INICIAR SESIÓN慕美はワインを少し飲んでいた。舞が澪安に言う。「送ってあげて」外に出ると、空気はすでに秋色を帯び、夜風にはひんやりとした湿り気が混ざっていた。エレベーターを降り、地下駐車場へ向かう途中、慕美は小さく言う。「送らなくていいわ。代行呼ぶから」澪安は迷いなくジャケットを脱ぎ、そっと彼女の肩に掛けた。そして、低い声で囁く。「目の前に俺がいるのに、使わない理由ある?しかも無料」慕美は苦笑する。その意味を、もう誤魔化す気はなかった。「怖いの。使ったら、代償が高すぎる」その瞬間、空気に淡い痛みが広がった。かつて愛し合った二人。それだけで、言葉より強い余韻が生まれる。今夜、慕美は新しい縁を作り、実績を手にした。かつて望んだ世界に、ようやく立てた。――自由に。――対等に。――媚びず、怯えず。けれど、それを手にした時には、もう二人はあの頃ではなくなっていた。慕美は酔いに染まった頬をほんのり赤くし、鼻先まで赤い。その姿は、一瞬、昔の少女のままだった。酒は、鎖を緩める。だからこそ、彼女は素直に言えた。「ねぇ澪安。私だってね……恨んだことがあるの。私の生まれだって悪くなかったのに、気づけばあなたの隣に立つ資格がなくなってた。どうしてって何度も思った。最後は受け入れるしかなかった。でも、受け入れる過程は地獄だった。空港で配信したあの日、私は決めたの。もう意地や勢いで恋なんてしない。もし誰かを好きになるなら、まず自分を量る。その人と並ぶ資格があるのか。好きになっていい立場なのか。そうやって確認してからじゃないと、進まないって」その言葉を、澪安は知っていた。彼女が失った自尊心と、取り戻すまでの痛みも。でも、苦しかったのは彼女だけではない。五年。彼もまた、自分では戻せない時間の中で彷徨っていた。「わかってるよ」その声は驚くほど優しかった。責めず、主張せず、ただ受け止める声。二人は車に乗り込む。座席に座った瞬間、慕美は気づく。――この車、いつものじゃない。ロールスロイス・ファントム。しかも、チャイルドシートがない方。同じ車が、きっと何台もある。エンジンが静かに始動する。走り出してからしばらく、二人は一言も発しなかった。三十分後、車は
こんな告白、女であれば誰だって心が揺れる。まして相手が立都市で誰もが振り返る男ならなおさらだ。けれど慕美は動じなかった。いや、正しく言うなら、怖かった。かつてあれほど愛し合ったのに、最後は粉々に砕け散った。残ったのは、夢のあとと深いため息だけ。エレベーターが小さく揺れる。三階に到着した。慕美はかすかに肩を動かし、小声で告げた。「三階、着いた」しかし澪安は動かない。中の人々が降りきるまで、少しもその腕を緩めなかった。慕美が手を放そうとした瞬間、彼の手が腰元をそっと支え、低く、けれど切実に囁いた。「庄司允久にだけチャンスを与えて、俺には一切与えない――そんな不公平、あるか?……思慕の父親としても、俺には同じ権利がある」慕美は息を飲んだ。――この人、変わった。どこが、と訊かれれば答えられない。けれど確かに、昔のような傲慢さだけではなくなっている。彼女は視線を落とし、曖昧に答えた。「わかった」「今の、俺を宥めただけじゃないよな?俺、本気に受け取っていいんだよな」……深まる秋という季節は、男にとって最高のロマンスと余韻を孕む。だからだろうか。慕美はあの狭いエレベーターでの、一瞬の密着、呼吸の近さ、熱――それを長く忘れられなかった。宴会場に着くと、二人は何事もなかったように別々の方向へ歩く。立都市の人間なら誰でも知っている。――澪安には子供がいる。思慕、という可愛らしい男の子だ。その母親は、昔の恋人。そして、慕美と西園寺の噂話は、もう誰も口にしない。栄光グループの古株たちは、澪安がすべて処理した。二人の関係は言葉にはせずとも、皆理解している。澪安は隠さない。今日は珍しく公の場に姿を見せ、会場は騒然となった。願乃は黒いイブニングドレスを纏い、豪奢で、どこか小悪魔じみている。その姿を見た結代が「貴族の黒い羽モップ」と笑ったのは内緒だ。「お兄ちゃん、慕美さんのところ行かないの?」願乃がワインを抱えながら言う。澪安は半目で妹を一瞥し、英国式のソファにゆったりと腰掛け、ワイングラスを指で軽く弾いた。未婚、成熟、冷静――ただそれだけで視線を集める。だが澪安が見ているのは―ただ一人。視線の先、慕美は舞と並んでいた。舞は彼女を恒
慕美はドアに背中を預け、半ば呆れ顔で言った。「澪安……ほんとずるい。どうしてそんなに、私の心まで分かるの?」「かつては、ね」これ以上、この話題を続けるのは無理だった。夜の静けさの中、澪安の声はさらに低く落ちる。「それで、答えは?受け入れるのか、それとも拒むのか」慕美は正直に言った。「受け入れてはいない。でも、拒んでもいないの。澪安、あなたが不機嫌になるのは分かってる。でも言わせて。待たないで。允久がいなくても、私たちはもう無理。許すとか許さないとかじゃなくて……成長の代償よ」短い沈黙。そのあと、澪安が感情を必死に抑えた声で言う。「俺と一緒にいることが……お前の成長を邪魔するとは思えない」「ごめん。私、自分を許せない」かつて、あまりにも大切にしすぎた。だから怖い。また同じ痛みを味わうのが。澪安はそれ以上問い詰めず、ただ一言だけ落とした。「おやすみ」「うん。おやすみ」……その夜、澪安は周防本邸には戻らなかった。彼は、かつて慕美と暮らしていた別荘へ向かった。今では週に一、二度泊まるだけの場所。深夜は、独りになるのにちょうどいい。胸のざわめきと苦味が、静かに暴れる時間。あの頃、自分と慕美の世界には二人しかいなかった。允久も、宴司も、恋の駆け引きもなかった。それなのに――外の風雨が降り注いだ時、彼は彼女を守れなかった。そして慕美は、思慕を抱えたまま去っていった。五年後。裁きを受ける側になったのは、澪安の方だった。……その後の日々はある意味、見ものだった。澪安も允久も、それぞれに熱心だった。だが慕美には、誰かを選ぶつもりなどなかった。仕事で手一杯で、恋愛に振り回されるほどの気力なんて、とっくに残っていなかったのだ。ただし、思慕と彼らの関係に、口を出すつもりはなかった。数日後、願乃主催のチャリティー晩餐会が開かれる。その日は、慕美にとって重要な仕事の日。舞が恒和コーポレーションの黒川会長の奥さんを紹介してくれる。そこで関係が築ければ、次の計画へ進める。慕美は恒和コーポレーションとの長期契約を狙っていた。いつまでも遥臣の思惑に縛られるわけにはいかない。あの男の金は、触れた瞬間から心を濁らせる。なら、根本から断ち切るしかな
夜は更け、雨はまだ静かに降っている。十時を回った頃、澪安はどれほど後ろ髪引かれようと、先に席を立った。周防家の運転手が、すでに彼の黒いロールスロイスをマンション前へ回していた。澪安は運転席に乗り、窓を少しだけ下ろす。フロントガラス越し、雨に濡れた街路樹が滲み、葉先から水滴が落ちていく。澪安はじっと前方を見据え、視線を逸らさないまま煙草に火をつけた。火が灯った瞬間、顎のラインがわずかに浮かび上がり、その横顔は街灯よりも鮮やかに際立つ。ゆっくりと煙を吐き出すと、表情から温度が消えていき、次の瞬間、彼の視線は静かに上階へと向かった。そこに灯る温かな橙色の光。しかし、今夜、その光は、自分の居場所ではない。革靴でアクセルを踏む。ロールスロイスは濡れた落ち葉を踏み潰し、雨に溶けてゆくように走り出した。まるでその落ち葉のように、澪安の気持ちはぐしゃりと崩れ、雨に流されていく。……四階。マンションの中には、久しぶりの再会の温度が満ちていた。慕美と允久の関係は、ずっと悪くはなかった。ただ、親密と言うには距離があり、そもそも一緒に暮らしたこともない。海外にいた頃でさえ、せいぜい知人同士の集まりで、形式的に「奥さん役」を演じる程度。数えても三、四度顔を合わせただけだった。ほんの数回の出会いでも――人は結局、合うか合わないかを判断してしまう。離婚の話が出た頃、允久は本当はきちんと向き合うつもりでいた。だがちょうど会社で問題が起き、話す機会を逃したまま、慕美は急いで帰国し、新しい生活へ踏み出してしまった。そして、彼は一つだけ誤算した。思慕の父親が、慕美と元の関係に戻るとは思っていなかったのだ。思慕と妍心は、久々の再会に大喜びで、寝室で遊んでいる。大人たちはリビングに向かい合った。慕美はコーヒーを淹れ、ソファに座りながら軽く尋ねた。「帰国、予定より早くない?年末って言ってなかった?」允久のまなざしは深く、まっすぐだった。「宴司が電話してきた。慕美、お前も気づいてるだろ?あいつ、お前が好きだ。だからお前は澪安を盾にした。宴司を下がらせるために。じゃあ、俺は?お前は俺にも同じことをする?『まだ忘れられない人がいる』と。会ってわかったよ。あいつは並じゃなかった。当時、お前が
夜の雨は、細く長く降り続いていた。慕美は助手席に座ったまま、濡れたボンネットに反射する街灯をただ眺めていた。立都市全体が雨に沈み、街の灯りは滲んで、いつもの華やかさも静かに影を潜めていた。夜九時前、車は静かに彼女の住むマンションの前に停まった。そこには、無駄のないラインを纏ったグレーのゴースト。運転席には、長身で落ち着いた雰囲気の男が座っていた。手はハンドルに添えたまま、静かに慕美の車を待っていた。遠くから照らすライトが目に刺さる。視界が慣れると、その男と澪安の視線が、夜の雨の中で交差した。どちらも成熟した男だった。どちらも成功者で、端正で、落ち着いた大人の余裕を纏っている。そして、どちらも慕美の元カレ。雨は止む気配もなく、静かに、人の心まで濡らしていく。慕美もすぐに允久を見つけた。彼とは昔から変に気まずくならない距離感でいられた。深夜に会うことがあっても、自然に話ができる相手。思慕にも優しかった。――あの「キス」までは。そして今、隣には澪安。慕美は一瞬何が起きているのかわからず、視線だけが允久に吸い寄せられた。胸の奥がざわつき、まるで誰かに浮気現場でも押さえられたかのような気まずさが込み上げる――ただ、その「誰」に対して後ろめたいのか、自分でも答えが出ない。沈黙が落ちた頃、澪安が横目で彼女を見て、小さく言った。「降りるな。傘取ってくる」慕美はまだ頭が追いつかないまま小さく頷いた。その瞬間、車のドアが開き、澪安が雨に濡れながらトランクへ回り、傘を取り出すと静かに差したまま助手席側へ戻ってくる。そしてドアを開け、短く言う。「傘持って下りろ。思慕は俺が抱く」慕美が降りると、自然に視線は允久の車へと向かってしまう。その瞬間――「傘、持て」低い声。嫉妬が隠しきれない声音。――形式だけの元夫だろ?それであの顔か?澪安はすでに思慕を軽々抱き上げていた。四、五歳児を雨から守りながら抱くのは難しいはずなのに、それを当然のようにこなす姿に、慕美の胸に小さな波紋が広がる。視線が合うと、またひとつ、冷たい目線。二人は急ぎ足でエントランスへ向かった。そのとき、允久も車を降りた。そのあと、大きなスーツケースが二つ運ばれ、その後ろから一人の女の子が
思慕は心の中で呟いた。――いやいや、雰囲気作って歩いてる場合?秋って子どもが一番風邪引く季節なんだよ?僕の免疫力、考えてくれる?三人は小走りで駐車場まで向かい、ほどなくして慕美の車に着いた。慕美が後部座席のドアを開けると、澪安は思慕を抱えたまま当然のようにしゃがみ、丁寧に座らせ、シートベルトまで締めた。そのままドアを閉めると、今度は迷いなく運転席へ回り込み、鍵を挿す。慕美は呆然と立ち尽くし、濡れた髪を払って彼を見る。「何してるの?」澪安の黒い瞳は夜に溶けるように深く、じっと彼女を見つめていた。黒いコートは彼女の肩には大きすぎて、生地がふわりと揺れるたび、そこに残る彼の体温と香りがまとわりつく。それがまるで「彼女に印をつけた」ようで、澪安の胸には言葉にできない感情が沈んでいった。澪安は短く低く言う。「乗れ。雨で路面が滑る」追い払うのは無理だと悟り、慕美は舌打ちしそうな気持ちで助手席へ回り込む。後ろの思慕はぱちぱちと瞬きをしながら二人を見つめていたが、大人同士の水面下の気配などわかるはずもなく、「パパは優しい」とただそれだけを信じている。エンジンがかかったとき、慕美は釘を刺した。「言っとくけど、今夜泊まらせる気ないから」澪安は答えず、ただゆっくり笑った。年齢を重ねた男の余裕――反則級。慕美は視線を逸らし、窓の外の雨を数え始める。滴る雨粒と街灯の光が滲み、夜は落ち着きすぎている。気づけばまだ澪安のコートを着ている自分に気づき、脱ごうとした瞬間――「着てろ。冷える」低い声が耳に落ちる。彼のシャツは薄く、襟元は湿っていた。慕美は心の中で毒づく。――風邪でもひけばいい。澪安は横目で笑う。「久しぶりに会ったら、口が凶器になってるな」慕美は無視した。頭の中では宗川という男の問題が浮かんでは消えていた。――あの人をどう切り離すか。――どうすれば、もう誰にも握られずに済むか。車内はしばらく静かだった。信号で止まったとき、澪安がふと彼女を見る。「仕事で困ってる?困ったら言え。俺は思慕の父親だ。守る責任くらいある」慕美は笑った。けれど温度はなかった。「思慕は守りたいなら守ればいい。でも私には必要ない」澪安はやや強めの声音で返す。「線引きか。