第8話

逸平はソファに座っていた。アクセルを踏み込んで猛スピードで車で駆けつけたため、今もまだ興奮が冷めやらない。

葉月が逸平の前に立ち、口を開いた。「何しに来たの？」

葉月の冷たくよそよそしい口調を聞きながら、逸平はネクタイを緩め、ようやく楽に呼吸をすることができた。

逸平は葉月の手首を掴み、軽く自分の方へ引くと、葉月は反応する間もなく逸平の膝の上に座らされた。

「放して！」

あの夜のことを葉月は思い出し、恐怖がよみがえった。

逸平が放すはずもなく、片手で葉月の両手首を固く握り、もう片方の手で腰を抱き締め、逃げられないようにした。

「聞いたよ……お前が一方的に離婚を発表したって？」

逸平は低い声で問い詰め、温かい息を葉月の顔にそっと吹きかけた。葉月は不快そうに顔を背けた。

「答えろ！」逸平は強硬な態度をとった。

葉月は逸平がまたどうかしたのかと思った。自分はいつ他人に離婚したなんて話をしたのだろうか。

しかし振り返ると、逸平の襟元に残った赤い跡が目に入った。明らかに女性が使う化粧品の跡だ。

自分が不貞を働いておきながら、よくもそんな高圧的な口調で話せるものだ。

葉月は笑い、逸平の視線を捉えて軽薄な口調で言った。「逸平、次からこんな質問する時は、まず自分の服についた跡をきれいに拭ってからにしてくれない？でないと見てるだけで吐き気がして、話せないから」

「何を言ってるんだ？」

葉月は逸平の襟元を見た。

逸平も葉月の視線を追って襟元を見ると、赤い痕がついているのに気づいた。

逸平は心の中で呪った。さっきの女が触れた時に付いたのに違いない。

「これは話せばわかってくれる……」

「もういいわ。もうあなたが誰と一緒でも私とは関係ないもの」無駄な話はしたくない。ここまで来たら、もう話すことなどない。

逸平は言葉に詰まり、喉元に刺さった骨のように苦しくなる。

「放して」

逸平は一瞬、言い返す言葉を失って、言われた通りに手を放した。

葉月は立ち上がり、テレビ台の引き出しから書類を取り出した。

葉月は書類とペンを逸平に渡した。「いつまで経ってもあなたのサインがされた離婚届が届かないから、ちょうど今日ここにいるうちにサインして」

逸平はその紙に書かれた「離婚届」という大きな文字を見ると、こめかみがまた脈打つように疼き始めた。

逸平は歯を食いしばり、怒りのあまり言葉も出ず、離婚届を受け取ったがペンは受け取らなかった。

逸平は立ち上がった。逸平は葉月より頭一つ分以上も高く、一瞬にして葉月を圧倒する気迫を見せた。

葉月は一歩後退りし、顔を上げて逸平を見つめた。「サインして」

逸平は眉を吊り上げ、葉月の目の前で離婚届を真っ二つに引き裂き、手を離して床に散らばせた。

「離婚したくても、そんなに簡単にはいかない」

葉月は驚く様子もなく、床に散らばった紙切れを見てから再び逸平を見た。表情を変えず、相変わらず冷たいままで聞いた。「じゃあ、あなたは一体どうしたいの？」

逸平は本気で何かを考えているようだ。葉月を見下ろすその視線が交わると、そこには深く、冷ややかで、何を考えているのか掴めないような瞳がある。

ふと逸平は軽く笑い、ゆっくりと口を開いた。「葉月、俺の子供を産んでくれないか？子供が生まれたらすぐに離婚してやる。ただし、子供は俺のものだ。それに加えて20億円をやるよ。どうだ、この取引は損じゃないだろう」

「パン！」葉月はためらわず逸平の頬を平手打ちした。静かな部屋に響き渡るその音は、聞く者の心を震わせた。

「吐き気がするわ」葉月の手のひらはヒリヒリと痛むが、心の痛みには遠く及ばない。「逸平、子供が欲しければ外の女たちに産ませなさい、私には関わらないで！あなたって本当に気持ち悪いね！」

逸平は顔を背けるほど叩かれて、痛みで頬が痺れるほどだ。

逸平はゆっくりと顔を戻し、叩かれた頬に手を当て、舌で頬の内側を押さえながら葉月を見て、怒るどころか笑った。「なかなかやるな、力が強い。子供を産む時も問題なさそうだな」

葉月の声は震えている。「この恥知らずが」

逸平は葉月に痺れるほど強く叩かれた手を掴んだ。その掌は真っ赤になっている。

「これから人を殴る時はもっと適した道具を使った方がいい。俺はがさつで厚かましいが、お前のそんな繊細な手を傷つけてしまっては悪いからな」

葉月は力いっぱい手を引き抜き、胸を少し波打たせながら、「あんた狂ってるわ！」と叫んだ。

「ああ、ずっと前からだ」逸平は笑っているが、目は笑っていない。「急いで断る必要はない。考える時間をやろう。どう言っても、我が井上家の最初の子供の母親として、お前を損なうようなことはしない」

「ふっ」と葉月は笑い出し、聞き流した。

逸平は自分を何だと思っているのか？

葉月の澄んだ瞳が、逸平の底知れぬ深い眼差しとぶつかった。逸平の感情は葉月には読み取れず、その心の内はなおさら見えない。

おそらくこれは運命なのだ。二人はどうしても結ばれないのだ。

葉月は歩み寄り、逸平のネクタイを掴んで軽く引っ張ると、逸平の体を自分に密着させた。

葉月はその白くて細い指で逸平の胸板を撫でながら、つま先立ちになり、逸平の耳元で甘い吐息をかけた。「3年も待ってあげたのに、私のお腹を膨らませられなかったわね。逸平、本当に男として大丈夫なの？」

葉月はこのことに関しては決して我慢することはなかった。3年間の間にした回数も少なくはなく、ほとんど避妊もしなかったのに、一度も妊娠しなかった。

運命のいたずらなのか。二人の間には子供が授からないようだ。

この言葉が逸平の逆鱗に触れたのか、逸平の放つ気配はすっかり冷えきていった。

「葉月……」

葉月はその紅色の唇を艶やかに開き、微笑んだ。逸平の表情が徐々に険しくなるのを見て、なぜか心地良く、胸が震えるほど朗らかに笑い出した。

逸平は一瞬呆然とした。怒るべきなのに、葉月の輝く笑顔に心が勝手に柔らかくなっていく。

葉月は笑い終えると、冷たく逸平を突き放した。

「あなたの提案は受け入れられないから、諦めて。私があなたの子供を産むことなんてあり得ない。離婚に同意しようがしまいが、私は別れる」

逸平は深く息を吐くと、ネクタイを引きちぎり、スーツのボタンも外した。

逸平は葉月の後頭部を掴んだ。「葉月、無駄だ。お前は一生井上夫人として生きる運命なんだ」

「それなら試してみようか」葉月は顎を上げ、頑なな表情で言った。「あなたの忍耐が先に尽きるか、私の決意が先に揺らぐか」

逸平は低く笑った。「いいさ、一生付き合ってやる」

「葉月、覚悟しておけ。一生俺と張り合うつもりでいろ」

月明かりがレースのカーテンを通して床にまだらな影を落とす。二人の影は月明かりの中で絡み合い、触れられるほど近いのに、越えられない深い溝が永遠に二人の間に横たわっている。

おそらく、お互いを苦しめ合い、お互いが絡み合うことでしか、この壊れた関係を続けていくことはできないのだろう。

彼らの間の感情は常に歪んでねじれていた。

葉月はふと悟った。彼らの間にはもう愛するか愛さないかの選択肢などもはやなく、愛の中で窒息するか、憎しみの中で別れるかしかないのだと。

そして今、葉月は別れを選んだ。

葉月の手口は実に容赦なく、一切の余力を残さず、情けなど微塵もかけない。

一晩経ったというのに、逸平の頬にはまだ手形の跡がくっきりと残っている。

行人はどうしても逸平の顔の跡に目が行ってしまい、つい見つめてしまう。手口が荒いし、それに大胆だ。誰がやったのか気になってしょうがない。

その視線に込められた探りを入れるような好奇心と隠しきれずに滲み出る笑いを、逸平が無視するのは難しい。

「まだ見足りないのか？」逸平は書類を閉じ、じっと行人を見つめた。在原は思わず身震いした。

行人は俯き、笑いをこらえるのに必死で、声も出せずただ首を横に振るしかない。

午後になって卓也がまたやって来た。

普段は用事がなければ滅多に来ないような男が、よりによって今日を選んで来るとは、本当にタイミングがいいもんだ。