Se connecter私は殺人者に水槽の中に閉じ込められたあの時、兄が夏目美瑠(なつめ みる)と一緒にケーキを作っていた。 気管がゆっくり切り裂かれて、苦しい呼吸しかできなかった時。 電話越しの兄は冷たく言い放った。「小木曾雨芽(おぎそ うめ)、父さんの命日なのに帰ってこないなんて。ほんと恩知らずだな。 美瑠が頼んでるのに父さんのところ行かないどころか、彼女を殴ったって?お前、死ぬ前にまず美瑠に謝ってから地獄に落ちろ!」 そのあと、兄は自分の手で私の死体を解剖し、事件を分析した。 でも目の前のこの死体が、自分の実の妹だなんて、彼は夢にも思っていなかった。
Voir plus兄はもう聞いていられなかったみたいで、目を真っ赤にして取調室から飛び出した。ふだんはメスを握る手で壁をぶん殴って、血がだらだら流れ落ちる。隊長がため息をつきながら言う。「風真、早く手当てして」だが、兄はまるで聞こえてないみたいに言う。「なぁ……あの時、雨芽もこんなに痛かったのか」私は鼻をすすり、じんじんする目を閉じる。もちろん痛かった。でも、美瑠に虐待された時の身体の痛みより、兄の冷たい言葉は、もっと胸に刺さったんだ。美瑠は、死体遺棄を手伝った共犯の名前を白状した。相手は、彼女の昔の隣人だ。そして、もっと恐ろしい真実が浮かび上がる。美瑠はずっと前からうちの家族を狙っていて、彼女は自分の両親と弟を焼き殺した。その知らせを聞いた兄は、しばらくの間、まるで魂が抜けたみたいだ。母は目を閉じて、涙を滲ませながら言う。「私たち夫婦の善意が、まさか、あんな悪魔を家に招くなんてね……」美瑠に死刑判決が下った日、兄は一人で私の墓の前に来た。彼は苦しそうに呟く。「雨芽……母さんは今、僕の顔見たくないって言ってた。『これからは一人で雨芽を弔うから、あんたは私の前に現れないで』って……全部僕のせいだ。君の心を傷つけて、君を死なせて……僕はもう監察医を辞める。解剖台を見るたびに、君の亡くなった姿が浮かぶんだ」兄は私の墓碑を抱きしめて、熱い涙をぼろぼろこぼす。「雨芽、守れなくてごめん。約束守れなかった」その後、母は療養所へ移り、兄の見舞いを拒絶した。兄は酒に溺れはじめた。彼はいつも空っぽの部屋に向かって、独り言をこぼしていた。「雨芽、一緒にアイス買いに行くか?父さんと母さんには内緒だぞ」「雨芽、夜は何食べたい?兄ちゃんが作ってやるから」そんな兄の崩れていく背中を見つめながら、私の胸はまるでつる草に締めつけられるようだ。兄はふいに宙へ向かって手を伸ばす。「雨芽、ほら、兄ちゃんとハイタッチ。これからは、僕がちゃんと守るから」涙が私の頬をつたって落ちていく。私は子どもの頃みたいに手を伸ばして、兄と空中でハイタッチをした。視界がゆっくりとぼやけていく。そろそろお別れの時間なんだ。兄さん、今回のハイタッチは、約束だよ。もし来世があるなら、また兄妹になろうね。今度は絶対に、私を守
兄はもう迷わなく、美瑠の後を追い、そのままついて行った。彼女が花と果物を買うのを見て、兄の目に一瞬だけ疑いが浮かぶ。だが、美瑠が病院に入った瞬間、その疑いは憎悪へ変わった。病室には、美瑠の軽い声が響いている。「死に損ないの婆、まさか目を覚ます日が来るなんてね。意外だよ。あたしはもうあんたの大事な娘を殺した。あんた今、生きてて何の意味があんの?」くすくす笑った後、彼女の声は急に鋭く変わる。「今すぐ親子そろってあの世に送ってやる。死人だけが口を割らないんだから!」兄の背中が冷たい壁に貼りつき、寒さで体が震える。そして勢いよく病室の扉を押し開いた。美瑠は笑顔のまま、酸素マスクに手を伸ばしている。「何してる?」兄の怒声が病室に響き渡る。美瑠の目に一瞬怯えが走るが、すぐに落ち着いた。「お兄ちゃん、ママの様子を見に来たの。お姉ちゃんは来なくても、あたしはママを放っとけないから」反応が早い。だが彼女は知らなかった。母がとっくに目を覚ましていたことを。「あんた、見に来たんじゃなくて殺しに来たんだろ?」弱々しいがはっきりとした母の声が、美瑠の耳を刺す。美瑠は信じられないように目を見開き、荒い息を吐く。「いつ目覚めたのよ!」その声は怯えに震え、もう冷静さを保てなくなっていた。兄は何も言わなかった。美瑠が駆けつけた警察に連れて行かれるまで、一度も彼女を見ようとしなかった。まだ弱々しい母を見て、兄は低い声で言う。「母さん、ごめん」だが、母は顔をそむけ、もう兄を見たくない。「謝る相手を間違えてるわ。本来支え合うべき兄妹なのに、あんたはあの非情の人の嘘に何年も踊らされて。もし私が雨芽だったら、一生許さないね」兄は魂が抜けたように署へ戻った。隊長が兄の様子を見て、首を横に振る。「夏目美瑠が、お前に会うまでは何も話さないって騒いでる」無垢な顔の美瑠を見ると、兄の胸の奥の怒りが一気にあふれる。「夏目美瑠……お前、よく父さんを殺して、雨芽まで殺して、まだそんな顔できるな!」美瑠は兄を不思議そうに見返す。「お兄ちゃん、何もなかったことにすればいいじゃん。なんで他の人のせいで、あたしたち兄妹の仲を壊さなきゃいけないの?あたしは注意深かったよ。指紋を残してなかった。雨芽はもう死んだ。あたしがお兄ちゃん
兄は私の寝室に入ってきた。机の上には、今も四人家族だった頃の写真が置かれている。彼は手に取ってよく見ようとしたのに、まるで火でもついたみたいにすぐ戻してしまった。兄の唇が震え、かすれた声が漏れる。「雨芽、兄ちゃんが悪かった」でも、その声を私が聞けるのは、あまりにも遅すぎた。もう昔みたいに兄の肩を抱いて、「アイス十本奢ってくれたら許してあげる」なんてふざけることもできない。兄が寝室を出た時、美瑠が誰かと揉めている。彼女はベランダに立ち、声を押し殺している。「また金欲しいの?人を殺したのはあたし。でも車出して死体を捨てに行ったのはあんただよ?バレればあんたも逃げられないわよ!」その声は鋭く、普段の甘くて柔らかい姿とはまるで別人だ。相手が何か言うと、美瑠は軽く笑う。「そう、それでいいの。あたしたちは一蓮托生なんだから、この件で金を揺すろうなんて考えないでよ。こっちは忙しいんだから。あの婆が目を覚ましそうで、また片づけに行かなきゃなんないんだわ」兄の拳がぎゅっと閉じられ、指の関節がきしむほど白くなる。母が目を覚ましたという話を聞いて、美瑠はやっぱり落ち着いていられなくなった。彼女は自分の仮面を自分で破った。兄さん、これがあなたが何年も守ってきた「いい妹」の本性だよ。「一緒にご飯を食べないの?」兄の声が幽かで、視線は出て行こうとする美瑠の背中に向けて落ちた。彼女は帽子を不自然に深く被り、手を振る。「お兄ちゃん、友達に呼ばれたの。待たなくていいから」兄の声は優しいままなのに、その俯いた顔には笑みが一つもない。「夜は早く帰れよ。兄ちゃん飯食ったら署に戻る。事件が進んでないし、外も物騒だ」いつもと同じ気遣いを向けられて、美瑠の口元が緩む。彼女はほっとして、すべてが完璧に隠し通せたと信じ切っている。ドアが閉まる音がすると、兄はソファに座り込み、頭を抱え、押し殺したような叫びを漏らした。ふと視線を上げると、テーブルには彼と美瑠のツーショットがある。その瞬間、兄の目に怒りの火が弾ける。ガラスの写真立てが床に叩きつけられ、私のトロフィーと同じように散らばる。写真なら壊せる。でも、兄が美瑠のために私を何度も傷つけてきた過去だけは、どうやっても消えない。
兄が鑑識課を出ようとしたとき、また病院から電話がかかってくる。「はい、今すぐ支払いに……」しかし病院のスタッフが明るい声を上げる。「小木曽さん!お母様が目を覚まされました!」私は口を覆い、喜んで涙があふれる。けれどその喜びはすぐに痛みに変わっていく。何年間で意識不明の母が目を覚ましたのに、私はもうここにいない。母を抱きしめて「会いたかったよ」と言うこともできない。兄が病院へ駆けつけたとき、母は看護師の支えでゆっくり体を起こしていた。兄の姿を見るなり、母の目に怒りの色が浮かぶ。母は弱々しい声で言う。「風真、雨芽は?」兄は息を大きく吸い込んだが、言葉は一つも出てこない。母は目を閉じ、静かに続ける。「あんたは仕事で忙しいから、ずっと雨芽が来てくれてたのよ。私は眠っててもね、外の声はちゃんと聞こえてた。あんたが雨芽にどれだけひどい態度とってきたか、全部わかってるからね。あんた、他人の言葉ばっか信じて、実の妹のことは信じもしない」母の胸が怒りで上下に大きく揺れ、兄は慌てて彼女の背中をさすろうとした。だが母はその手を払いのけ、苛立ちを隠さず言う。「あの日の事故は、夏目美瑠のせいよ。ケーキ食べたいって駄々こねて、あなたの父親とハンドルを奪ったの!」兄は信じられないように目を見開き、眉を寄せる。「そんな……美瑠は、あれが雨芽のせいだって……」「美瑠美瑠って、あんた、自分の実の妹が誰か覚えてるの?彼女に騙されて識力がなくなるの?で、雨芽は?仕事?」母の言葉を聞いて、兄はもう我慢できず、崩れるように床に膝をついた。彼は手首に噛みつく勢いで、涙と声を押し殺した。母も何かを悟ったように、目元に涙が浮かぶ。「雨芽に、何かあったの?ねぇ、答えてよ!」「母さん、ごめん、全部僕のせいだ……雨芽は、もう亡くなったんだ」母はシーツを強く握りしめ、目に怒りを燃やす。「犯人は?捕まえたの?」兄が申し訳なさそうに視線を落とし、説明しようとしたそのとき。助手からの電話が入る。「風真さん!簪についた血痕、検出結果が出ました!夏目美瑠のものです!彼女、以前その簪に触れたことありますか?」兄は息をのんで、真夏だというのに震え始める。「雨芽はあの簪を大事にしてて、誰にも触らせたことなんかない」続いて隊長の声が聞こえてくる。