い物を済ませて郊外へ帰り、チョコと過ごすつもりだった。けれど章真に振り回され、この夜はもう帰れそうになかった。信号待ちで車が止まる。章真は煙草を一本取り出して火をつけると、煙を吐きながら横目で結安を見た。「最近はどうなんだ。林とできてるのか?もう寝たのか?脚本の打ち合わせなんて口実を作って、ホテルの部屋に行くなんて、この業界じゃ珍しくもないだろ」結安はゆっくりと目を開いた。そして静かに問い返す。「章真は何を聞きたいの?私が林さんと寝たと言ってほしいの?それとも、寝てないと言ってほしいの?もし寝たって言ったら嫌になる?そんなに気になるなら、お金を積んで清純派の若い女優でも抱けばいいじゃない。きっと綺麗なままよ。昔の私みたいに」……章真は眉をひそめた。だが次の瞬間、ある少女の姿が頭をよぎる。海外で囲んでいる、あの子だ。もし結安が何事もなく自分のもとへ戻ってきていたなら、あの子との関係はそこで終わらせていただろう。学費だけは最後まで面倒を見る。それ以上会うこともない。そう思っていた。だが今の結安では違う。章真はあの少女に本気ではない。二、三か月に一度顔を見に行くだけ。身体の関係もない。ただ、心を誤魔化すための拠り所だった。もちろん、それを結安に話すつもりはない。話す価値もない。章真は煙をくゆらせながら結安を見つめる。一瞬だけ――本当に遊び相手の女を見るような目になった。心の中にいるのは別の誰か。それでも身体だけは正直だった。欲しいのは、結局結安だけだと。芽衣に守られた結安をここへ連れて来るために、あれこれ手を尽くした。三浦先生のためなら、結安は素直に自分のもとへ来る。抱かれても芽衣には告げ口をしない。章真は昔から目的のためなら手段を選ばない男だった。罪悪感などない。あるとすれば――愛しているからこそ憎い、その矛盾だけだった。……車は高級マンションの前で止まった。立都市でも屈指の一等地。最上階、二十八階。
章真の冷酷さを誰よりも痛いほど知っているのは結安だった。三浦先生に近づいたのも、自分を揺さぶるためだ。――結安が見過ごせないと分かっていて。そして、その読みは当たっていた。自分のせいで、結婚を控えた何も知らない女性まで巻き込まれる。そんなことだけは耐えられなかった。三浦先生はまだ結安の存在に気づいていない。……結安は近くの化粧室へ入り、ゆっくりと手を洗う。胸の奥が重苦しく締めつけられ、息が詰まりそうだった。ふいに、一つの影が隣へ立つ。章真だった。壁にもたれながら金色のライターを指先で弄び、静かに結安を見つめている。まるで自分だけの所有物を見るような眼差し。そこには愛情も宿っている。だが同時に、結安の「穢れ」を受け入れられない深い嫌悪も滲んでいた。結安は洗面台に手を添えたまま、静かに口を開く。「三浦先生は……本当に純粋な人なの。ただ、あなたを好きになっただけ。何も悪いことなんてしてない」……章真は小さく笑った。「そうか?でも、もし俺があの人と寝たら、きっと喜ぶんじゃないか。この数年も、年賀の挨拶だとか、たまに連絡をくれていた。俺はその想いに応えてやるだけだ。もっとも、結安――お前の純情な先生は、一度抱かれたら付き合っていると思い込むだろう。だが、俺は結婚なんてする気はない。そのとき傷つこうが、俺の知ったことじゃない」眩しい照明の下で、結安は力が抜けていくのを感じた。芽衣は自分という存在を守ってくれる。けれど、自分の人生までは守れない。章真の卑劣さは結安の想像をはるかに超えていた。視線を落とし、水を流しながら静かに言う。「……三浦先生を巻き込まないで。あの人はあなたの遊び相手じゃない。章真は女と寝たいだけなんでしょう?だったら……私が相手になる。だから今、この場で先生に連絡して。別れるって伝えて。あの人を、これ以上傷つけないで」そのメッセージはきっと三浦先生を傷つける。それでも――あとで人生を壊されるよりは、ずっとましだった。結安は章真という男を知り尽くしている。目的を果たした章真はゆっくり歩み寄ると、背後から細い腰を抱き寄せた。顎を結安の髪へ優しく擦り寄せながら、低く囁く。「数年見ない間に、ずいぶん賢く
夕梨が病室を出てくると、朝倉家の面々が一斉に彼女を出迎えた。紀代は、涙ぐみながら尋ねた。「どうだった?寒笙は何か食べてくれそう?」夕梨は淡い笑みを浮かべた。「ええ、もう大丈夫です」朝倉家の人々は感謝の言葉を口にし、仁政もまた、惜しみない称賛を送った。仁政は昔から夕梨のことを気に入っていた。だからこそ、今でも未練を抱いているのだ。寒真があの女優と別れ、夕梨と寄りを戻せばいい、あの二人はあんなにお似合いだったのに、別れてしまうなんてあまりに惜しい――と。夕梨は彼らの心中をおおよそ察していたが、静かに首を横に振った。「兄と約束しているんです。三十分で戻ると言いまし
夕方になり、夕梨は目を覚ました。意識が戻った途端、腰はだるく、全身がばらばらになったように痛む。……彼女はゆっくりと寝返りを打ち、柔らかなベッドに仰向けになって、手で照明の光を遮った。けれどしばらくすると、じっとしていられず、布団を跳ねのけ、裸足のまま分厚いウールのカーペットを踏みしめ、寝室の大きな窓の前へ行く。手を伸ばしてカーテンを引くと、目に飛び込んできたのはスイスのユングフラウだ。連なる雪山。山頂には白い雪が厚く積もり、麓には濃く鮮やかな緑が広がっている。――息を呑むほど、美しい。胸が弾み、黒い男物のシャツ一枚を身にまとったまま、彼女はソファの背に身を
寒真ははっきりと息を呑んだ。次の瞬間、腕の中の女をきつく抱き寄せ、顔を伏せて熱い口付けを落とした。絡みあうようなその最中、喉を震わせた掠れた声で言った――「寒笙が生きていた。戻ってきたんだ!一緒に立都市へ帰ろう!今すぐだ。一刻も早く、チャーター機で帰るぞ」……男はあまりにも昂ぶっていた。そのため、腕の中の人の異変に気づかなかった。抑えきれない歓喜。熱を帯びすぎた感情を、どこかで発散させなければならなかった。光と影が幾重にも重なり、理性は乱れていく。……二時間後、彼らは立都市行きの専用機の中にいた。四月を目前にした陽気だというのに、夕梨の手足は氷のよう
夕梨が目を覚ましたのは、翌日の早朝だった。右手の小指に、鈍い痛みが走っている。そして下腹部には、それ以上に重く、無視することのできない密やかな痛みが居座っていた。天井を仰ぎ見たまま、夕梨は悟った。あの子はいなくなってしまったのだと。熱い涙が次々と溢れ出したが、拭おうともしなかった。子どもを失ったのだ、声を上げて泣くことくらい許されるはずだ。最初は静かな、嗚咽のような泣き声だった。それが次第に声を放つようになり、最後には胸を掻きむしるような慟哭へと変わった。彼女が失ったのは、単なる一つの命ではない。一つの愛、そのすべてだった。終わったのだ。寒真との関係は、これ以上ない







