Share

第3話

Author: カフェイン中毒男
逸平はそれを聞いて軽く笑った。「葉月、それはどういう意味だ?お前を無視した俺が悪いというのか?」

葉月は指先を少し震わせたが、「そんなつもりはないわ。言ったでしょ、ちゃんと自分のことをわきまえているって」と答えた。

逸平の目は暗くなり、口元に冷たい笑みが浮かんだ。「そうか、自覚があるならいい」

「だから、今すぐここから出て行ってもらえる?」

葉月は今、逸平の顔を見たくなかった。ただ逸平から遠くへ離れたいと思っていた。遠ければ遠いほどいいのだ。

逸平は葉月を病床から引きずり起こした。葉月の肩は痩せてて弱々しく、逸平が少し力を入れるだけで葉月は身動きが取れなくなった。

「葉月」逸平は冷たい声で、葉月に自分の方を向くよう強いた。「何をグズグズしてるんだ?」

葉月は逃げようとしたが、力の差は明らかで、葉月は諦めるしかない。

かつて葉月をときめきに溺れさせたその瞳は、今では窒息するような圧迫感しかなく、見つめ合うことさえ避けたくなる。

「放して」葉月の声は微かに震えている。

逸平は嘲笑い、手を緩めるどころか、むしろ身を乗り出して葉月の耳元に息を吹きかけながら言った。「どうした、今では俺を見るのも嫌か?」

「そうよ」葉月は目を閉じ、胸から溢れ出す感情を抑えてから再び目を開けた。その瞳にはもはやぼんやりさしか漂っていなかった。

葉月は逸平と視線を合わせた。「離婚届はもう用意してもらった。寝室の右側にあるベッドサイドテーブルの引き出しに入れてある」

葉月の口調は至って落ち着いており、まるで取るに足らない話をしているかのようだった。

「あなたの方で他に要求があれば、内容を変更できるわ。私は何もいらない。ただ離婚がしたいだけ」

空気は一瞬にして凍りつき、逸平の手の力が抜けた。

前回の離婚話はただの怒りに任せて言ったのかと思っていたが、葉月は本気だ。

二人は、喧嘩したり仲直りしたりを繰り返しながらもう3年が経ったが、離婚の話は一度も出たことがなかった。葉月が本当に離婚を決意するとは思わなかった。

逸平は葉月を放し、立ち上がって背を向けた。逸平は何とか冷静を保とうとした。さもなければ、事態がさらに収拾がつかなくなる恐れがあったからだ。

葉月は逸平の後ろ姿を見た。

出会って13年、結婚して3年、もうそろそろ終わりにしよう。

「両親のことは心配しなくていい。私から話しておくから」

「葉月!」逸平は突然、イライラを帯びた声で鋭く言った。逸平の顔の筋肉はこわばり、内から湧き上がる怒りを必死に抑えようとしている。

葉月はただ静かに逸平を見つめていた。この瞬間、逸平は葉月との間に見えない壁を感じた。目の前にいるのに、まるで遠く隔てられているように。

逸平は眉間を揉みながら、無力感に襲われた。「どうしてもそうするしかないのか?」

「そうするしかない」葉月はもう耐えられなかった。日々疑心暗鬼になること、そして終わりのない裏切りに。

逸平は頷き、口元に冷たい笑みを浮かべながらも、目の奥には鋭い冷たさが宿っている。「葉月、離婚はお前の思い通りになるとでも思うか?」

葉月は逸平を見上げた。瞳には一片の揺らぎもない。「逸平、私にこだわる必要はないわ。私を自由にして、あなたももう自分を苦しめないで」

逸平の目つきは急に冷たさを増し、湧き上がる怒りが理性の限界を超えかけている。

「ありえない。言っておくが、そんな考えはさっさと捨てろ」

そう言い残して逸平は病室を去った。病室のドアは激しく閉められ、窓ガラスまで震える音を立てた。

葉月は無意識にシーツを握りしめた。逸平がまた怒ったのだとわかっている。

ただ、逸平が怒る理由はどこにあるのか?離婚は逸平にとっても苦しみから解放されることになるのに。

政略結婚に無理に縛られ続ける必要もないし、スキャンダルに対してつまらない言い訳を並べる必要もない。心から愛することができる妻を新たに迎えられるのに。

これらは全て逸平が望んでいたことではないか。

逸平は駐車場に着くと、車のタイヤを激しく蹴った。車体が震えるほどの強さだ。

そうすることで、心の怒りが少し和らぐ。

冷静になると車にもたれかかり、ゆっくりとタバコに火をつけた。煙が漂う中、その深い瞳には一片の感情も読み取れない。

逸平は南原に電話をかけた。「南原さん、今夜は病院で彼女の面倒を見てくれ」

南原は逸平が誰のことを言っているかすぐに理解し、急いで荷物をまとめて病院へ向かった。

電話を切ると、男の指先のタバコの火は鮮やかな赤く揺らめいた。逸平は煙を吐きながら遠くを見つめ、その瞳の奥はぼんやりとしていた。

葉月が退院して最初にしたことは引っ越しだ。

離婚するなら、他人の家にずっと居候するのもよくない。

葉月は人に頼んで部屋を探してもらったあと、家賃もすぐに支払い、あとは荷物を持って入居するだけだ。

南原は葉月が荷物をまとめるのを見て、内心やきもきしていた。

「井上夫人、荷物をまとめてどちらへ行かれるのですか?」

葉月は服を畳む手を止めず、南原に言った。「南原さん、私はもうすぐ逸平と離婚いたします。これからここには住まないので、引っ越さなければなりません」

南原は驚いた。どうして離婚までこじれてしまったのか。

「井上夫人、お言葉ですが、何か問題でもあれば膝を突き合わせてちゃんと話し合いましょう。離婚は遊び半分でできるものではありません」

葉月は南原を見て、満面の笑みを浮かべた。数日前よりもむしろ明るく輝いて見える。

「南原さん、今まで大変お世話になりました。でも私と逸平は本当に合わないんです。私たちの関係はもうこれで終わりなんです」

南原は再び説得しようとしたが、言葉が喉に引っかかった。南原は誰よりも逸平と葉月の3年間の結婚生活の状況を知っている。

喧嘩、沈黙、そして無視。これらが結婚生活のほとんどの時間を占めていた。

葉月はいつも一人で静かに座り、日の出から日没まで一言も発しない。

逸平はよく家に帰らず、何日も姿を見せないことがあった。たまに帰ってきても、いつも他の女の痕跡をつけている。

南原には二人の関係が理解できない。

愛していないとは言いつつも、葉月は逸平の好みや習慣をすべて覚えていて、逸平が着る服にアイロンをかけたり、会食から帰ってきた後もちゃんと面倒を見ていた。

愛していると言いつつも、葉月はいつも逸平に冷たくあたり、「出て行け」や「気持ち悪い」などという言葉を浴びせていた。

では逸平はどうなのか?

南原は何度も逸平が葉月を見つめてはぼんやりしているのを目撃した。その目にはあふれんばかりの感情が渦巻いていた。

しかし次の瞬間には、逸平は葉月に冷たく背を向け、また違う女とイチャイチャしていた。

シャツについた口紅の跡や、スーツのポケットに入ったピアス、そして女の香水の匂い。

一つ一つ、すべてが裏切りの証拠だった。

南原はため息をつき、胸の内で何とも言えない味わいを感じる。

南原は葉月の片付けを手伝いながら言った。「もし本当に井上様とやっていけないなら、離婚した方がいいです。そうした方がいいです」

葉月は少し意外に思った。南原がまだ離婚を思い止まらせようと説得してくるかと思っていたから、心を動かされずにはいられない。

どれほど逸平を必要とした時も、いつも南原はそばにいてくれる。

葉月は南原を抱きしめ、声を詰まらせながら言った。「南原さん、ありがとうね」

南原は優しく葉月の背中を撫でながら慰めた。「大丈夫ですよ、きっとこれからの人生は良くなりますから」

逸平が家に着いたのは22時過ぎだった。

今朝、葉月が退院する時には、既に南原から状況の報告を受けていた。

逸平はネクタイを緩めながら玄関に入ると、シャンデリアの光が逸平の影を長く引き延ばした。

いつものように、逸平は真っ直ぐに二階へ上がり寝室へと向かった。

ドアを開けた瞬間、逸平は凍りついた。

ベッドには慣れ親しんだ姿はなく、シーツには一本の皺もない。

化粧台にあった物たちも全て消えている。

ただ月明かりが窓から差し込み、床を照らしているだけだ。

部屋全体があまりにも片付いていたので、むしろ逸平に不安を覚えさせるほどだ。

逸平は寝室のクローゼットを開けた。かつて葉月の服で埋め尽くされていた空間は今や空っぽで、ただハンガーが軽く揺れているだけだ。

逸平はウォークインクローゼットへ向かい、がらんとしたスペースの真ん中に立ち、高価な服や宝石類を見渡していた。

今やそれらは捨てられた展示品のように、皮肉にも照明の下に陳列されている。

逸平が贈ったものは、葉月は一つも持って行かなかった。

葉月は自分自身のものだけを持ち去り、逸平に関わるものは一切持って行かなかった。

病院で葉月が話したことを思い出し、逸平はベッドサイドテーブルへ歩み寄り、引き出しを勢いよく開けた。離婚届が静かに中に収まっている。

逸平は無表情で書類を取り出すと、離婚理由の欄を見た瞬間、目に嘲笑の色が浮かんだ。

そこには簡潔に記されている——「夫婦間の不仲、双方合意の上での離婚」

逸平はその文面を見て笑い、眉を吊り上げた。「合意の上だと?」

次の瞬間、逸平は離婚届を真っ二つに引き裂き、さっさとゴミ箱に捨てた。

「離婚したいだと?」男の瞳の奥には、執着じみた暗い激情が渦巻いていた。「葉月、それは無理だな」

離婚届は破り捨てられるし、葉月に持ち去られたものは自分で新調できるし、葉月も連れ戻せる。

しかし離婚だけは絶対にさせない。

どっちかが死なない限り、離婚なんて夢にも思うな。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第305話

    葉月が家で一眠りして目を覚ますと、もう六時を回っていた。携帯電話に二件の不在着信と未読メッセージが数件表示されていた。一番上に表示されているのは逸平からのもので、送信時間は三分前だった。【少しは休めたか?夕飯、何が食べたい?】葉月は少し考えて返信した。【わからない。今あまり食欲なくて、お腹も空いてないから、後で何か買ってくるわ】通りに面した住まいの利点は、階下に飲食店や屋台が並んでいて、降りればすぐに食べ物が買えることだ。メッセージを送ってすぐ、携帯が振動し、画面に「井上逸平」の名前が表示された。葉月は画面に表示された名前を数秒見つめ、ためらいながらもスワイプで通話に出た。通話を繋ぐと同時に、穏やかな声が受話器から聞こえてきた。「起きた?」葉月は「うん」と小さく返事をした。声にはまだ眠気が残り、起きたばかりのだるさが滲んでいた。「まだ眠り足りないんじゃないか?」逸平は彼女の声を聞いてそう尋ねた。葉月は携帯を少し離し、軽く咳払いをして言った。「十分休めたわ。今起きたばかりなの」逸平が時計を見て言った。「そうか。階下で適当に済ませるなんてダメだ。近くにうまい家庭料理店があってお粥が評判なんだ。寝起きに食うには胃にやさしくて丁度いいだろう」逸平の言葉は一見自然でさりげないものだったが、その心遣いに断り難い気がした。葉月はすぐには返事せず、ベッドから出て窓際に行き、階下のにぎわい始めた街並みからいろいろな料理の匂いが漂ってくる。元々あまり空腹ではなかったが、その香りが鼻をくすぐると、急に食欲が湧いた。逸平の声が再び聞こえた。「どう?今から出れば、五分後には階下に着くよ」葉月は携帯を握りしめた。指先が無意識に冷たい本体を撫でている。断る言葉が唇まで浮かんだが、結局は胸の奥でかすかに膨らむ期待に押し殺されてしまった。葉月は眠たげな鼻声で応じた。「うん。着いたらメールを送って。下に降りるから」「ああ。じゃあ後で」逸平の声にはかすかな喜びが滲んでいた。電話を切ると、葉月は洗面所へ向かい、目を醒まそうと顔を洗った。逸平が電話を切って振り返ると、いつの間にか傍に立っていた有紗の姿が目に入った。有紗を見て、逸平は表情をこわばらせた。有紗は壁にもたれながら、逸平が優しい口調で話すのを聞いていた。

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第304話

    逸平はそれ以上彼らと葉月について語り合うことはせず、話題を卓也と太一に移した。「お前らはいつ帰るんだ?」卓也は逸平を指さして不機嫌そうに言った。「ちぇっ。なんだよ、来たばかりなのに追い返そうってか?」逸平は卓也を一瞥した後、視線を太一に移し、彼に話すよう合図した。太一は逸平の視線を感じると、落ち着いた笑みを浮かべて話を引き継いだ。「今のところは他に用もないし、ちゃんと段取りをつけて来たから急ぐ必要もないし、少し長居できるよ」太一は少し間を置き、逸平を見ながら、探りを入れるような口調で続けた。「どうした?何か俺達に手伝えることがあったら言ってくれよ」卓也も真剣な表情で、身を乗り出し心配そうに言った。「手伝いが必要なら言ってくれ」普段はふざけるのが好きな卓也だが、肝心な時は決して手を抜かない。逸平はしばらく考え込んでから、ようやく彼らを見上げて言った。「追い返すつもりはないし、手伝いも必要ない」今は泰次郎の容体も安定していて、大きなプレッシャーもなくなった。「ただ、ここの環境はあまり良くないし、お前らをちゃんともてなせないのが気がかりで」「ちぇっ」と言って卓也は眉をひそめ、見下すような目で逸平を見た。言葉もぶっきらぼうだった。「何バカなこと言ってんだ?お前はお前で忙しくしてりゃいい。俺たちのことは気にすんな。俺たちみたいな大人が、お前の世話になる必要なんてないだろ?それにさ」卓也は太一に向かって顎をしゃくり上げた。「俺たち二人なら、どこだって生きていけるだろ?」太一も笑って頷いた。「ぺいちゃんは自分のことに専念してればいいよ。俺たちのことは心配いらない」太一は泰次郎の方を見た。「俺たちは、爺ちゃんと話したくて来たんだからさ」これは決して社交辞令ではなく、道理から言えば、泰次郎が倒れたのだから皆が見舞いに来るのは当然のことだ。振り返ってみれば、泰次郎がまだ一の松市にいた頃、彼らのような半端な年頃の少年は周囲から煙たがられる存在だった。彼ら三人だけでなく、他の若者たちも同様だった。だが彼らが三人を集まると、一の松市の天をもひっくり返す勢いがあった。彼らはどこに行っても歓迎されなかった。だが、泰次郎だけはどこに行っても歓迎されない彼らを見ると顔をほころばせて言った。「家にはお前たちのような賑や

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第303話

    なんと有紗も来ていたのだ。有紗は千鶴子の隣の椅子に横向きに座り、体を少し傾けて親しげに何か話していた。千鶴子は穏やかな笑みを浮かべながら、有紗の手の甲を優しく叩き、楽しげに話し込んでいた。「ぺいちゃんが来たぞ」太一が先にドアの人影に気づき、視線を向けて言った。それまで続いていた和やかな空気が一気に変わった。その瞬間、病室にいた人たちの視線が全てドアに立つ逸平に集まった。卓也が笑いながら声をかけた。「よぉ、忙しい奴が、やっと来たぞ」泰次郎も孫を見つめ、目に温もりを浮かべていた。有紗は声に反応して顔を上げると、逸平と視線が合った。彼女は上品な微笑を保ち、自然な様子で挨拶した。「逸平君」逸平は彼女を一瞥しただけで、軽く頷くとすぐに視線を外した。彼は病室に入り、母親に向かってうなずいた。「母さん」それから卓也たちにごく普通の調子で言った。「いつ来たんだ?」「結構前だよ。まったくお前はさ、メールの返信もないし、電話も出やしない。おばさんと連絡が取れてなかったら、ここにたどり着けなかったんだぞ」卓也は不満そうに言った。逸平は相手にせず、ベッドサイドに近づき泰次郎を見て言った。「爺ちゃん、調子はどう?」泰次郎はにこやかにうなずき、ゆっくりと言った。「良いだ……」泰次郎もこの年になると、子孫たちが元気でいるのを見るだけで嬉しいのだ。逸平はうなずくと、身をかがめて泰次郎の掛け布団の端を手慣れた仕草で丁寧に整えた。「元気そうでよかったよ」逸平はやさしい声で言った。卓也が横から冗談めかして、しかし心からの気遣いを込めて言った。「そりゃあ、俺たちが来てるんだから、調子が悪いわけないだろ?それよりお前、何でそんなに忙しいんだよ?こんなに遅くまで病院に来られないなんて」卓也は再びドアの方を見たが、逸平以外に誰も入ってくる気配はなかった。「葉月さんは?一緒に来たんじゃないのか?」「少し疲れているようだったから、先に休ませてる。後からまた連れてくるよ」千鶴子はそれを聞き、心配そうに尋ねた。「具合が悪いの?」千鶴子のそばに静かに座っていた有紗は、テーブルの上のコップを取り、指先で杯の縁を軽くなぞりながら、うつむいて一口飲んだ。睫毛が微かに垂れ、瞼に淡い影を落とし、一瞬眸に浮かんだ感情を隠した。逸平が答えた。「

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第302話

    バルコニーから陽の光が差し込み、二人の間の空間に長い影を落とした。葉月はグラスの中の水を俯いて見つめた。逸平の視線は珍しく穏やかな表情で沈黙する彼女に注がれた。「葉月」逸平は突然口を開いた。声は先ほどより低かたった。葉月が顔を上げると、彼の深淵のような眼差しがあった。唇が微かに動いたが、逸平は言いかけてやめ、結局何も言わなかった。逸平は胸が重く沈むのを感じながら、淡々と言った。「いや、何でもない。ゆっくり休んで」そして立ち上がった。遠ざかる背中を見ながら、葉月は小さな声で呼び止めた。「どこへ行くの?」逸平は隠さず言った。「下でタバコを吸ってくる。安心して。タバコを吸っても戻らずに、病院の方を見てくるから」葉月が一緒に病院へ行こうと立ち上がると、逸平が制止して言った。「まず休んだ方がいい。後で迎えに来るから病院に行こう」そう言うと、逸平は踵を返して去っていった。ドアが閉まる音を聞きながら、葉月は消えていく彼の背中を見つめた。指先に知らぬうちに力が入っていた。グラスに残る温もりとは裏腹に、心の中はなぜか虚ろだった。まるで風が吹き抜けるように、少し寒く感じた。……逸平は車にもたれ、指の間に挟んだ煙草は半分ほど燃え尽きていた。吐き出した煙の輪が冬風に揉みくちゃにされ、空気の中に消えていく。彼はバルコニーをじっと見つめた。揺れるレースのカーテンの奥にほっそりとした人影がかすかに見えると、彼の指先が微かに震えた。灰がはらはらと落ちて寒風に舞うと、逸平の黒いコートの裾に落ちた。人影が見えなくなると、逸平はわざと煙草を深く吸い込んだ。煙が染み渡り、痛みに似た鋭い感覚をおぼえた。ようやく煙草を消し、ドアを開けて車に乗り込んだ。車は団地を離れ、流れる車の川に合流し、病院へと向かった。県立病院は患者が多く、病室のベッドは不足していた。さらに病院が小さいせいか、逸平は廊下を歩くと、どこか窮屈に感じた。廊下には逸平の嫌いな消毒液の独特な臭いが充満しており、彼は思わず眉をひそめた。逸平が病室の入り口で、ドアを開けようとした時、病室から賑やかな笑い声が聞こえてきた。それは彼の全身に残る冷たさと鮮やかな対照をなしていた。逸平はドアノブを握る手を少し止めたが、やはりドアを開けた。病室の光景が目に飛び込んで

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第301話

    しかし葉月はそれを大した問題ではないと思った。葉月は玄関に立ち、室内の温かな設えをぼんやりと眺めていた。「寝室は南向きで、バスルーム付がついてる。少し狭いかもしれないけれど、暫くの間だし我慢してくれ」逸平は彼女のスーツケースを運びながら、落ち着いた声で言った。「とりあえず休んでくれ、片付けは俺がするから」葉月は逸平の話を聞いて、とても大袈裟に感じた。この家は一の松市の住まいには及ばないが、決して「我慢する」ほどではない。葉月の目の前の床には新しく買われた女性用のスリッパが置かれており、逸平が履いているものとペアになっていた。柔らかな起毛地に同じ模様が刺繍されていて、葉月の方には小さなリボンがついていた。葉月はそのスリッパをしばらく見つめてから、しゃがんで履き替えた。サイズはちょうどぴったりだった。葉月がリビングに入ると、室内は暖かく、エアコンがついているようだった。部屋を見回すと、ベージュのソファに薄灰色のカーペットが敷かれていた。窓の外には小さなバルコニーがあり、緑の植物がそよ風に揺れ、食卓には新鮮な百合が飾られていた。部屋全体が清潔で明るく、隅々まで手入れが行き届いている様子がうかがえた。すべてが、あの質素なホテルとは対照的だった。逸平は荷物を置くと、すぐにキッチンに向かって作業に取り掛かった。注文したばかりのウォーターサーバーがまだ届いていないので、逸平はまずキッチンで水を加熱した。逸平は上着を脱ぎ、シャツ一枚になった。キッチンの窓から差し込む陽光が逸平の肩で躍り、白いシャツを透かし、引き締まった背中のラインをかすかに浮かび上がらせた。葉月はキッチンの入り口でしばらく見ていたが、視線をそらし、ソファに座りに行った。間もなく、逸平が水の入ったグラスを持ってきた。「水を飲んで」逸平はグラスを葉月に渡した。カップから伝わる温度は熱くも冷たくもなく、ちょうど彼女が好む温かさだった。「ありがとう」葉月はグラスを受け取り、無意識に手の中で回した。逸平も葉月の隣に座ったが、近づきすぎず、一人分の距離を保ちながら、普段通りの口調で言った。「何か足りないものがないか確認してみてくれ。手配するから」葉月は小さく水を啜りながら、逸平を横目で見た。「こんなに手間をかけなくても」葉月は小声で言った。「長

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第300話

    ホテルの部屋には椅子が一つしかなく、逸平はそれを葉月の後ろに押しやり、自分は適当にスーツケースを引っ張ってきて座った。彼は丁寧に割り箸を割り、木のとげを磨いてから彼女に手渡した。「温かいうちに食べよう」そう言うと、今度は葉月のためにコーンスープの蓋を開けた。湯気がゆらゆらと立ち上り、彼の眉と目がぼんやりと見えた。逸平はコーンスープを葉月に手渡し、「熱いから気をつけて」と言った。葉月は彼の動作をすべて目に焼き付けながら、軽く礼を言って箸を受け取った。部屋の中は静かで、二人が黙って食事をするかすかな音だけが響いた。二人は食事しながら、それぞれに思いを巡らせていた。葉月はコーンスープをすすりながら、つい視線を逸平に向けてしまう。逸平は彼女が頻繁に向ける視線に気付いたのか、目を上げて「どうかした?」と優しく尋ねた。葉月は無意識に箸を指先で撫でながら、「食事が終わったら病院に行く?」と聞いた。「行かない」逸平は揚げパンを小さく割いて豆乳に浸しながら、「まず住む場所を変えよう」と言った。ここの環境は本当に悪く、以前は仕方なく、病院から離れられなかったので、暫くここに住んでいた。しかし今は泰次郎の容体も落ち着いたので、もうここに住み続ける必要はない。「新しい住まいを決めてから、病院に行こう」葉月は、軽く「うん」と返事をして、コーンスープをすすった。熱いスープが胃を満たし、体が温まった。逸平は麺を一杯食べ、豆乳を数口飲んだだけで食事を終えた。食べるのを止め、目の前の女性のやや青白い顔を見つめると、眉が自然とひそんだ。逸平は突然身を乗り出し、温かい掌で彼女の額を覆った。「熱はないな」彼は眉をひそめながら、「昨夜よく眠れなかったのか?」葉月の顔色は確かに優れなかった。逸平の指先の体温が肌から伝わり、葉月は少しばかり呆然とした。頭の中に突然何かがよぎった。もし今、彼に告げたら――このお腹に二人の子どもが育っていると。この手は、お腹の新たな命に触れてくれるだろうか?しかしその思いは一瞬で消え、彼女は結局そっと顔をそむけ、逸平の手を避けた。「昨日の夜、よく眠れなかったからかも」彼女は目を逸らし、残ったスープをスプーンでかき混ぜた。「大したことないわ」逸平はしばらくしてからゆっくりと手を引っ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status