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第7話

Author: 笹しぐれ
「はい、間違いありません」

夕凪が力強く頷いた。

若い刑事が信じられないといった顔で首を傾げた。

「しかし、当時の捜査では段野悠雨と被害者の間にいかなる接点も確認されていません。現場付近を通りかかった警備員というだけの人物だったはずですが……」

少し考え込んでから、若い刑事は圭吾の方を振り返った。

「課長、これはやはり……段野悠雨の周辺を洗い直す必要がありますね」

圭吾は厳しい顔で深く頷いた。

「ああ。すぐに取りかかれ。段野と被害者の本当の関係を、底の底まで徹底的に洗え」

「了解しました」

……

涼崎署を出た夕凪は、冬の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

胸の奥に覆いかぶさっていた重苦しい靄が、少しだけ晴れていく気がした。

夏目課長ならきっと、時間と労力を惜しまずこの事件を掘り返してくれる。

冤罪を晴らせるかもしれない。そのささやかな希望が、三年間の地獄で冷え切っていた心をじんわりと温めてくれた。

足取りも軽く、夕凪はバスに揺られてクラブの寮へと戻った。

……

汐見台の別荘。

その夜、峻はベッドの上で何度も寝返りを打っていた。どうしても眠りにつけない。

数日前、クラウドで見かけたあの清掃員の後ろ姿。夕凪にそっくりだったあの背中が、まぶたの裏にこびりついて離れないのだ。

――あの女は、今どこにいるのか。

苛立ちまぎれに乱暴に体を反転させた拍子に、枕の下から何かが滑り落ちた。

拾い上げると、一枚の写真だった。

白いブラウスに、肩に流れる艶やかな黒髪。飾り気のない顔で、静かに微笑んでいる清音だった。

彼女は涼崎大学の優等生で、森林環境学を専攻していた。指導教授には将来を嘱望され、同級生たちからも慕われていた。

霧雨の中で凛と咲く、可憐な白い花のような人だった。あれほど純粋で、善良で、誰よりも優しかった彼女の若い命は、三年前のあの午後、唐突に絶たれた。

――なのに、写真を見つめているうちに、峻の胸の奥に理由の分からない苛立ちがどす黒くこみ上げてきた。

無性に、強い酒が飲みたくなった。

……

色とりどりのネオンが瞬くバーのカウンターで、峻は一人、グラスを傾けていた。

何杯か空けるうちに、酔いが回り始める。だが頭の中の鬱陶しい靄は、いっこうに晴れなかった。

峻から放たれる圧倒的な威圧感に、店内の女たちは誰一人として声をかけようとしなかった。自分には釣り合わないと本能的に悟ったのだ。

そんな中、一人の若い女が自信たっぷりの笑みを浮かべてすり寄ってきた。

「一人なの?奇遇ね、私もなの」

容姿も雰囲気も悪くない女だった。きっと相手は目を輝かせるだろうと高を括っていたのだろう。だが峻は顔を上げることすらせず、氷のように冷たく言い放った。

「妻がいる。他を当たれ」

女の笑顔が凍りついた。

これまでありとあらゆる断り方をされてきたが、こんな一刀両断の拒絶は初めてだった。

見るからに権力者然とした佇まい、触れるのも憚られるほどの気品。それでいて、こんなにも厳格で、一途だなんて。この人の奥さんは、一体どれほど幸運な星の下に生まれたのだろうか。

そう思うと、かえって嫉妬と対抗心が燃え上がった。女はわざと体を寄せ、甘い声で囁いた。「ここにいる男の人なんて、ほとんど既婚者よ?一杯つきあうだけじゃない。そんなに固いこと言わないでよ」

しかし、グラスを見つめていた峻の目が、ゆっくりとこちらを向いた。

その瞳の奥に宿る射殺すような冷気は、まるで真冬の氷柱のようだった。

女は全身にぞわりと鳥肌を立て、声も出せずに逃げ出した。

……

峻が泥酔して店を出たのは、深夜も更けた頃だった。酒で神経を麻痺させ、ようやく頭の中の雑念を黙らせることができた。

入口には、運転手の忠がすでに車を回して待っていた。

ふらつく足で後部座席に向かおうとした、その時だった。

視界の端に、一つの影が飛び込んできた。道路の向こう側で、一人の女が黒い高級車に乗り込むところだった。

峻の体がびくりと震えた。酔いが一瞬で引いていく。

彼はとっさに忠にあの車を追うよう命じた。

冬の深夜、通りを走る車はほとんどない。すぐに前方の車に追いついた。

黒い高級セダンだった。最上位グレードの車体が、街灯の下で鈍く光っている。最初は何事もないように一定の速度で走っていた。

だが、バックミラーで追跡に気づいたのだろう。突然、猛然と加速した。

「早く!追いつけ!」峻が荒い息で叫んだ。

しかし、交差点の信号が変わったところで、セダンはそのまま振り切るように走り去ってしまった。

忠が額の冷や汗を拭いながら振り返った。

「若様……あの車に乗っていたのは、どなたですか」

まるで走り屋のような運転だった。数十年ハンドルを握ってきた自分が追いつけないとは。忠は内心舌を巻いていた。

峻は後部座席に深く沈み込み、目を閉じたまま黙っていた。自分でも、何を見たのか分からなかったからだ。

まさか、死んだはずの清音を見た、などと言えるわけがない。忠を心臓発作で殺す気か。

「……帰るぞ」

暗い車内で、峻の表情は沈鬱に翳っていた。

見間違いだ。清音はもう死んでいる。さっき車に乗り込んだ女が、清音であるはずがない。

ただ――後ろ姿が、あまりにも似ていた。

この世に、あれほどよく似た人間がいるものなのか。

最近の自分はどうかしている。クラウドでは清掃員を夕凪と見間違え、今度は見知らぬ女を死んだ清音だと思い込む。

いよいよ目がおかしくなったらしい。

――明日、柊吾に言って眼科の予約を取らせよう。

……

同じ頃、クラブの用具室。

夕凪が壁にもたれて仮眠を取っていると、ふいに肩をそっと叩かれた。

はっと目を開けると、見慣れた穏やかな顔があった。羅川多恵(らかわ たえ)だ。手には、小さなチョコレートが一粒乗せられている。

「多恵さん!」

夕凪の顔に、自然と笑みがこぼれた。

十人以上いる清掃員の中で、夕凪に優しくしてくれるのは多恵だけだった。

だが、そのチョコを見てすぐに眉をひそめた。

「多恵さん、こんな高いもの……どうしたんですか」

多恵は清掃員の中で一番家計が苦しかった。息子の嫁が最近女の子を産んだばかりで、ミルクやオムツにと出費がかさんでいるはずだ。

多恵は目尻にシワを寄せて、にこにこと笑った。

「お昼に親戚の結婚式に出てね、引き出物のお菓子でもらったんだよ。このチョコレート、すごくおいしいんだって。だからあんたにって思って、持ってきたの」

夕凪はほっと胸を撫で下ろしたが、それでもチョコレートをそっと押し返した。

「ありがとうございます、多恵さん。でも、やっぱり多恵さんが食べてください。私、甘いものは苦手で……」

本当は、もうずっとチョコレートなど口にしていなかった。

三年前、峻に刑務所へ送られた直後のこと。同房の受刑者の差し入れから飴を一粒分けてもらい、口に含んだ。

けれどなぜか、甘いはずの飴がひどく苦く、渋く感じられて、涙が止まらなくなった。胃液まで込み上げてきて、吐きそうになった。

あの日以来、甘いものが一切受け付けなくなってしまったのだ。

多恵はそんな事情など知る由もなく、夕凪の手にチョコレートをぐいぐいと押し込んだ。

「何言ってんの、若い子はこういうの好きでしょうが。あんたはね、こーんないい子なのに、いっつも笑わないんだから。だから甘いもの食べて、毎日を甘く楽しく過ごさなきゃ駄目よ……」

多恵は一度喋り出すと止まらない。だが夕凪はそれをうるさいとは思わなかった。むしろ、胸の奥がきゅっと締めつけられるような温かさを感じた。

もしお母さんが生きていたら、きっと多恵さんみたいにくどいくらい心配してくれたんだろうな。

「そうだ瀬戸さん、あんたまだ若いのに、本当にずっとここで清掃員を続けるつもり?」多恵がふと真顔になって尋ねた。

夕凪の胸が、ちくりと痛んだ。

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