ログイン夕凪には、紫月が何を言っているのかさっぱりわからなかった。「私が知るわけないじゃないですか。それに、副社長だって言っていたでしょう?おじさんかもしれないって……」夕凪は毎日、設計案のことで頭がいっぱいだった。他のことに気を配る余裕などない。まして、その副社長と自分には何の接点もなかった。ところが紫月はたちまち目を輝かせ、声を弾ませた。「おじさんなんかじゃありません!若くて、ものすごくイケメンなんですよ!」それでも夕凪には、まだ話が見えなかった。「もう、神崎グループの若き後継者、神崎修一(かんざき しゅういち)に決まってるじゃないですか!今回涼崎市に視察に来るご本人ですよ。京央大学を出て三年海外留学した後、二年前に神崎に入社して、わずか一年で、その先見の明と決断力、実務能力を認めさせ、株主たち全員を納得させたんですよ。それで株主の方から副社長に推す声が上がって、満場一致で決まったんです!」紫月は指を折りながら熱っぽく説明した。頬は興奮で真っ赤になり、瞳はきらきらと輝いている。まるで修一が見知らぬ誰かではなく、自分の恋人であるかのようだった。夕凪は気のない声で「そうですか」とだけ返した。「それで、その神崎修一とこの人がどう関係あるんです?まさか、この人が彼の恋人なんですか?」夕凪は画面に映る星海グループの社長令嬢を指差した。紫月はぎょっと目を見開き、信じられないという顔をした。「夕凪さん、冗談はやめてくださいよ!相手はあの神崎修一ですよ?京央の上流階級のお嬢様たちがこぞって狙ってる人なんです。それに、私にとっても理想の王子様なんですから。この女性を恋人扱いするなんて、私の推しに対する冒涜です!」夕凪はますますわからなくなった。「この人は星海グループの社長令嬢なんでしょう?それでも神崎修一には釣り合わないんですか?」神崎修一という男は、いったいどれほどの大物なのだろう。星海グループといえば涼崎市でも指折りの大企業で、桐生グループと肩を並べるほどの力を持っているというのに。紫月は呆れたような顔をした。「釣り合うわけないじゃないですか。京央の名家のお嬢様たちだって、みんな彼の恋人の座を射止めようと必死なんですよ。でも彼、そんな人たちには見向きもしないんです。これまで恋人の存在を公にしたこと
詩乃は御堂グループへ入社し、柊吾とともに峻のアシスタントを務めていた。だが、わずか三日で、峻は詩乃を自分のそばから外すと決めた。無能な人間を、近くに置いておくつもりはない。清音に免じて、チャンスは与えた。それを生かせなかったのは詩乃自身だ。峻を恨む筋合いはない。自分も、清音の思いを裏切ってはいない。「本当に申し訳ありません……社長、信じてください。もう二度と間違えません……!」詩乃は峻の性格をよく知っている。冗談ではなく、一度口にしたことは必ず実行する男だ。目を真っ赤にし、涙を流しながら訴えた。峻はようやく顔を上げたが、その表情は氷のように冷たいままだった。「書類のミスのほかに、自分が何をやらかしたのか、わかっているか?」詩乃は戸惑い、茫然とした。峻はペンを置き、椅子の背にもたれて告げた。「俺とお前は、ただの雇用関係だ。それなのに、社内で俺たちの関係を誤解する者がいても、お前は一度も否定しなかったな」詩乃の胸が大きく揺れた。こぼれ続けていた涙も、不自然に止まった。峻がそんなことまで知っているとは思わなかった。仕事ばかりの彼に、社内の噂など耳に入らないと高をくくっていたのだ。顔を赤くしたり青くしたりしながら、詩乃は言葉に詰まった。「わ、私は……」詩乃は、峻も自分に好意があるから、特別に社長付きアシスタントとして採用してくれたのだと思い込んでいた。だが、目の前の冷酷な顔を見て、そんな勘違いはとても口にできない。「本当に、私が間違っていました。これからは二度と……」「これからはない。出て行け」峻は短い言葉で、有無を言わさず会話を打ち切った。取るに足らない相手と、これ以上言葉を交わすつもりはなかった。詩乃は涙を浮かべたまま、不満を押し殺して部屋を出た。一方の夕凪は、自分が帰った直後に、詩乃が峻のアシスタントを外されたことなど知る由もなかった。実際、この処分は夕凪とは何の関係もない。詩乃自身が仕事でミスを犯したためだ。そもそも詩乃の関心は、初めから仕事には向いていなかった。ようやく峻のそばで働けるようになり、恋を進展させる絶好の機会だと思っていたのだ。ネットで男心を惹くテクニックをいくつも調べ、熱心にメモまで取っていた。だが、その成果を一つも試せないまま、呆気なくチャンスは
オフィスへ戻った峻は、すぐに人事部長へ電話をかけた。「しゃ、社長、どのようなご用件でしょうか」人事部長は戸惑った。グループのトップである峻は事業全体を統括しており、人事部の細かな実務に直接口を出すことなど、これまで一度もなかったからだ。峻は険しい顔で、冷たく命じた。「総務部長の鳥島だ。直ちに解雇しろ」「えっ?」人事部長は事情がわからず、言葉を失った。総務部の部長が、いったい何をして峻を怒らせたというのか。しかも峻は、自ら電話をかけて処分を命じている。「冷徹無比な帝王」と恐れられる峻は、普段から感情を表に出さず、いかなる時も冷徹に物事を処理する。何が起ころうと、少しも動じない男だった。それが今日に限って、一介の部長を解雇するためだけに、わざわざ自ら電話をかけてきたのだ。人事部長はしばらく呆然とし、峻が何を考えているのか見当もつかなかった。峻は用件だけを告げ、電話を切った。ちょうどそのとき、社長室のドアがノックされ、詩乃が入ってきた。峻は顔を上げ、淡々と一瞥した。詩乃は峻と目が合うと頬を赤らめ、胸を高鳴らせながら、恥ずかしそうにうつむいた。だが、聞こえてきたのは氷のような冷たい声だった。「昨日、お前が提出した書類には、二箇所もミスがあった。お前にアシスタントの仕事は任せられない。人事部へ行って、他部署への異動を申請しろ」詩乃は体を震わせ、はっと顔を上げた。みるみる顔色が青ざめていく。「も、申し訳ありません、社長!私の不注意でした。どうかもう一度だけチャンスをください。今度こそ必ず……!」峻は顔も上げず、冷たく答えた。「チャンスなら、とっくに与えたはずだ」三日前、清音の父である憲一が死を盾にとって峻に迫り、詩乃を彼のアシスタントとして雇うよう懇願してきたのだ。前の晩に清音の夢を見たのだという。清音はあの世でも峻のことが忘れられず、彼の身の回りの世話をする人がいないことを心配して泣いていたらしい。そこで憲一は、清音に面影が似ている詩乃を峻のそばに置き、世話をさせれば、亡き娘も安心できると考えたのだ。峻は不快そうに眉をひそめ、最初は取り合わずにその場を立ち去った。だがその一時間後、清音の母・沙代が墓前で泣き崩れ、気を失って倒れたという知らせが届いた。峻が慌てて墓地へ駆け
だが、弘樹の思惑は完全に外れた。「お前こそ何様のつもりだ。人を口汚く罵り、最低の振る舞いをしておいて。今すぐ出て行け。明日から二度と、この会社に顔を見せるな!」峻は顔を険しくし、怒りに満ちた目で弘樹を睨みつけた。弘樹は言葉を失った。茜と紫月も驚き、峻と夕凪を交互に見比べた。弘樹はしばらく呆然としていたが、ようやく自分がとんでもない地雷を踏んだのだと理解した。顔から血の気が引き、膝から崩れ落ちそうになる。自分の頬を何度も平手打ちしながら、必死に許しを請うた。「申し訳ありません、社長!社長のお知り合いだとは存じ上げず……私が愚かでした。どうか今回だけは、お許しください……!」茜と紫月は、さらに目を見開いた。二人の視線が、峻と夕凪の間を何度も行き来する。そのとき峻は、夕凪の顔がさっと青ざめるのを見た。夕凪は、創博に自分の素性を隠しているらしい。周りの人間は、あいつが刑務所に入っていたことも知らないのだろう。どうやって採用されたのかはわからない。だが、ここで自分が夕凪の正体を明かせば、彼女が仕事を失うことだけは確かだった。夕凪はうつむき、拳を固く握っていた。全身の血が凍りついたようだった。胸の奥から湧いた寒気が、体中へ広がっていく。峻は自分を憎んでいる。夕凪は、彼がこの絶好の機会を逃すはずがなく、必ず正体を暴露して仕返しをしてくると思った。もう、終わりだ。夕凪が絶望しかけたとき、峻は弘樹へ向き直り、冷たく言い放った。「俺はこの女など知らない。だが、相手が誰であろうと、お前が勝手に侮辱していい理由にはならない」その声には、抑えきれない怒りがにじんでいた。夕凪は自分の……元妻だ。たとえ今は別れていようと、かつて自分の妻だった女だ。そんな女が、取るに足らない他人に罵られるのを、黙って見ていられるはずがない。そう言い残すと、峻は夕凪を二度と見ず、冷たい表情のまま立ち去った。「申し訳ありません、社長……どうか、お許しを……!」弘樹は泣きながら追いすがったが、峻は振り返りもしなかった。しばらくして、茜と紫月はようやく我に返った。紫月は胸を押さえた。「びっくりした……夕凪さんが御堂社長のお知り合いなのかと思いました。もしかして、本当に……」「そんなわけないでしょう」茜が鼻で笑い
「いい加減にしなさい!そんなに噂話が好きなら、仕事を辞めて家で好きなだけやってちょうだい。よそ様の会社で恥をさらさないで!」茜が振り返り、冷酷な視線を向けた。怯えて口を噤んだ紫月だったが、茜が前を向いた隙に、夕凪に向かってこっそり舌を出してみせた。「行くわよ!」エレベーターが到着し、茜が冷たく促した。紫月が振り向いて乗り込もうとしたその時、横から歩いてきた背の高い男に、うっかりぶつかってしまった。実際には、軽く肩が触れた程度だった。「な、何をしているんだ!」ちょうどオフィスから出てきた弘樹がその光景を目の当たりにし、血相を変えて駆け寄り、紫月を怒鳴りつけた。「しゃ、社長、お怪我はありませんか!?」峻の冷ややかな視線が、怯える弘樹、顔をこわばらせる茜、青ざめた紫月――そして、彫像のように固まった夕凪の上を順に通り過ぎた。夕凪?峻はすかさず視線を戻し、その顔をじっと見つめた。驚きと疑問が、瞳にはっきりと浮かんでいる。なぜ、夕凪がここにいる?前回、夕凪が離婚協議書を残して姿を消した後、静江に連れられて彼女のもとへ向かい、そこでまた祖母からひどく叱責された。それ以来、二人は顔を合わせていない。まさか自分の会社で、夕凪と出くわすとは思ってもみなかった。何をしに来た?「申し訳ございません、御堂社長。この二人は、私が連れてきたアシスタントの臨時スタッフでして……」いつもの冷静さを失った茜は、峻の鋭い視線を受けただけで体を震わせた。弘樹は、峻が彼女たちなど相手にせず、そのまま立ち去るものと思っていた。普段の峻なら、そうするはずだった。ところが峻は眉を上げ、低い声で尋ねた。「どこの会社だ」茜は胸騒ぎを覚えたが、答えるしかなかった。「創博造園設計会社です」「創博造園設計会社……」峻はその名を低く繰り返し、記憶に刻んだ。なぜ夕凪が創博にいる?あそこで働いているのか?確かに、大学で造園設計を学んでいたことは知っている。だが今のあいつは、人殺しの前科者だ。それなのに、どうやってあんなまともな会社に潜り込めたんだ……?「本当に、わざとじゃないんです。申し訳ありません、御堂社長……」紫月はまだ若く、ただならぬ威圧感に耐えきれず、とうとう泣き出した。そして、隣にいた夕凪の腕に
「ご安心ください、鳥島部長。来週の火曜日までに、デザイン案の初稿をお送りします」弘樹は少し考えてから、念を押した。「火曜日までに、間に合いますか?」「はい、問題ありません」茜は紫月と夕凪を連れ、オフィスを出てエレベーターへ向かった。その顔から愛想笑いはたちまち消え、元の冷たく近寄りがたい雰囲気に戻った。腕を組んだ姿は、話しかけるなと全身で告げているようだ。やはり、茜とはうまくやっていけそうにない。紫月のほうが、よほど信頼できる友人になれそうだ。だが後に、夕凪は自分が人を見る目をどれほど誤っていたか、思い知らされることになる。「夕凪さん、さっきの白石詩乃さんと知り合いなんですか?」紫月が突然腕を絡ませてきたため、秘密を見抜かれたのかと警戒していた夕凪は、びくりと肩を震わせた。「し、知り合い?どうして私が、あの人を知っていると思ったんですか?」心臓がまた激しく鳴り始めた。紫月は何か知っているのだろうか。紫月はいたずらっぽく目を細めた。「あの人、御堂グループの御堂社長の新しい恋人らしいですよ。ネットの噂、見てないんですか?」夕凪は平静を装い、見ていないというように首を横に振った。紫月はすぐに声を潜め、楽しそうに噂話を始めた。「御堂峻と白石詩乃が一緒に食事してる写真がネットに出たんです。詩乃のご両親も一緒だったそうですよ。あれは絶対に、新しい恋人です!」「そうなんですか」夕凪は礼儀として相槌を打ったが、興味がないことも伝えたつもりだった。だが、紫月は話をやめなかった。「そういえば、瀬戸グループの令嬢、瀬戸夕凪って知ってますか?」夕凪は言葉を失った。危うく足をもつれさせそうになる。紫月はそこで気づき、自分の額を軽く叩いた。「あっ、あのお嬢様も瀬戸夕凪で、夕凪さんも同姓同名なんですね。すごい偶然!でも、あちらは大企業の令嬢で、夕凪さんは……同じ名前でも、人生ってずいぶん違うものですね」紫月はしみじみとため息をついた。夕凪は、もう何も言えなかった。それでも紫月は、楽しそうに話し続けた。「令嬢の瀬戸夕凪は御堂社長と結婚したけど、政略結婚だから、愛されてないんですよ。御堂社長が本当に愛してるのは、普通の家庭で育った白石詩乃。詩乃はシンデレラで、夕凪は白雪姫……じゃなくて、白雪姫を苦
刑務所を出た夕凪が真っ先にしたことは、銭湯へ行って湯につかることだった。まずはこの身にまとわりついた穢れを、きれいさっぱり洗い流したかったのだ。浴槽に足を踏み入れ、熱い湯の中にゆっくりと体を沈めていく……ああ、気持ちいい。思わず目を閉じて、浴槽の縁に頭をもたせかけた。あまりにも穏やかで、あまりにも安らかで――ずっと張り詰めていた糸がふっとほどけた途端、記憶の底に沈めていたものが、ひとりでに浮かび上がってきた。六年前、御堂グループは突如として経営危機に陥った。窮地を脱するため、峻は自ら夕凪のもとを訪れ、プロポーズした。瀬戸グループに支援させるための政略結婚だった。父は反対して
刑務所の門を出た瞬間、冷たい風が吹き抜け、枯れ葉がカサカサと舞い落ちた。真冬だというのに、瀬戸夕凪(せと ゆうなぎ)は目を閉じ、外の空気を貪るように胸いっぱいに吸い込んだ。三年前、裁判長から重々しく非情な判決が言い渡され、殺人の罪で懲役三年が確定した。そして今日、ようやくその刑期を終えたのだ。ふと視線を上げると、遠くの路肩に艶やかな漆黒の高級車が停まっていた。見覚えのある一台だった。心臓が、大きく跳ねた。――あの人だ。御堂峻(みどう しゅん)。途端に、三年前の光景がまざまざと脳裏に蘇る。法廷で、峻は夕凪が彼の初恋の相手――涼風清音(すずかぜ きよね)を殺害したと
夕凪は静かに首を横に振った。多恵はほっと息をついた。「やっぱりね。あんたがちゃんと教養のある子だってことくらい、見てりゃ分かるわよ。ここで掃除してるのは今だけで、いつかは絶対ここを出て行く人だって……」夕凪の胸が、また小さく震えた。そうだ。自分だって、峻や清音と同じ涼崎大学を出た人間なのだ。「あんたには人に言えない事情があるんだろうし、私もこれ以上詮索はしないよ。でもね、これだけは言わせて。あんたはいい子だよ。何があっても絶対に諦めちゃ駄目。つまずいたって、そこからまた立ち上がればいいんだから……」多恵の声には、力強い優しさがこもっていた。夕凪はたまらず目頭が熱
「はい、間違いありません」夕凪が力強く頷いた。若い刑事が信じられないといった顔で首を傾げた。「しかし、当時の捜査では段野悠雨と被害者の間にいかなる接点も確認されていません。現場付近を通りかかった警備員というだけの人物だったはずですが……」少し考え込んでから、若い刑事は圭吾の方を振り返った。「課長、これはやはり……段野悠雨の周辺を洗い直す必要がありますね」圭吾は厳しい顔で深く頷いた。「ああ。すぐに取りかかれ。段野と被害者の本当の関係を、底の底まで徹底的に洗え」「了解しました」……涼崎署を出た夕凪は、冬の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出した