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第6話

Author: 笹しぐれ
それにしても、なぜ峻はあんなことを言ったのだろう。

「正式に娶った妻」だと?

夕凪はすでに離婚協議書を置いてきた。峻が判を押しさえすれば、所定の手続きを経て二人の婚姻は終わる。晴れて自由の身になれるはずだ。

それこそ、峻がずっと望んでいたことではないのか。

――ふいに、背後でVIPルームの重い扉が内側から引き開けられた。

夕凪はびくりと身を竦め、我に返るや否や逃げ出そうとした。

「待て」

呼び止められた。しかも、この低く冷たい声はまさか……?聞き間違えるはずがない。あの人、峻だ!

夕凪の頭の中が真っ白になり、足が凍りついた。一歩も動けない。背筋が棒のように硬直し、指先から急速に体温が消えていく。

足元から這い上がってきた氷のような冷気が、血管を伝うようにして一気に頭のてっぺんまで突き抜けた。

――まさか……気づかれた?

――清音の仇を討つために、私をどうする気なのか?

「お前、何て名前だ」

案の定、峻の怪訝そうな声が背中に突き刺さった。

頭の中で、激しく警鐘を鳴らすような轟音が響いた。

「こっちを向け。名前を言え」

低く、峻の有無を言わさない声が重ねて飛んでくる。

夕凪は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

――この場は、もう逃げ切れない。

覚悟を決め、ゆっくりと体を回した。だが、絶対に口を開くわけにはいかない。代わりに両手を持ち上げ、無我夢中で手話を繰り返した。

刑務所にいた頃、同房に言葉の不自由な受刑者がいて、暇を見ては手話を教えてもらっていた。まさかこんな形で役に立つ日が来るとは。夕凪の手の動きは淀みなく、付け焼き刃には見えないほど自然だった。

峻は眉間に、深いしわを寄せた。

「……本当に話せないのか」

――さっき、この清掃員が部屋を出ていく後ろ姿が、ほんの一瞬だけ夕凪に重なって見えた。だからつい、衝動的に追いかけてしまったのだ。

だが、マスクこそ外していないものの、だぶだぶの作業着に着膨れした体つきも、淀みなく手話を操るしぐさも、どこからどう見てもただの清掃員だ。とても演技には見えない。

峻は思わず鼻で笑った。自分が馬鹿らしくなったのだ。

瀬戸家の令嬢だぞ。小さい頃から蝶よ花よと甘やかされて育った女が、身分を捨てて、こんなところで掃除婦などやるはずがないではないか。

こんな女を夕凪と見間違えるとは、よほど頭がどうかしていたらしい。

一ヶ月前、出所した夕凪は汐見台の別荘に一度だけ戻り、私物だけ持って離婚協議書を残して姿を消した。

はじめは、三日もすれば一文無しで行き詰まり、すごすごと帰ってくるだろうと高を括っていた。

ところが一ヶ月が経っても、夕凪は戻らなかった。

峻は柊吾に命じて人を使って探させ、さらにコネを使って街中の防犯カメラの記録まで洗わせた。それでも、夕凪の足取りは一切掴めない。まるでこの世から蒸発してしまったかのようだった。

あの女は、一体どこへ消えた?涼崎を出たのか?

――だが、どこに隠れようと、必ず見つけ出す。

「……もういい。行け」

峻は忌々しげに眉間を揉み、気怠げに手を振った。

踵を返し、消えていくその長身の背中を、夕凪はただ呆然と見つめていた。

胸に込み上げたのは、苦みと、寒々しい虚しさだった。

痛みだけは、なかった。

三年間の獄中生活は、あまりにも孤独で、あまりにも長すぎた。かつて心にあった棘のような自尊心も、あの残酷な歳月の中で、とうに一本残らず抜かれてしまっていたのだ。

今の夕凪にとって、峻はただ恐ろしいだけの存在だった。ひたすら、遠く遠く離れていたかった。

……

仕事が軌道に乗り始めた頃、夕凪はもう一つの目的のために動き出した。

それは、冤罪を晴らすことだ。

シフトが休みの午後、だぶだぶの作業着を脱いで以前の服に着替え、バスを乗り継いで涼崎署の刑事課へ向かった。

三年前の事件の再調査を求める人間が来たと聞き、執務室の奥から渋い顔で出てきたのは、刑事課の課長、夏目圭吾(なつめ けいご)だった。

圭吾はタバコを深く吸い込み、吸い殻が半分ほど溜まったペットボトルの中にヤニで黄ばんだ指先でフィルターをねじ込んだ。

「ったく、昔の裁きじゃ訴え出た奴がまず棒叩きの刑に遭ったっていうが、今ならその気持ちが分かるぜ。手持ちの案件だけで手が回らねえってのに、わざわざ終わった事件を蒸し返しに来る奴がいるとはな」

ぼやきながら振り返った圭吾は、そこに立っている人物を見て、目を見開いた。

「――あんたか」

三年前のあの不可解なひき逃げ事件。当時の捜査を仕切っていたのは前任の課長で、圭吾はまだ一介の刑事にすぎず、別の事件を担当していた。

前任の課長が有力な手がかりを掴めないまま、峻が独自に証拠を提出し、夕凪を犯人だと断じた。

だが圭吾は、署内で一度だけすれ違った夕凪の顔を覚えていた。直感が告げていたのだ――この女は、人を殺せる目をしていない、と。

もっとも、すぐに長期出張に出てしまい、戻った時にはすべてが終わっていた。夕凪には懲役三年の実刑が下されていたのだ。

「この事件について、何か考えがあって来たのか」

圭吾の声が急にトーンを落とした。

傍らの若い刑事が目を丸くした。さっきまで悪態をついていた課長が、なぜ急にこんなに穏やかになったのか。

――やっぱり、美人は得だな。

夕凪はまっすぐに圭吾を見据えた。

「夏目さん。三年前の事件の捜査記録を見せていただけませんか」

三年前の法廷では、ただ泣きながら峻に助けを求めることしかできなかった。だが今は違う。自分の手で、証拠を見つけなければならない。

若い刑事が即座に拒否しかけた。「そんなの駄目に決まって……」

「見せてやれ」圭吾がぼそりと遮った。

若い刑事は口をつぐんだ。

十分後。夕凪は机に向かい、静かにファイルをめくっていた。

やがて、ある名前のところで指が止まった。

「段野悠雨(だんの ゆう)……この名前、どこかで聞いたことがある」

若い刑事がすかさず口を挟んだ。「事件の重要参考人だ。犯行現場の近くであんたがうろついていたと最初に証言した人物だよ。あんたが、被害者を轢いた運転手と話しているところを目撃したとも言っている」

被害者を轢いた運転手は、事故の現場で即死していた。

のちに峻が法廷に提出した証拠が、まさに夕凪と運転手が会話している写真だった。

実際は、運転手に道を聞かれて答えただけだ。それだけの光景を何者かが撮影し、峻の手に渡るよう仕向けたのだ。

もっとも裁判では、写真だけでは会話の内容を立証できないとして、それ単独では決定的な証拠とはならなかった。

夕凪は記憶の糸を必死にたぐった。目に、鋭い光が宿る。

「段野悠雨……この人に絶対どこかで会ったことがあります。たしか……清音の、涼風清音の誕生日パーティーです!」

清音の二十一歳の誕生日パーティー。あれは峻が彼女のために開いたものだった。夕凪はイベント会社のスタッフに紛れ込み、清音がどんな顔をしているのか自分の目で確かめようとした。

その時、うっかり一人の男にぶつかり、散々罵倒された。すると清音がやって来て、その男を「悠雨お兄ちゃん」と呼んだのだ。

悠雨は舌打ちして言った。今日は自分のいとこの誕生日だ、その顔を立てて見逃してやる、と。

夕凪はそもそも後ろめたさでいっぱいだったから、そのまま逃げるように会場を後にした。

圭吾は言った。「つまり……あの段野悠雨は、被害者の『いとこ』だったということか?」

圭吾の表情が、一変した。警察の当時の記録には、悠雨と被害者の間に血縁関係があるなどとは一切記載されていなかったからだ。

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