LOGIN「それに…服自体少なくない?」
湊さんが、クローゼットの中を覗き込んだまま、ぽつりと呟いた。 その視線の先には、ドレスの横に並ぶ、わずかな私服。 上着が四枚、ズボンが二本、スカートが一枚。 それだけだった。 自分でも、少ないとは思っていた。 けれど、それが“普通”になっていた。 服を選ぶことが怖くなってから、私は新しい服を買わなくなった。 何を着ても似合わない。 そう思い込んでいたから。 湊さんの言葉に、私は少しだけ肩をすくめて、曖昧に笑った。 「スーパーに行くくらいしか、着る機会もなかったから」 私は、クローゼットの中の服を見つめながら、静かに言葉を継いだ。 本当は、もっといろんな場所に行きたかった。 季節ごとの服を選んで、カフェに行ったり、映画を観たり、たまにはおしゃれをして、街を歩いたりしたかった。 でも、そんな機会はほとんどなかった。 湊さんはいつも忙しくて、私は家にいることが多かった。 外に出る理由がなければ、服も必要ない。 そうやって、少しずつ自分のための服が減っていった。 気づけば、クローゼットの中は、実用性だけを重視した服ばかりになっていた。 「デートとか…しなかったよね、ごめん」 湊さんの声が、少しだけかすれていた。 彼は、クローゼットの中を見つめたまま、どこか遠くを見ているような目をしていた。 記憶を失っているはずなのに、まるで何かを思い出しているような表情だった。 そのごめんは、今の彼の気持ちから出たものなのだろう。 過去の自分が、私に何もしてこなかったことを、今の彼が悔やんでいる。 「湊さんが謝ることじゃないよ」 私は、静かにそう言った。 記憶を失っている彼に、過去のことを責めるつもりはなかった。 それに、あの頃の私は、何も言えなかっ「朝ごはん食べよっか」湊さんがそう言って、布団の中からゆっくりと身を起こす。まだ少し眠たげな目元を指先でこすりながら、私の方を見て微笑んだ。私は一瞬、時間が止まったような気がした。朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、彼の髪をやわらかく照らしている。でも、そんなふうに見惚れているわけにはいかない。私は慌てて布団をめくり、勢いよく体を起こした。「今日は、私が作るから!」思わず声が大きくなってしまった。自分でも驚くほどの勢いで言ってしまって、言葉が空気を切るように部屋に響いた。湊さんが目を丸くして、ぽかんと私を見つめる。その反応に一気に恥ずかしくなって、しまったと心の中で叫びながら、視線を泳がせた。「そう?」湊さんは少しだけ首を傾げて、それからふっと口元を緩めた。まるで私の気持ちを全部見透かしているようだった。「無理しなくていいのに」なんて言われるかと思ったけれど、そんな言葉は出てこなかった。代わりに返ってきたのは、たった一言の問いかけ。でもその中には、優しさがあった。「だから、湊さんはゆっくり休んでて」そう言いながら、布団を跳ねのけて立ち上がった。まだ少し眠気の残る足取りで、でも心はどこか浮き立っていた。「じゃあ、お言葉に甘えて」湊さんは、そう言って再び布団に身を沈めた。その動作はどこかゆったりとしていて、まるで私の言葉に安心したかのようだった。彼のまぶたがゆっくりと閉じられていくのを見て、私はそっと息を吐いた。そして、足音を立てないようにキッチンへと向かった。キッチンに立った瞬間、ふわりと漂う朝の空気に、私は小さく深呼吸をした。まだほんのり眠気の残る頭の奥で、「よし」と小さく気合を入れる。ふわふわで、ほんのり甘い香りのする厚切りのパンをそっと袋から二枚取り出し、トースターに並べてそっとレバーを下ろす。冷蔵庫を開けて卵、牛乳、バター、ベーコン、トマト、レタス。頭の中でメニューを組み立てながら、手際よく材料を並べていく。ボウルに卵を割り入れると、黄身がぷるんと揺れて、白身と混ざり合う。そこに少しだけ牛乳を加えて、菜箸でくるくると混ぜる。フライパンにバターを落とすと、じゅっと音がして、甘くて香ばしい香りが立ちのぼった。その香りに、思わず顔がほころぶ。「いい匂い……」バターがじわじわと溶けていく様
ゆっくりと意識を浮かび上がらせながら、体をわずかに動かした。その瞬間、ふわりと揺れる感覚に気づく。あれ…?なんだか、浮いてるみたい。腕の中に抱えられているような、そんな不思議な感覚。目をうっすら開けると、薄暗い部屋の中、ぼんやりとした灯りが天井に揺れている。「あ、ごめん。起こしちゃった?」湊さんの声が、耳元でやさしく響いた。視界はぼやけていて、でも確かに、私は湊さんの腕の中にいた。お姫様抱っこ。そんな非現実的な状況に、思考が追いつかない。これは…夢?そう思わずにはいられなかった。だって、こんなに優しい湊さんなんて、現実にいるはずがない。私のことを、こんなふうに大切そうに抱えてくれるなんて。胸の奥がじんわりと熱くなって、私は小さくつぶやいた。「湊さん…?」その名前を呼ぶと、彼は少しだけ顔を近づけて、「なぁに?」と、やわらかく返してくれた。その声が、あまりにも優しくて、私はますます現実感を失っていく。やっぱり夢だ。こんなふうに、名前を呼んだだけで笑ってくれる湊さんは、現実にはいない。「湊さん…」もう一度、名前を呼ぶ。それしか言葉が出てこなかった。現実の湊さんは、こんなふうに私を抱き上げたりしない。こんなにやさしく、こんなに近くにいてくれることなんて、ない。だから、これは夢なんだ。夢に決まってる。「ふふ、寝ぼけてるの?可愛いね」湊さんが、くすっと笑ってそう言った。可愛いなんて、そんな言葉、現実の湊さんが私に言うはずがない。だからやっぱり、これは夢なんだ。「今日はありがとね」湊さんの声が、ふいに耳元で落ち着いたトーンで響いた。その言葉に、私は一瞬、まばたきを忘れた。え…?今、湊さんが私にお礼を言った?私は、ぼんやりとした意識のまま、ぽつりとつぶやく。「ありがと…?」自分の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。湊さんは、私の問いかけに微笑みながら答える。「うん。一緒に出かけてくれてありがとう」その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。今日一日、湊さんと過ごした時間が彼にとっても大切なものだったんだと思うと、嬉しさが込み上げてきて、自然と笑みがこぼれた。「私の方こそ、ありがと、です。…湊さんが、かわいいっていっぱい言ってくれて…嬉し…かった…」言葉の最後は、眠気に引き込まれて、かすれてい
「湊さん、お先ありがとうございました」 バスタオルで髪を包みながらリビングに戻ると、湊さんはちょうど食器を棚に戻しているところだった。 その背中を見た瞬間、胸の奥がふわっとあたたかくなる。 さっきまで湯船で感じていたぬくもりが、まだ体に残っていて、それと同じくらい心の中にもぽかぽかとした熱が広がっていた。 この空間に湊さんがいてくれることが、こんなにも安心できるものだなんて。少し前の私には想像もできなかった。 「あ、彩花ちゃんこれって…」 湊さんがふとこちらを見て、何かを言いかける。 その視線が、まっすぐに私の顔をとらえていて、私は思わず足を止めた。 「ん?」 私は首をかしげて問い返す。 でも湊さんはすぐには答えず、視線をそらすようにして何かを飲み込んだようだった。 「…いや、とりあえず今日はもう寝よっか」 湊さんは手にしていたお皿をそっと棚に戻すと、私の方へとゆっくり歩み寄ってきた。 距離が縮まるたびに、胸の鼓動が少しずつ速くなる。 「え?」 私は思わず聞き返してしまった。 なんだか急に現実に引き戻されたようで、頭がついていかなかった。 「眠たい顔してる」 湊さんの指先が、そっと私の目の下に触れた。 その動きはとてもやさしくて、まるで私の疲れをそっとなぞるようだった。 触れられた場所が、じんわりと熱を帯びていく。 「まだ大丈夫」 私はそう言って、少しだけ笑ってみせた。 眠たいのは本当だった。湯船でじんわりとあたたまった体は、今もぽかぽかしていてまぶたも重い。 でもそれ以上に、この時間が終わってしまうのが惜しかった。 湊さんと過ごすこの静かな夜のひとときが心地よくて、温かくて、まるで夢の中にいるみたいだったから。 もう少しだけ、この空気の中にいたい。 もう少しだけ、湊さんの声を聞いていたい
「ご馳走様でした」食器を置いて、私は手を合わせた。自然と口からこぼれたその言葉に、どこか満ち足りた気持ちがにじんでいた。ひとりで食べるご飯とは、やっぱり違う。誰かと一緒に食卓を囲むことが、こんなにも心をあたためてくれるなんて。湊さんと過ごす時間はどこか懐かしくて、でも新しくて、湊さんとの過去を少しずつ塗り替えていく。「ご馳走様でした」湊さんも、私と同じタイミングで手を合わせて言った。その声が重なって、ふたりで顔を見合わせて、思わずふっと笑い合う。なんでもないやりとりなのに、まるで長年の夫婦みたいだな。なんて思ってしまって、自分で自分に驚いた。「じゃあ、先にお風呂入っておいで」湊さんがそう言って立ち上がるから、私は慌てて言い返した。「湊さんが先に入ってください。私はお皿洗わないと」言いながら、私は立ち上がってシンクに向かう。お皿を重ねて、スポンジを手に取る。こうして何かをしていないと、この気持ちをどうしていいか分からなくなりそうだった。湊さんの優しさは、時々、私の心の奥を突いてくる。嬉しいのに、どこか居心地が悪い。だって、私はまだ、こんなふうに誰かに甘えていいのか分からないから。「僕が洗うからいいよ。疲れてるでしょ?」湊さんの声が、すぐ後ろから聞こえた。振り返ると、彼はもう袖をまくっていて、本当に洗う気満々の顔をしていた。私は思わず言葉を詰まらせる。「え、でも、」疲れてるのは湊さんも同じなのに。私のために、今日もいろいろ気を遣ってくれて、優しくしてくれて。「ご飯作ってくれたお礼」湊さんのその一言に、お皿を手に取ったまま、指先がぴたりと止まる。そんなふうに言われるなんて、思ってもみなかった。私はただ、できることをしただけ。湊さんに少しでも恩返しがしたくて、せめて食事くらいは、と思って作っただけなのに。それを「ありがとう」って言われるなんて、なんだか胸の奥がきゅっとなった。嬉しいのに、どこか申し訳なくて、私はそっと視線を落とした。「お礼だなんて……」むしろお礼をしないといけないのは私の方。ご飯を作ったぐらいじゃ、全然足りない。ご飯を作ったくらいじゃ、全然足りない。湊さんがくれた安心感。あのまっすぐな言葉。そばにいてくれることの重み。それが私の中で、何倍にもなって響いているから。それでも湊さ
「湊さんは、どうして…」言いかけて、言葉が喉の奥でつかえた。言いたいことははっきりしているのに、それを口に出すのが、どうしてこんなに難しいんだろう。私は、湊さんの前ではいつも自分の感情を隠すのに必死なのに。湊さんは、どうしてこんなふうに、さらりと人の心をかき乱すようなことを言えるんだろう。「え?」湊さんが、きょとんとした顔でこちらを見た。その無防備な表情に、私はますます言いづらくなって、思わず視線を逸らした。でも、もう言いかけてしまった。私は、少しだけ息を吸って、勇気を振り絞るように続きを口にした。「どうしてそんな恥ずかしいことを、平気で言えるんですか」可愛いとか好きとか、そんな言葉、普通はもっと特別な時にもっと覚悟を持って言うものだと思ってた。でも湊さんは、まるで日常の一部みたいに、当たり前のようにそう言う。簡単に、迷いなく、まっすぐに。でも、不思議と軽くは聞こえない。その声の温度を感じれば、分かってしまうから。むしろ、重たいくらいに真剣で、私の心の奥に静かに沈んでいく。「えー、僕は自分の気持ちを正直に伝えてるだけなんだけどなぁ」湊さんは、肩をすくめながら、どこか楽しそうに笑った。本当に、悪気なんてこれっぽっちもないんだろう。ただ、思ったことをそのまま言っているだけ。それが分かるからこそ、私は余計にどうしていいか分からなくなる。嘘じゃない。からかいでもない。本気で、そう思ってる。そのまっすぐさが、私の心をまるごと掴んで離さない。なにか言わなきゃいけないのに、言葉が出てこなかった。「ありがとう」なんて、素直に言えたらいいのに。「嬉しい」って、笑えたらいいのに。
「湊さん、できたよ」 キッチンから声をかけると、湊さんはすぐに返事をして、ぱたぱたと軽い足音を立てながらダイニングへやってきた。 「あ、オムライス!しかもハート?かわいい」 湊さんの声が、ぱっと弾けた。 ケチャップでハートを描いたとき、正直、やりすぎかなって思った。引かれたらどうしよう、って。 でも、湊さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。 私は、照れ隠しのように小さく笑って、そっと湊さんの前にお皿を置いた。 「口に合えばいいけど」 味見は何度もしたけれど、それでもやっぱり自信なんてなかった。 私の拙い手料理なんて、物足りなく感じるかもしれない。 私は、湊さんの反応を待ちながら、そっと手を膝の上で握りしめた。 「いただきます!ん、おいひい!」 湊さんは、スプーンを手に取ると、勢いよく一口目を頬張った。 そして、口いっぱいにオムライスを詰めたまま、もごもご言いながら笑った。 その姿がリスみたいで、初めて湊さんを可愛いと思った。 こんなに無防備で、こんなに素直に喜んでくれるなんて。 「ふふ、良かった」 自然と笑みがこぼれた。 誰かと一緒にご飯を食べるのなんていつぶりだろう。 ふと、そんなことを思った瞬間、胸の奥にぽっかりと空いた空白が、静かに疼いた。 私はずっと、ひとりで食卓に向かっていた。 テレビの音だけが部屋に響いて、誰とも言葉を交わさずに、ただ黙々と箸を動かすだけの時間。 夜遅くに帰ってくる湊さんのために、夕食をラップして冷蔵庫に入れておくのが日課になっていた。 それが、ふたりの生活のリズムだった。 寂しいとも思わなかった。 思わないようにしていたのかもしれない。 遅くまで働いてるんだろうと、疑いもしなかった。だけときっと、本命の所に行っていたんだろうな。 その考えが頭をよぎった瞬間、