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私の救世主は、傷を知りすぎている
私の救世主は、傷を知りすぎている
Author: YuIm

1話. 毎月50万円

Author: YuIm
last update Petsa ng paglalathala: 2026-10-11 00:02:04

――私の手を折った女に、修吾さんは今月も50万円を送っていた。

紗月は受取人の欄を指で隠した。相沢里香。指をどけても、そこにある名前は変わらない。

同姓同名ならいい。珍しい名前ではないのだから。署名さえ、違っていれば。

最後の一画が長く伸びて、名前の下に線を引いていた。学校で紗月の素描帳を台無しにしたあとも、里香は必ずこうして名前を残した。誰の仕業か、隠す必要すらないとでもいうように。

紗月は紙をめくろうとした。右手の薬指が伸びなかった。

ヴァイオリンの弓を取り落としたあの日から、10年。思うとおりには伸びてくれない指だった。

「紗月。コーヒー、冷めるよ」

書斎の外から修吾が呼んだ。

紗月は広げた書類を閉じられなかった。左手で右の薬指を包み込んで、ようやく紙の上の影が揺れなくなった。

「うん。すぐ行きます」

いつもと同じ声が出たことに、自分で驚いた。

修吾から預かった支援金の精算ファイルだった。いつもは日付順に領収書を並べるだけ。誰に渡した金なのかは、管理番号に隠されていた。

今回は、C-04の後ろに受領確認書がついていた。金を受け取った相手の名前と署名が、初めて見える形で載った一枚。

相沢里香。

支給理由は、生活支援。

紗月は次のページをめくった。前の月も50万円。その前も同じ額。支払日は、すべて毎月15日だった。

先月の15日は雨だった。右手が痛んで、水の入ったグラスを落としかけた日だ。修吾は代わりにグラスを持って口元に運び、夜のあいだずっと手を揉んでくれた。

あの日、この女にもお金を渡していたんだ。

水をこぼした紗月に、修吾は気にするなと言った。シャツなんて買い直せばいい、と。その言葉がありがたくて、手を揉んでもらいながら、痛いとさえ言えなかった。

里香も、あの日に金を受け取った。新しいシャツなら何枚でも、好きに買えるだけの金を。

紙の縁が爪の下に食い込んだ。今度は、どこが痛いのかはっきりわかった。

「まだかかりそう?」

修吾の足音が近づいてきた。

紗月はスマートフォンのカメラを起動した。受領確認書を一枚。管理番号と日付の入った精算表を一枚。二枚目には、自分の手の影がかかった。

ドアのレバーが下がった。

画面を消し、スマートフォンを伏せた。確認書をほかの紙の下へ滑り込ませた指先が震える。悪いことなど何もしていない。それなのに、見つかってはいけないことをしている人間みたいだった。

扉が開き、修吾が入ってきた。まだ結んでいないネクタイが、シャツの両側に垂れている。

「先に食べよう。難しい仕事を頼んじゃったかな」

「日付の合わないものがあって」

「そういうのは篠原に回せばいい。紗月が頭を悩ませる必要はないよ」

隣に来た修吾が手首を取った。力を込められたわけでもないのに、紗月は反射的に立ち上がっていた。紙の下に隠した名前が、視界から遠ざかる。

「また右手が震えてる。昨日、早く寝るように言っただろう」

「ちゃんと眠れました」

「じゃあ、どうして」

修吾の親指が、指の関節を押した。古い傷痕の縁が白くなる。

痛いとは言えなかった。手を確かめる彼の顔を見ていたからだ。額に寄った細い皺。不調のあるところを探す視線。10年間、一度も疑わなかった表情だった。

「お腹がすいたのかもしれません」

「だから、食べようって」

修吾は笑って、彼女を食卓へ連れていった。

2026年9月。隅田川を見下ろす住まいの朝は、いつもよく似ていた。一人が先に座れば、もう一人がナプキンを広げる。修吾の前にはコーヒー。紗月の前には温かいお茶。自分が最後にコーヒーを飲んだのはいつだったか、ふと思い出せなくなった。

カトラリーを持ちかけた手を止め、修吾のネクタイを結んだ。喉のすぐ下で引っ張れば、この人も息が苦しくなるだろうか。そんな考えがよぎって、手を緩めた。修吾はスマートフォンを見ていた。

「今夜、西園寺常務と食事がある。紗月も来て」

「西園寺麗華さんですか?」

「オークションの資料は紗月が整理したんだから。聞かれたことに答えてくれればいい」

経済誌で見た写真が浮かんだ。西園寺グループの令嬢と、天城総合法律事務所の若き代表弁護士。肩が触れそうな距離に立つ二人の下に、縁談という文字があった。

「ベージュのを着て。この前、仕立てたやつ」

「あれはクリーニングに出していて」

「午前中に届けてもらえばいいだろう」

修吾は返事を待たず、画面を送った。紗月は手に残ったネクタイの先を放した。学生の頃から、そうだった。彼が決めて、自分がやり方を探す。

彼がいなかったら、治療費をどう払っていただろう。母を誰に頼れただろう。18歳。手を傷めて入院した病室でそんな問いを口にすれば、答えはいつも一つだった。

一条先輩。

彼は病室の前まで里香を連れてきて、膝をつかせた。里香が口を開くより先に、その頬を打った。紗月は音に驚いて目を閉じ、開けたときには、修吾が自分の前に座っていた。

――あとは俺に任せて。

そう言ってくれた。

任せろと言ったことの中には、毎月50万円を送ることも入っていたのだろうか。

「今日、母の面会予約も入れておきます」

考えを追い払おうとして口にした。画面の上で、修吾の指が止まる。

「この前、行ったばかりじゃないか」

「髪を切ってもらう約束なんです。水曜に訪問理美容の方が来るそうで」

「それは病院でやってくれるだろう」

紗月はティーカップを持ちかけ、置いた。髪は病院で切ってくれる。服だって運転手に届けてもらえる。どんな理由を口にしても、修吾はもっと楽な方法を見つけてくれるはずだった。

お母さんに会いたいんです。

その一言で済むはずなのに、まだ言えない。

「切ったところだけでも、見たくて」

修吾はしばらく彼女を見た。

「わかった。運転手と一緒に行っておいで。一人で無理をしないように」

「ありがとうございます」

それを聞いて、彼はようやくスマートフォンに視線を戻した。

紗月は口に入れたパンを噛んだ。バターの味がしなかった。

玄関でスタッフが彼を呼んだ。立ち上がりかけた修吾が、もう一度食卓を向く。

「精算のファイルは、そのまま置いておいて。明日の午後、篠原が取りに来る」

「はい」

「写真も選んでおいて。昔の演奏会の写真。広報が支援事例集に使いたいそうだ」

「私の写真を?」

「青陵の頃から支援してきた例があれば、説得力があるだろう。紗月の話以上にいいものはないよ」

修吾が彼女の頭に手を置いた。少しかがんで顔をのぞき込む、優しい仕草だった。

「気負わなくていい。俺が全部確認してから出すから」

扉が閉まっても、紗月は食卓に座っていた。ついさっきまでいた人がいなくなると、この家はひどく静かになる。空のカップに触れて初めて、お茶を飲み終えたことに気づいた。

書斎に戻り、精算ファイルを開いた。

里香の確認書には、受取額以外にも記載があった。住所と連絡先を変更したという短い一文。横浜の小さな店、ブルー・パブ。電話番号の下四桁を書き写しかけたところで、紗月のペンが止まった。

スマートフォンを取り、修吾の名前を押す。通話ボタンのすぐ上で、指が止まった。

聞けば答えてくれるだろう。優しく、間違いのない言葉で。それを聞いて安心してしまう自分が浮かび、首の後ろが冷たくなった。

電話はかけず、画面を消した。

里香の番号を、最後まで書いた。今度は、修吾に先に答えを決めさせない。

朝に撮った写真を確認した。精算表の端に、手の影が落ちている。相沢里香の名前も、支給額も読めた。

扉がほんの少し早く開いていたら、この二枚すら残らなかった。

廊下から掃除機をかける音がした。紗月はスマートフォンを伏せた。

「奥様、書斎もお掃除しましょうか」

家事を任されている三田が、扉の隙間から声をかけた。

「いいえ。ここは自分でやります」

奥様。

式も挙げていないし、婚姻届も出していない。それでも、この家では皆がそう呼んだ。最初にやめてほしいと言ったとき、修吾は笑った。いずれそうなるんだから、細かいことを気にするな、と。

その「いずれ」が来る前に、麗華との縁談が新聞に載った。

紗月は写真二枚を人目につかない場所へ保存し、ファイルを元の位置に戻した。今度は、紙の端がずれていないか、それだけを確かめた。

明日の午後には、この紙は篠原の手に渡る。書き写した番号を、財布の奥へ押し込んだ。

あの日、私を救ったというあの人が――どうして、あなたにお金を払うの。

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