Share

シグネチャー

Author: 6jay
last update publish date: 2026-09-15 19:50:31

1年後。パリ8区、歴史あるプライベートサロン。

[MIO SHINOMIYA PARFUMS]

[FIRST SIGNATURE — 〈L’ORIGINE〉]

クリスタルのシャンデリアの下に、世界各国のビューティーエディターとバイヤーが集まっていた。

客席の最前列には、研究員と品質責任者が座っていた。澪は、誰の功績も隠さなかった。

高貴なアイリスから、澄んだホワイトティー、深いサンダルウッドへ。

サロンを満たすのは、独立した研究所で完成させた安定化技術を使った、最初の作品だった。光や温度の変化にも、残り香が揺らぎにくい。

6か月の長期試験と光劣化の検証を終えてから、生産に入った。

誰も、警告を消さなかった。

〈L’ORIGINE〉。

「起源」を意味する名前。

失った過去に戻るという意味ではない。誰かの影ではなく、自分の名前から、もう一度始めるための名だった。

先行販売分は、パリ、ニューヨーク、東京で完売した。評論家たちは、派手な第一印象よりも、時間とともに確かになる香りの構成を評価した。

ボトルの裏面には、開発チームの名前と製造番号を刻んだ。

「マスター・パフューマー、篠宮澪」は、最
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 私の香りを奪った夫へ   シグネチャー

    1年後。パリ8区、歴史あるプライベートサロン。[MIO SHINOMIYA PARFUMS][FIRST SIGNATURE — 〈L’ORIGINE〉]クリスタルのシャンデリアの下に、世界各国のビューティーエディターとバイヤーが集まっていた。客席の最前列には、研究員と品質責任者が座っていた。澪は、誰の功績も隠さなかった。高貴なアイリスから、澄んだホワイトティー、深いサンダルウッドへ。サロンを満たすのは、独立した研究所で完成させた安定化技術を使った、最初の作品だった。光や温度の変化にも、残り香が揺らぎにくい。6か月の長期試験と光劣化の検証を終えてから、生産に入った。誰も、警告を消さなかった。〈L’ORIGINE〉。「起源」を意味する名前。失った過去に戻るという意味ではない。誰かの影ではなく、自分の名前から、もう一度始めるための名だった。先行販売分は、パリ、ニューヨーク、東京で完売した。評論家たちは、派手な第一印象よりも、時間とともに確かになる香りの構成を評価した。ボトルの裏面には、開発チームの名前と製造番号を刻んだ。「マスター・パフューマー、篠宮澪」は、最終責任者を正確に示す表記だった。澪は舞台裏で、ボトルを持った。初めてこの街のステージへ向かった日、手にしていた〈NOIR 17〉には、別の女の名前がついていた。今日のボトルの正面に刻まれているのは、ただひとつ。誰かから返してもらった名前ではない。自分で守る方法を覚えた名前だった。[MIO SHINOMIYA]* * *蓮がタブレットを持って近づいてきた。「日本から、一審判決の知らせです」恭介は、背任や電子記録の不正な改変、広告をめぐる違反、名誉毀損などの事件で、懲役4年の実刑判決を受け、身柄を拘束されたという。裁判所は、品質の警告を知りながら削除したことと、澪に責任を押しつけたことを重く見た。麗奈も共犯としての責任と不正な利益が認められ、執行猶予付きの懲役刑と追徴を言い渡された。業界団体の登録から虚偽の経歴が削除され、出演した広告は取り下げられ、受賞も取り消された。ルシエルは再生手続きが廃止され、清算に入った。残った資産は、被害を受けた消費者と取引先への弁済に充てられた。澪は少しだけ画面を見て、タブレットを返した。「知らせてくれて、ありがとう」それだけだっ

  • 私の香りを奪った夫へ   MIO SHINOMIYA

    翌週の火曜。東京タワーを望む、会員制のビジネスクラブ。澪の向かいには、オリオン・アセットの投資責任者、一条蓮が座っていた。端正なネイビーのスーツに、余分な言葉のない話し方。蓮は儀礼的な挨拶を重ねるより先に、差し出されたムエットを受け取った。テーブルには、12週間の加速試験の中間報告書も置いてあった。彼はまず、その文書を開いた。澄んだアイリスのあとから、サンダルウッドの温かさがゆっくりと立ち上がる。蓮は十分に時間をかけ、香りが落ち着くところまで確かめた。「いいですね」大げさな賛辞ではなかった。「最初の10分より、30分後のほうがいい。軸がぶれません」「まだ、最終版ではありません」「だから、信頼できます。完成していないものを、完成したとは言わないんですね」澪の目が、少し変わった。投資家の多くは、最初の香りとパッケージから聞く。蓮は、残り香と安定性を先に見た。「3年前、グラースのエキスポでもそうでした」彼はムエットを置いた。「皆が華やかな原料を選ぶ中で、篠宮さんは酸化したサンプルをひとつ見つけた。あのときから、覚えていました」「オリオンは、ルシエルの第2位の株主でしたね。なぜ、もっと早く声をかけなかったんですか?」「技術を生んだ人を正しく把握していなかった。それは、私たちの責任です」蓮は言い訳をしなかった。「ただ、その誤りを、ルシエルの技術者を引き抜くことで正したくはありませんでした。法的な整理が済んで、篠宮さんがご自分で選べるまで待つのが筋だと考えました」短く、明確な答えだった。* * *蓮が投資提案書を開いた。[MIO SHINOMIYA PARFUMS 設立計画]初期投資額は3,000万米ドル。研究所の整備、製品の検証、海外展開の成果に応じて、段階的に拠出する計画だった。持ち分は、澪が51%。オリオン・アセットが49%。すべての処方について、澪を発明者として正しく表示すること。使用には本人の承認を要し、創作上の最終決定権も澪が持つこと。経営陣は、研究日程や安全性試験を勝手に短縮できない。品質責任者には、独立した生産停止権限を与える。そうした条項も、別に設けられていた。澪は、ゆっくりと書類をめくった。「この条件では、投資家側のリスクが大きいですよ」「だから、投資なんです」蓮は微笑んだ。「救ってあげる相

  • 私の香りを奪った夫へ   あなたが愛したもの

    恭介は、遅れて首を振った。「違う。愛してた。今だって、愛してる」床を這うように近づき、澪のパンツの裾をつかもうとした。「会社のことで、一時的にどうかしてたんだ。初めて指輪を選んだ日、覚えてるだろ? お前が作ったラベンダーの香りを嗅ぎながら、一生幸せにするって言ったじゃないか」澪は、その手を避けた。「自分まで騙さないでください」低く、静かな声だった。「あなたが愛したのは、私じゃない」ここまで言えるようになるのに、5年かかった。もう、途中でやめなかった。「澪」「私が徹夜して、あなたに渡した成果です」濡れた株式譲渡意向書と、合意案を見下ろした。「私の香り。私が高めた会社の価値。そのおかげで手に入れた、社長という名誉。あなたが愛していたのは、それでしょう。だから、私の能力は好きに使っても、名前は消してかまわないと思った」「違う。俺には、お前が必要なんだ」「今も、『愛してる』じゃなくて、『必要だ』って言うんですね」恭介の顔が歪んだ。「それでも5年だぞ。どうして、そんなに簡単に人を捨てられるんだ」「私を舞台裏に置き去りにして、発明者の名前を奪って、55億円の責任まで押しつけようとした人の言葉とは思えません」澪は携帯電話で、呼び出した警備員の到着時刻を確認した。「あと1分で、警備の方が来ます」「澪、頼む」「これからは、あなたの責任は、あなたが負ってください」「俺が刑務所に入っても、平気なのか?」「それは、私が決めることではありません。あなたがしたことと、裁判所が決めます」結婚してからずっと、彼の問題を先回りして片づけてきた。その習慣も、今日で終わりだった。* * *警備員が入ってきて、恭介を立たせた。連れ出されながらも、彼は澪の名前を呼び続けた。澪は振り返らず、作業台へ戻った。ピペットの先にたまった原液を、ビーカーに落とす。正確に、一滴。恭介の叫び声が廊下の奥へ遠ざかっても、指先は揺れなかった。管理人が床を拭くと、彼が残した泥水の跡も消えた。今度は、どんな関係も、どんな会社も、自分の基準を変えられなかった。* * *それから5か月後。東京家庭裁判所の調停室。証拠の確認と財産の評価を重ね、離婚調停が成立した。刑事事件と株主からの損害賠償請求を抱えた恭介は、婚姻が破綻した責任まで争う余力を失っていた。[黒

  • 私の香りを奪った夫へ   戻ってきてくれ

    社長を解任された夜。南青山の路地には、激しい雨が降っていた。アトリエの中は、温かな照明とアイリス、サンダルウッドの香りに包まれていた。最後の確認を終えようとしたとき、ガラス扉が乱暴に押し開けられた。「澪!」恭介だった。ビルの入口の暗証番号は変えてあった。それでも、予約客が帰る隙に入り込んだらしい。通ってきた床に、雨水が長く続いていた。澪はすぐ、カウンターの下にある警備用ボタンの位置を確かめた。濡れたスーツは泥で汚れ、顎には何日も剃っていないひげが伸びていた。パリでシャンパンを手にしていた男と、同じ人物には見えなかった。それでも、かわいそうだとは思わなかった。誰かに壊された姿ではない。自分で選んだことが、返ってきただけだった。澪はピペットをスタンドに置いた。「営業は終わりました。お帰りください」恭介の足が、力を失ったように折れた。タイルの床に、膝をつく。「頼む。一度だけ、聞いてくれ」胸元から濡れた書類封筒を取り出した。自分が持つルシエル株の譲渡意向書。仮差し押さえされた持ち株を、今すぐ渡せる贈り物のように差し出す。特許の発明者訂正に全面協力するという確認書。離婚と民事上の請求で、澪の条件を受け入れるという合意案。「俺の持ち株は全部やる。発明者も正す。賠償金も、お前の言う額でいい」「今のあなたに、自由に渡せるものがどれだけ残っているんですか」恭介の顔が固まった。「方法は考える。お前が同意してくれれば、どうにかなる」澪は書類に触れなかった。「もう、裁判所や特許庁で進めている話です」「お前が再建に加われば、投資家も考え直すと言ってるんだ。篠宮澪が戻るという報道さえ出れば、会社は救える」結局、目的は同じだった。再建計画に書ける技術と、投資家に見せる看板が欲しい。麗奈のいた場所に、今度は澪を立たせたいだけだ。必要なのは澪ではなく、澪が救う会社だった。* * *「全部、俺が悪かった」恭介は床に手をついた。「麗奈に目がくらんだんだ。一生かけて償う。もう一度、やり直そう」「麗奈さんが、あなたのアカウントで警告を消したんですか?」夫は口をつぐんだ。「私の名前を外せと、知財部門を脅したのも麗奈さん?」「あのときは、俺も……」「あなたが選んだことです」澪は膝をついた男を見下ろした。「やり直したら、何をする

  • 私の香りを奪った夫へ   社長解任

    水曜、午前10時。ルシエルの臨時株主総会。ホールは個人株主と機関投資家、傍聴に来た債権者たちの抗議で騒然としていた。入口では委任状と議決権の数を再確認していた。始まる前から、解任賛成が圧倒的だという話が広まっている。壇上の社外取締役が、議事に入った。「第1号議案、黒瀬恭介取締役解任の件を上程します」最前列の恭介が立ち上がった。「この会社を創業したのは私です! 海外の販売網も、投資家とのつながりも、すべて私が築きました。今、私を外したら、ルシエルは本当に終わります!」自分の功績を示すために用意した売上グラフ。その大半を支えていた商品は、澪が開発したものだった。示した資料が、逆に彼女の貢献を証明していた。第2位の株主、オリオン・アセットの代理人が立った。「私たちが投資した理由は、他社にない研究開発力と、製品の質です」声は、淡々としていた。「その技術を生んだ人の名前を消し、検証の済んでいない処方で量産を強行した。55億円もの危険に会社をさらした経営者を、これ以上信頼できません」代理人は研究記録を映した。売上が跳ね上がる時期と、澪の新作発売の時期は重なっていた。あちこちで、同意の声が上がった。恭介はマイクを握った。「澪が戻れば、解決できます。私が直接、説得します」「篠宮さんは、復帰する意思はないと、公に明言されています」最後の盾まで、消えた。恭介は個人保証もつけると訴えたが、資産はすでに仮差し押さえの対象だった。社長でいる理由も、会社を救う金も、出せなかった。* * *「採決の結果、賛成94.8%をもって、黒瀬恭介取締役解任の件は可決されました」その言葉が、ホールに響いた。続いて、民事再生手続きの申し立てと、恭介に対する損害賠償請求の議案も可決された。総会後の新体制では、外部から招いた経営の専門家が暫定の代表に選ばれた。品質事故の被害者と取引先への対応を優先する方針も発表された。恭介は、まだルシエル株を持つ株主だった。だが、処分は仮差し押さえで制限され、自分の議決権だけでは結果を変えられなかった。取締役でも、社長でもなくなった。「会場の秩序維持のため、ご退場ください」警備員が近づいてきた。「ここは、俺の会社だ!」「会社の執務区域への入室権限は停止されています」「俺が筆頭株主なんだぞ!」「株主であることと、業

  • 私の香りを奪った夫へ   初恋の裏切り

    月曜の朝、麗奈の独占インタビューが公開された。[白石麗奈「黒瀬社長に操られた私も被害者」]動画の中の麗奈は、化粧気のない顔で涙を拭いていた。背後には照明も、ブランドのロゴもない。パリの舞台では完璧な笑顔を計算した。今回は、か弱く見せるための演出だった。「私はマーケティング担当として参加しただけです。黒瀬社長に、検証済みの技術で、篠宮チーフも承諾していると言われて、信じてしまいました。発明者の登録や生産承認の経緯は、何も知りませんでした」麗奈は、恭介を詐欺と名誉毀損で告訴すると表明した。記事には、「初恋の相手に利用された女性幹部」という見出しがついた。自分が先に澪を犯人扱いしたことも、品質会議で研究員を威圧したことも語らなかった。55億円の責任と刑事捜査から逃れるため、恭介を切り捨てたのだ。* * *差し押さえに関する通知が積み上がった社長室で、恭介は記事を読み、スマートフォンを投げつけかけた。「麗奈、お前、何をしてるんだ……!」秘書も通さず、自分で電話をかけた。社内で彼の言うことを聞く人間は、もうほとんど残っていなかった。つながるなり、怒鳴った。『本当のことを話しただけです』「自分の名前だけにしろって言ったのは、お前だろ! パリで、自分が作った香水だと自慢してたときは、気分がよかったか?」『あの舞台を作ったのは、あなた。私は用意された台本を読んだだけ』「特許の書類に、自分で署名しただろうが」『社長の指示だったからです。法律の専門家でもないのに、わかるわけないでしょう』インタビューの涙声とは違った。麗奈の声は、冷たく、よく通った。「俺たちは、あれだけ愛し合っただろ。どうしてこんなことができる?」『愛?』短く笑う声がした。『成功した美容企業の社長だから、付き合ったんです。55億円の負債を抱えて、捜査まで受ける人と、一緒に沈む気はありません』「お前のために、澪まで捨てたんだぞ」『それは、あなたが選んだこと。奥さんの特許を奪えって、刃物でも突きつけた?』「麗奈……」『これからは、それぞれ生き残りましょう。もう連絡しないで』電話が切れた。恭介はしばらく、画面を見つめていた。澪を捨てて選んだ初恋の相手は、成功を失った途端、真っ先に自分を捨てた。それでも、澪への罪悪感より先に湧いたのは、自分が失ったものへの痛みだった

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status