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第8話

Author: 笹しぐれ
夕凪は静かに首を横に振った。

多恵はほっと息をついた。

「やっぱりね。あんたがちゃんと教養のある子だってことくらい、見てりゃ分かるわよ。ここで掃除してるのは今だけで、いつかは絶対ここを出て行く人だって……」

夕凪の胸が、また小さく震えた。

そうだ。自分だって、峻や清音と同じ涼崎大学を出た人間なのだ。

「あんたには人に言えない事情があるんだろうし、私もこれ以上詮索はしないよ。でもね、これだけは言わせて。

あんたはいい子だよ。何があっても絶対に諦めちゃ駄目。つまずいたって、そこからまた立ち上がればいいんだから……」

多恵の声には、力強い優しさがこもっていた。

夕凪はたまらず目頭が熱くなり、じわりと涙がにじんだ。喉の奥が詰まって、ようやく声を絞り出した。「……ありがとう、ございます……多恵さん……」

――多恵の姿が、亡き母と重なった。きっと天国のお母さんが、一人ぼっちの私を放っておけなくて、自分に代わって背中を押してやってほしいと、多恵さんをそばに遣わしてくれたのかもしれない。

もちろん、諦めるつもりなんてない。

峻との離婚手続きを済ませ、自らの手で冤罪を晴らした時こそ、新しい人生が始まる時だ。

そう思うだけで、未来にはまだ希望の光が残っているような気がした。

夕凪がそんなふうに密かな決意を噛み締めていると、不意にドアが乱暴に叩かれた。

「瀬戸さん!急いで三番ルームの掃除に入って!」

夕凪は清掃用具を手に駆けつけ、重いドアを押し開けた。

目に飛び込んできた光景に、心臓がどくんと跳ねた。

若いホステスが顔を覆って泣きじゃくっている。その目の前に、泥酔して顔を真っ赤にした男が仁王立ちになっていた。周りの男たちも、止めるどころか下卑た笑いではやし立てている。

床には割れた酒瓶の破片が散乱し、目を覆いたくなるような惨状だった。

あのホステスに見覚えはない。おそらく入ったばかりの新人だろう。

夕凪の体が、一気に強張った。

こういう場所では、酔った勢いでホステスに手を上げるたちの悪い客が必ずいる。大事にならなければ、店側も見て見ぬふりをするのが暗黙の了解だった。

心臓が早鐘を打ち、血の気が引いていく。夕凪は急いで顔を伏せ、黙々と床の破片を片付け始めた。

ところがそのホステスが、突然夕凪の手をぎゅっと掴んだ。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必死にすがりついてくる。

「清掃員さん、お願い……理紗さんに伝えて、助けに来てって!もう辞めます、お家に帰りたい、もう本当に無理なの……うぅっ……」

「このアマ、まだ泣くか……!」

男が激昂し、もう一発ホステスの頬を張ろうと大きく手を振り上げた。

夕凪は本能的にホステスを自分の背中に庇い、前に立ちはだかった。

とっさの動きでその平手打ちはかわしたものの、それが皮肉にも、男たちの注意を完全に夕凪に向ける結果になってしまった。

「おや?正義の味方の掃除のおばちゃんかよ!」一人の男が口笛を吹いて冷やかした。

「おい、おばちゃんって言うけど、マスクの上の目はかなり若くねえか?あっちの女と同じくらいだろ」

「へえ!こんなに若えのに、股を開くよりモップを握る方を選ぶってか。そっちのほうがホステスよりそそられるじゃねえか」

男は下卑た言葉を吐きながら、夕凪の腰にぬらりと手を回そうとした。

夕凪はぞっとして、咄嗟にその男を力いっぱい突き飛ばした。

不意を突かれた男は大きく二歩よろめき、「バシャッ!」と盛大な音を立てて、夕凪が持ってきた水バケツの中に尻餅をついた。

「唐沢さん……!」

「おい、大丈夫か!」

周囲の男たちが一斉に慌てて声を上げた。

唐沢惟人(からさわ ゆいと)がバケツから這い上がった時には、高価なスラックスの下半身がびしょ濡れだった。まるでお漏らしをしたような惨めな有様だ。

酔いが一気に醒め、惟人の目に殺意に近い怒りの火が点いた。

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