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第5話

Author: 笹しぐれ
だが、夕凪はすぐに飛びつくことはしなかった。不安げに眉を寄せる。

「でも……」

言いかけて、口をつぐんだ。桐生家と御堂家は商売敵だ。この男の厚意を素直に受け取っていいものか。

司はにやりと笑った。

「そんなに警戒するなよ。大荷物抱えて仕事を探し回ってるってことは、行く当てがないんだろ?俺はただ、困ってる人間に手を貸してやろうってだけだ」

それでも夕凪の警戒は解けない。司はその様子を見て、声を上げて笑った。

「あんたを利用するつもりなら、今すぐ御堂さんに電話してるさ。わざわざこんな地味な仕事を回す必要がどこにある?

まあ、働くか出ていくかはあんたの自由だ。好きにしろ」

そう言い残して、司は背を向けた。

夕凪はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかる背中を見つめていた。胸の中は迷いでいっぱいだった。

一時間後、司はクラブの奥にあるオーナー室で、革張りの椅子にだらしなく身を沈め、デスクの上に両足を投げ出していた。

スマホを取り出し、理紗にメッセージを送った。【あの女、どうした?】

理紗から即座に返信が来た。【オーナー、残ることにしたみたいです】

司の口角がさらに上がった。その瞳の奥で、心底面白そうな光が強くなった。

瀬戸夕凪。瀬戸家の令嬢にして、御堂グループ総帥の妻。その女が何もかも捨てて、よりによってこんな場所の清掃員に収まるとは。

面白い。実に面白い。

この女をここに置いておけば、いずれ何か面白いことが起きるに違いない。

――こうして、夕凪はクラブ「クラウド」の清掃員として働き始めた。

司と峻が宿敵同士だということは分かっている。だが今は、生き延びることが最優先だ。路上で飢え死にするわけにはいかない。

夕凪は心に決めた。常に周囲に気を配り、峻の声が聞こえたり、姿が見えたりしたら、即座に身を隠す。それだけだ。

それから何日も経ったが、峻が夕凪を探しに来る気配はなかった。司は本当に、彼女のことを黙っていてくれているらしい。

清掃員の中で夕凪は一番若かったが、一番がむしゃらに働いた。

誰もやりたがらない汚れ仕事も率先して引き受け、ひたすら手を動かした。夕凪が磨き上げた後の床は、鏡のように光っていた。その働きぶりは、あの口うるさい理紗にさえ気に入られるほどだった。

当然、他の清掃員たちからは陰口を叩かれた。あんなに必死になってどうするの、たかが清掃員のくせに。どれだけ頑張ったところで給料が上がるわけでもないのに、と。

夕凪にも分かっていた。自分の働きぶりが、彼女たちの居場所を脅かしているのだと。

だが、気にしている余裕はなかった。

がむしゃらに働くのは、この職場に居場所を確保するためだけではない。もっと大事な理由がある。

このクラブに出入りする客の大半は、涼崎の上流階級だ。かつての夕凪を知っている人間がいくらでもいる。

だから夕凪は毎日マスクをつけ、だぶだぶの作業着に身を包み、常にうつむいて黙々と手を動かし続けた。こうしていれば、目の前の薄汚れた清掃員と、かつての涼崎一の令嬢を結びつける者などいない。

夕凪はもう一つ、密かに決意していた。

働きながら、三年前の清音の死の真相を突き止める。

冤罪を晴らすことさえできれば、まともな仕事に就ける。胸を張って、堂々と生きていける。もう二度と、日陰でびくびくしながら暮らさなくて済むのだ。

――ある夜。

狭くて黴臭い用具室の片隅で、夕凪はモップの柄にもたれて目を閉じていた。

出所してから、もう一ヶ月が経っていた。

不意に、足音がバタバタと近づいてきて、ドアが乱暴に叩かれた。

「瀬戸さん!すぐVIPルームの掃除に入って!」

夕凪は飛び起き、バケツとモップと雑巾を手に駆け出した。

VIPルームの重い扉を開けた途端、むわりと熱気が押し寄せた。酒と煙草の匂いが絡み合い、カラオケの重低音とけたたましい笑い声が鳴り響いている。夕凪は吐き気をこらえ、マスクを深く引き上げると、壁際にしゃがんで黙々と床を拭き始めた。

その時だった。

「おい御堂さん!いっつも誘っても絶対来ないくせに、今日はどういう風の吹き回しですか!」

泥酔した男の甲高い声が響いた。

夕凪の手が凍りついた。

全身の血が一瞬で引いていく。握っていた雑巾が指の間からするりと抜け落ち、バケツの中に落ちて水しぶきを上げた。

すぐそばのソファに座っていた男の高価そうなスーツに、水が派手に跳ねた。

「おいっ!何しやがる!」

結城和哉(ゆうき かずや)と呼ばれるその若手社長が、激昂して立ち上がった。

部屋中の視線が一斉に夕凪に突き刺さる。

――峻も、こちらを見ているのだろうか。

心臓が喉元まで跳ね上がり、目の前が暗くなりかけた。

ついに、彼がこの場所に来てしまった。

司が密告したのか。それとも、ただの偶然か。今はそれを考えている場合ではない。

声を出せば終わりだ。夕凪はとっさに声が出せないふりをして、何も言わずに和哉に向かって何度も何度も深く頭を下げた。

「なんだ、口もきけねえのかこのババア!」

「まあまあ結城社長、落ち着いてくださいよ。清掃のおばちゃんも悪気があったわけじゃないでしょう。今日は御堂さんがいらしてるんですから、ここはひとつ大目に見てあげましょうよ」

周囲のとりなしに、和哉は舌打ちしながらソファにどかと腰を下ろした。

「チッ……御堂さんの顔を立てて今日は見逃してやるが、次はねえぞ。口がきけなかろうが関係ねえからな」

その凄みのきいた声に、夕凪は背筋が凍った。

この男たちは、力と金がすべての世界の住人だ。そして峻は、この連中の頂点に君臨する男――彼らより遥かに恐ろしい人間だということを、夕凪は誰よりもよく知っている。

しばらくの沈黙の後、峻の低く冷えた声が響いた。

「今日は残業がなかった。それだけだ」

先ほどの泥酔した男が下卑た笑い声を上げ、隣のホステスの腰を抱き寄せた。

「ははっ、またまたぁ!奥さんが出てきたって聞きましたよ?三年も独り寝だったんでしょう?今ごろ毎晩お楽しみなんじゃないですか?」

「はっはっはっ……!」

夕凪の手が、モップの柄を握りしめたまま強張った。危うくバランスを崩し、和哉の足元にモップを倒してしまいそうになった。

すんでのところで堪えた。でなければ今夜、和哉は二度目の災難に見舞われるところだった。

「いやぁ御堂さん、三年ぶりの奥さんとの夜はいかがですか?久しぶりのほうが燃えるって言うじゃないですか、ねぇ?ははは……」

夕凪はモップの柄を折れんばかりに握りしめた。

心臓はまだ狂ったように脈打っている。

べつに、峻の答えを聞きたいわけではない。三年前にとっくに愛想は尽きている。ただ――正体に気づかれることが怖かった。

峻は無言でグラスをテーブルに置いた。

カチン、という小さな音が、部屋の喧騒を一瞬で断ち切った。

「あいつは俺が正式に娶った妻だ。お前の隣にいる女と同列に語るな。言葉を選べ」

静かな声だった。だがその一言に、有無を言わさぬ凄みが滲んでいた。

男の顔が蒼白になり、慌てて口をつぐんだ。

その隙に、夕凪は逃げるように部屋を飛び出した。

廊下の壁に背中を預け、膝から崩れ落ちそうになりながら荒い息を吐く。

全身から冷や汗が噴き出していた。

――司は、密告していなかった。本当にただの偶然だったのだ。

それはいい。だが、彼は自分を憎んでいるはずだ。

三年前。清音が車に轢かれ、大量の血を流して倒れていた。

病院に運ばれたが、間もなく医師が処置室から出てきて、首を振った。清音の心臓は、もう動いていなかった。

警察が捜査に乗り出した。しかし何日経っても有力な手がかりは見つからず、ただの事故として処理されようとしていた。運転していた人間も、あの事故で命を落としていたからだ。

だが峻だけは納得しなかった。独自に証拠を掴み、夕凪を殺人犯として法廷に引きずり出したのだ。

夕凪には分かっている。あの証拠は、何者かが意図的に捏造し、峻に発見させたものだ。すべては自分を陥れるために仕組まれた罠だった。

けれど、それを仕組んだのは誰なのか。何のためにそんなことをしたのか。

夕凪は拳を強く握りしめた。

真相を暴き、冤罪を晴らす。それだけが、自分の人生を取り戻す唯一の道だ。

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