تسجيل الدخول昼下がり。黒塗りのロールス・ロイス・ファントムが楓ヶ丘邸へと滑り込み、車が停まるや、長身で端整な男が後部座席から降り立ち、そのままドアを閉めた。深まる秋、楓の葉はすっかり色づいている。章真が足早に石段を上っていると、ちょうど蝶野が通りかかった。彼女はごく自然な口調で声をかける。「結安、病院へ行ってきたんですけど、戻ってからずっと2階で休んでいるんです。葉山様、一度様子を見てあげてください。どこか具合が悪いんじゃないでしょうか。今は何かと忙しい時代ですし、若い女性でもちょっとした不調を抱えている方は多いですからね。かといって病院で検査しても、これといった原因が見つからないこともありますし。そういうときこそ、そばにいる人が気遣ってあげないと」章真はゆっくりとスーツのボタンを外した。珍しく冗談めかして言う。「蝶野さんも更年期なんじゃないか?いつもよりずいぶん口数が多い」……蝶野は思わず言い返した。「結安と想乃ちゃんがいるからですよ。二人が来てから家の中が明るくなって、自然と話すことも増えたんです。前なんて、家じゅうしーんとしてて、物音ひとつしなかったじゃないですか」章真は玄関の奥へ歩きながら、さらりと言った。「蝶野さんの独り言は聞こえてたけどな」蝶野はその場で固まった。章真はそんな彼女をよそに、靴も履き替えないまま2階へ向かう。その途中で振り返ることもなく言いつけた。「30分後に食事にする。あっさりしたものを中心に、身体にいいものを作ってくれ。結安が妊娠した」今度こそ、蝶野は完全に呆然とした。結安が……妊娠?……2階まで上がると、章真の足取りは自然とゆっくりになった。まるで、長く離れていた故郷を目前にして、かえって足がすくむような心地だった。初めての子でもないというのに。――自分でも呆れるほど、緊張している。寝室のドアをそっと押し開けると、結安はリビングスペースのソファに腰掛け、本を読んでいた。てっきり妊娠や育児に関する本かと思ったが、近づいてみれば台本だった。隣に腰を下ろした章真は、無意識のうちに声までひどく柔らかくなっていた。「仕事はしばらく全部休むんじゃなかったのか?どうしてまた台本なんて読んでる?」結安はごく自然に答えた。「林さんから届いたの。断りにくくて。
二人は相変わらず、同じベッドで眠っていた。けれど、その夜は、どちらもほとんど眠れなかった。章真の身体は熱を帯びていた。けれど、必死に自分を抑え、彼女に触れようとはしない。結安には分かっていた。彼がどれほど我慢しているのか。けれど、彼女のほうから求めることもなかった。ただ枕に寄りかかり、何も言わず、夜が明けるのを待っていた。やがて、空が少しずつ白み始める頃。二人はようやく、深い眠りへ落ちていった。それから、二人は一緒に暮らしていった。表面上は穏やかな日々だった。周囲から見れば、二人は誰もが羨むような夫婦に見えた。想乃は相変わらず可愛らしく、二人はよく一緒に澄佳と翔雅のもとへ食事に行った。時には周防本邸にも顔を出す。誰が見ても、二人の関係はもう決まったように思えた。けれど、本当のことを知っているのは、二人だけだった。一緒にいる時間はどこかぎこちなかった。あの時、想乃の病気を知った不安と恐怖の中で、感情に流されるように身体を重ねた。けれど。その後、どれほど互いに欲求があったとしても、二人が一線を越えることはなかった。いつも、二人の間には見えない壁があった。それから11月下旬。結安は自分の身体の変化に気づいた。生理予定日を数えてみる。もう30日以上、来ていない。もしかすると。そう思った。若い身体は、妊娠しやすい。想乃を授かった時も、そうだった。結安は、すぐには章真へ伝えなかった。朝、想乃を送り出した後。一人で病院へ向かった。そして、約30分後、彼女は結果を受け取った。妊娠5週。お腹の中に、新しい命が宿っていた。彼女と章真の子ども。結安は病院のベンチに座り、行き交う妊婦たちを静かに眺めていた。その多くは夫と一緒だった。幸せそうに笑いながら、これから生まれてくる命を待っている。結安は自然と視線を落とし、自分のお腹へそっと手を添えた。自分と章真の未来がどうなるのか。彼女にはまだ分からない。けれど。章真はきっと、良い父親になる。そう思った。結安は長く病院に留まらなかった。帰ろうとした時、1階のロビー近くで、女性の声が聞こえた。「嘉乃、これから葉山さんに会ったら、ちゃんとご挨拶するのよ。葉山
章真は娘をしっかりと受け止めた。秋の夜は少し冷えていた。けれど、想乃の身体は驚くほど温かく、柔らかかった。その小さな身体から伝わる温もりは、彼に今までとは違う感覚を与えていた。そしてふと、病院で出会ったあの少女のことを思い出す。あまりにも弱々しく、痩せ細っていた小さな身体。それに比べて、自分の想乃は健康で、元気に笑っている。その事実が、心の底から嬉しかった。想乃はまるで小さな猫のように、父親の胸元で甘えるように身体を擦り寄せている。章真は片手で娘を抱き上げたまま、車の中へ手を伸ばし、一束の白い薔薇を取り出した。――結安へ贈るための花だった。心の中はまだ整理できていない。けれど。それでも彼は、結安に少しでも幸せな気持ちを届けたかった。車のドアを閉め、振り返る。すると、結安が階段の前に立っていた。深い藍色の夕暮れの光が彼女の顔を照らし、その表情は言葉にできないほど柔らかかった。その姿を見た瞬間。章真の胸は自然と締めつけられる。彼は歩み寄り、白薔薇を彼女へ差し出した。そして少し笑って尋ねる。「ウェディングドレス、届いた?気に入った?」結安は花を受け取る。そして小さく微笑んだ。「……綺麗ね」章真は娘を抱いたまま、彼女と一緒に屋敷へ入る。「海外のデザイナーに頼んだんだ。俺も少しデザインに関わった。お前が気に入ってくれたなら、それでいい」玄関まで来ると、想乃がすぐに気づいた。「パパ、お靴替える」小さな手でスリッパを持ってくる。章真は娘を抱き上げたまま靴を履き替え、それから小さな鼻をつまんだ。その時。視線の端に、結安の姿が映る。彼女は花瓶を探し、白薔薇を生けていた。どこに置くのが一番綺麗か、何度か場所を変えながら丁寧に飾っている。その自然な仕草を見ていると。章真の視線はどうしても彼女から離れなかった。そこにあるのは、ただの愛情だけではない。深い慈しみだった。その時。蝶野がやって来る。「葉山さん、お食事の準備ができましたよ。今日もいつもの献立です。それから想乃ちゃんには豚の血のスープを作りました。あとで少しでも食べてもらおうと思って。豚の血は身体にいいですからね。栄養がありますし」……章真はまだ結安を見て
章真はスマートフォンを握ったまま、ビルの最上階に立っていた。電話の向こうから聞こえてくる言葉が、あまりにも現実味を持たなかった。まるで遠い場所から響いてくる声のように、次第に輪郭を失っていく。しばらくして、彼は低く静かに答えた。「……分かった」そして電話を切る。章真はその場に立ったまま、深く考え込んだ。運命というものは、どうしてこうも残酷で、そして皮肉なのだろう。もう一生、結安を取り戻すことはできないと思っていた。その時、想乃が病院で誤診された。その結果、結安は自分のもとへ戻ってきた。二人は再び身体を重ね。そして、彼女は自分との結婚を受け入れようとしている。まるで人生が、すべて良い方向へ向かい始めたようだった。なのに、今になって神は、再び運命を元の位置へ戻そうとしている。もう一度、彼を試している。言うべきか。言わないべきか。伝えれば、この結婚はなくなる。黙っていれば、彼は結安を、そして夫婦という未来を手に入れられる。章真の中で、二つの思いが激しくぶつかり合っていた。けれど、心の奥底では、確かな安堵もあった。想乃は元気だった。健康で何の病気でもなかった。それだけで、本来なら十分すぎるほど嬉しいことだった。わずか数分の間に、章真の心は複雑な感情で満たされた。その時。「葉山さん?」桐生の戸惑った声が聞こえる。章真は少し掠れた声で言った。「……先に出てくれ」桐生は静かに部屋を出ていった。章真はデスクへ戻り、煙草の箱を手に取る。一本取り出しかけた。けれど。しばらく見つめた後、また箱へ戻した。そしてコートを手に取り、オフィスを出る。予定より早い退勤だった。外にいた桐生は、ただ上司の機嫌が良いのだと思った。何しろ、もうすぐ結婚するのだから。……一階へ降りた章真は、車へ乗り込んだ。ハンドルを握ったまま。長い間、動かなかった。やがてエンジンをかける。しかし、向かった先は楓ヶ丘邸ではなかった。立都市小児病院だった。病院へ到着すると、院側は大きく動揺した。まさか、責任追及のために来たのではないかと思ったのだ。当然だった。病院が診断を間違えた相手は、耀石グループの社長なのだから。この件は決
その夜。章真は想乃のそばで過ごしていた。結安は主寝室で荷物を整理していた。一着ずつ衣服をクローゼットへ掛けていくうちに、少しずつ空間が埋まっていく。やがて彼女はゆっくり後ろへ下がり、いっぱいになった衣装棚をぼんやりと見つめていた。結安はまだ章真に返事をしていない。けれど、自分でも分かっていた。もう、心の中では受け入れているのだと。彼女は、何もかもを犠牲にできるほど聖人ではない。ただ現実を見て、選んだだけだった。章真と一緒に暮らし、夫婦として生活する。けれど、それはきっと普通の夫婦とは違う。最初のうちは、彼も新鮮さを感じるだろう。穏やかに暮らし、もしかすると幸せだと思うかもしれない。でも、時間が経てば。彼はきっと、自分からの愛情を感じられなくなる。そして、満たされなくなれば、また外へ向かう。平穏が壊れた後の結末は、おそらく以前と同じになる。輝く水晶の照明の下。結安はゆっくりと視線を落とした。瞳には、どこか失望の色が浮かんでいる。けれど同時に。そこには、新しく生き直そうとする気配もあった。昔の自分とは違う。あの頃より、ずっと強くなった。その時、主寝室の扉が開いた。入ってきたのは章真だった。彼は彼女の俯いた姿を見つめる。結安が何を考えているのか、分かっていた。彼女がここへ戻ってきた理由も。すべては想乃のためなのだ。きっと今の彼女の中には、もう自分への愛は残っていないのだろう。マンションで身体を重ねたとしても。そこに残っているのは、ただ女性としての感情だけなのかもしれない。章真は彼女の前へ歩み寄り、両肩へ手を置いた。何も言わず。ただ静かに彼女を抱きしめる。二人きりの静かな時間。この瞬間だけは、まだ恋人同士だった。たとえ何度も激しい感情をぶつけ合った後だとしても。今の二人はただの男女ではなく、子どものことを心配する一組の親だった。しばらくして、結安が小さな声で言う。「もうすぐ片付くから」章真は彼女を見つめた。目尻に残る赤みが、彼女の悲しみを物語っていた。想乃のため。そして、もしかすると、自分自身のためにも。……夜。眠る時間になると、結安は布団を引き寄せ、身体をまっすぐに伸ばして横になった。
先ほどの激しい交わりのせいか。帰りの車内では、二人の間に何とも言えない空気が流れていた。結安は何も言わず、ずっと黙ったまま窓の外を見ている。ただ、横顔を見れば、首筋にはっきりと赤紫色の痕が残っていた。あまりにも激しかったのだろう、隠しきれないほど目立っている。章真も決して余裕があるわけではなかった。背中には、彼女が残した爪痕がいくつも残っている。乱れて重なった痕跡を見れば、二人がどれほど感情を抑えられなかったのか分かるほどだった。章真はしばらく彼女の横顔を見つめ、喉を上下させた後、静かに尋ねた。「戻ったら、主寝室にする?それとも東側の部屋にする?」結安は少し考えてから答えた。「……主寝室でいい。想乃に気づかれたくないから」少なくとも、妊娠するまでは。娘に余計なことを悟らせたくなかった。章真は頷いた。「そうだな。そのほうがいい」結局のところ、やはり気まずさは拭えなかった。今まで、こんなふうになったことなどなかった。いつも一方的に理性を失っていたのは章真のほうだった。結安がここまで激しく感情をさらけ出したことは、一度もなかった。……楓ヶ丘邸へ向かう道中。章真は車の窓を少し開けた。そうでもしなければ、まだ身体の熱が収まらなかった。彼は昔から欲望が強い男だった。長く我慢している間は抑えられるが、一度溜め込んだものが解放されると、簡単には止まれない。けれど、結安は何かをする必要すらなかった。ただ彼のそばにいる、それだけで章真にとっては何よりの媚薬だった。それでも、章真は何も見せず、いつもの冷静な表情を保っていた。30分後。ロールス・ロイス・ファントムは、ゆっくりと楓ヶ丘邸へ入っていった。屋敷全体には、重い空気が漂っていた。使用人たちは皆、想乃が白血病だと知っている。だからこそ、いつも以上に慎重に、そして優しく彼女を見守っていた。車が停まると、章真は先に降り、後部トランクから結安の荷物を取り出した。そこへ蝶野が迎えに出てくる。声を落として言った。「先ほど目を覚ましたんですけどね……学校に行きたいって騒いでいて、どうしたらいいのか分からなくて」蝶野は人生経験のある女性だった。章真と結安の距離感を見れば、すぐに何かを察した。男女が深く結ばれ
美羽は二階のバルコニーに立つ琢真を見つけると、ふわふわの声で叫んだ。「お兄ちゃん、早く降りてきて!きれいな灯りがいっぱいだよ!」その声に釣られるように、輝が上を見上げる。老いも若きも、二人の男の視線が空中でぶつかり合った。琢真は真っ直ぐに彼を見つめ、一歩も退かない。しばし視線が絡み合い、やがて茉莉の声が響いた。「お兄ちゃん!パパが線香花火いっぱい買ってきたよ!」琢真の瞳がわずかに揺らぎ、やっと返事をした。「今行く」部屋に戻り、ロングダウンを羽織り、クローゼットから羊毛のマフラーを二本取り出す。階下に降りると、妹たちをひとりずつ捕まえ、丁寧に首元へ巻いてや
輝が英国へ発ってから、もう一ヶ月が経っていた。年の瀬が迫っても、帰国の知らせはない。瑠璃は迷いながらも、何度か電話をかけてみた。だが繋がらず、代わりに会合の席で秘書の白川と顔を合わせた。「帰ってくるのは……年明け半ば頃ですね」あと半月——細かく詮索するのも気が引けて、瑠璃は軽く世間話をしてその場を離れた。会所の廊下は明るく、煌びやかな光に包まれていた。背後で、白川がふっとため息を洩らしたのに、瑠璃は気づかなかった。……個室に戻ると、場の空気はちょうど良く温まっており、岸本が二人の投資家を上手くもてなしてくれていた。酒はすべて岸本が引き受けている。「いやぁ
マグノリア映画祭が、予定通り開催された。予想通り会場は央筑ホテルで、その夜、ホテルには名士が集い、星々のように輝いていた。今夜は、夕梨が立都市の央筑ホテルに勤務する最後の夜だった。彼女は深夜二十四時のフライトを予約していた。米国へ向かい、二年間の研修に入るのだ。六年前、彼女が央筑ホテルに入ったのは寒笙のためだった。しかし数年が経ち、彼女はこの場所を深く愛するようになっていた。だから今夜、彼女は自分の数年間のキャリアに完璧な終止符を打ちたかった。ホテルの前庭には、百メートルのレッドカーペットが敷かれた。夕梨は主催ホテルの責任者として、来賓を出迎えていた。黒のスーツに身
結局のところ、翠乃は男に折れた。車は朝倉家の本邸へと入る。翠乃が身にまとっているのは、寒笙がいつも着ているアンゴラレッドのセーター。下のパンツも彼のものだった。毛皮を除けば、全身が寒笙の服である。父の晴臣が自ら魚を提げて出迎えた。翠乃の格好を見るなり、顔を真っ赤にして息子を叱る。「家がそんなに貧乏か?翠乃に服一着買う金も出せんのか」彼は懐から一枚のカードを取り出し、翠乃に差し出した。「イギリスでちゃんと揃えなさい。母さんと時間を作って様子を見に行く。こんな馬鹿の言うことは聞くな、絶対に甘やかすなよ」寒笙は上品に微笑んだ。「全部、僕が翠乃に譲ってるだけだ」







