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第4話

作者: シシリン
一瞬にして、リビングの空気が凍りついた。

お母さんの目に浮かんだ明らかな動揺は、ほんの一秒で激しい怒りへと変わった。

「結月!あんた、お父さんの書斎の書類を盗み見たわね!?いつからそんな卑しい子になったの!」

杏奈の顔から、さぁっと血の気が引いていく。

彼女は大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、慌てて立ち上がった。

「お姉ちゃん、ごめんなさい……っ!

私、おじさんとおばさんがマンションを買ってくれたことも、私の名義になっていたことも、本当に知らなくて……

もしお姉ちゃんが嫌なら、私、あんなマンションいらない……っ!」

「杏奈ちゃん、謝る必要はない」

お父さんが低く威圧的な声で遮った。

「あのマンションは、俺たちが自発的に君の将来のために用意したものだ。君が気にする必要は一切ない」

お母さんも、杏奈を庇うように私の前に立ち塞がった。

「結月、たかだかマンション一つでガタガタ言わないの!

あなたは私たちと血の繋がった実の娘なんだから、将来はこの家の財産をきちんと残してあげるわよ。

でも、杏奈ちゃんは違うでしょ?この子には両親がいないの。

私はこの子のお母さんが息を引き取る時、ベッドの横で『杏奈ちゃんのことは一生私が守る』って誓ったのよ。

だから特別な配慮をして当たり前じゃない!」

私は、熱を失った冷たい目で、興奮して捲し立てるお母さんを見つめ返した。

そして、かすれた声で静かに問いかける。

「……じゃあ、私は?」

お母さんは一瞬、ポカンと口を開けた。

「は?あなたは何よ」

「私には、両親がいるの?」

その言葉に、蒼大が顔を真っ赤にして激昂した。

「結月、お前ふざけるのも大概にしろよ!親不孝にも程があるぞ!

毎日この家で飯を食って、快適な部屋に住まわせてもらって、今度の移動だってわざわざ飛行機のチケットを取ってもらったくせに!

『私には両親がいるの?』だと?どの口がそんなこと言ってんだ!」

私はグッと唇を噛み締めたが、心の奥底に澱のように溜まっていた感情は、もう抑えきれなかった。

「……私がこの家に食べさせてもらってる?快適な部屋?」

私は自嘲気味に笑い、彼らを一人一人見据えた。

「高校三年間、私が住んでいたのは学校の安いボロ寮よ。その寮費だって、全部自分で勝ち取った奨学金で払ってきた。

特別進学クラスの合宿費だって、下級生の家庭教師のバイトをして自分で稼いだのよ。

去年の冬、私が急性の盲腸で倒れて緊急入院した時。お母さんに電話したらなんて言ったか覚えてる?

『杏奈ちゃんが不安がって夜泣きするから、そばを離れられないの』って言って、一度も見舞いに来てくれなかったじゃない」

私は、血の滲んだ分厚い包帯が巻かれた手を、彼らの目の前にゆっくりと持ち上げた。

「ついさっきだってそう。私が手を深く切って五針も縫う怪我をしたのに、あなたたちは私に見向きもせず、杏奈ちゃんだけを連れて行った。

ねえ、お母さん。あなたが杏奈ちゃんのお母さんに立てた立派な誓いのために、どうして私が犠牲にならなきゃいけないの?」

お母さんの顔から、さぁっと血の気が引いた。

彼女は何度か口をパクパクと動かしたが、反論の言葉が見つからないようだった。

その時、お父さんの顔がみるみるうちに夜叉のように冷酷に歪んだ。

「いい加減にしろ!」

怒鳴り声がリビングに響き渡る。

「結月、お前は今日、度が過ぎているぞ!」

……ああ。

私はふと、何年も前の出来事を思い出していた。

杏奈が初めてこの家にやってきた日。

お母さんは、一番日当たりのいい私の部屋を明け渡すように言った。

「杏奈ちゃんは身内を亡くしたばかりなの。お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい」

それからすぐに、私が大好きだったピアノのレッスンも辞めさせられた。

「ピアノの音を聞くと、杏奈ちゃんがお父さんを思い出して泣いてしまうのよ」

ずっと楽しみにしていた私の誕生日パーティーも、前日になって突然中止になった。

「明日が杏奈ちゃんのお父さんの命日なの。そんな時にパーティーなんて開いたら、あの子が可哀想でしょ」

彼らは事あるごとに言った。

「結月にはお父さんとお母さんがいるけど、杏奈ちゃんには私たちしかいないのよ」と

でも、違う。

この8年間、彼女は私の両親を完全に奪い取った。

私には、もう何一つ残されていなかった。

私はカバンから、先ほど先生からもらった二百万円が入った通帳を取り出し、ローテーブルの上にバンッと叩きつけた。

「もし、この二百万円がどうしても欲しいなら」

私は凍りつくような冷たい声で言い放った。

「私に二度と干渉しないという『絶縁の誓約書』にサインしてよ」

その瞬間、お父さんが猛然と立ち上がった。

パァァァンッ!!

鈍い音と共に、私の頬に焼け付くような痛みが走る。

顔が横に弾かれ、口の中に鉄の味が広がった。

「随分と偉くなったものだな!少しばかり金を手に入れたからって、親に向かってその態度はなんだ!」

お父さんは肩で息をしながら、私をゴミでも見るかのように見下ろした。

「いいだろう!そこまで言うなら、もうお前のことなんて一切面倒は見ない!今後、この家からお前には一銭も出してやらないからな!」

その日を境に、我が家は完全に二つの世界に分断された。

一つは、和気あいあいと新生活の準備に勤しむ、仲睦まじい四人家族の世界。

そしてもう一つは、誰からも見向きもされない、透明人間の私の世界。

でも、何も寂しくはなかった。

だって私は昔からずっと、この家の中で彼らの輪の外側を漂うだけの、ただの異物だったのだから。

あっという間に、旅立ちの朝がやってきた。

私がキャスター付きのスーツケースを引いて一階に降りると、ダイニングテーブルでは杏奈が優雅に朝食をとっていた。

私と目が合うと、彼女はにっこりと微笑んだ。

「お姉ちゃん、おはよう。出かける前に、一緒に朝ごはん食べよう?」

私は反射的にキッチンのカウンターに目をやった。

調理台の上は綺麗に片付けられており、私が食べるための余分な食器や料理など、最初から用意されていなかった。

……相変わらず、薄っぺらい優しさだこと。

私は彼女に一言も返すことなく、静かに背を向けた。

玄関のドアを開けて外に出る。

「いってらっしゃい」の声は、誰からも聞こえなかった。

空港の特別待合室では、すでにプログラムを主催する研究機関の担当官が私を待っていた。

「白石さん、決意に揺らぎはありませんね?

契約通り、これからの8年間、学士から博士課程に至るまでのすべての学費と生活費は我々が全面的に負担します」

担当官は、手元の分厚いファイルを見ながら念を押した。

「ただし条件として、プログラム期間中の途中帰国は一切認められません。そして学業を修めた後は、必ず当機関の特別プロジェクトで貢献していただきます。よろしいですか?」

私は迷うことなく、深く頷いた。

「はい。覚悟はできています」

搭乗ゲートに向かう前、私は最後にもう一度だけ、スマホの画面を開いた。

家族のグループチャットには、何件もの未読メッセージが溜まっていた。

開いてみると、お母さんから送られてきた何枚もの写真。

新幹線のホームで、杏奈の新しいトランクを囲み、両親と蒼大が満面の笑みでピースサインをしている。

四人の輝くような笑顔が、画面越しにチカチカと眩しかった。

私は静かにスマホの電源を落とした。

そして、本体からSIMカードを抜き取ると、近くのゴミ箱へ躊躇なく投げ捨てた。

轟音と共に、機体がふわりと宙に浮く。

窓の外を見ると、飛行機は分厚い雲を突き抜け、どこまでも続く青く澄んだ空の彼方へと飛んでいくところだった。

さようなら。

ここから先は、彼らの手の届かない遠い遠い世界。

私はもう二度と、後ろを振り返らない。

――その頃。西の港湾都市へ向かう新幹線の車内。

お母さんは手元のスマホの画面をタップして時間を確かめると、チッと舌打ちをした。

メッセージアプリの画面は、出発前から一つも更新されていない。

「結月ったら、もう帝都に着いた頃だろうに。無事に着いたっていう連絡のひとつも寄こさないなんて。

本当に私たちを親の仇みたいに思ってるのね」

呆れたようにため息をつくお母さんに、お父さんが少しバツの悪そうな顔で応じた。

「……まあ、これまで確かに俺たちはあの子を放ったらかしにしすぎたよ。あの子が怒って言っていたことも、まったく理不尽ってわけじゃない。

杏奈ちゃんをマンションに送り届けて落ち着いたら、俺たちも帝都へあの子の様子を見に行ってやろう」

その時だった。

向かいの席で退屈そうにスマホのSNSを眺めていた蒼大が、突如として短い悲鳴を上げた。

「……っ、母さん!!」

「どうしたの、急に大きな声を出して」

「これ、見ろよ……っ!!」

蒼大の手は、まるで痙攣しているかのようにガクガクと激しく震えていた。

彼が差し出したスマホの画面には、赤字で大きく強調された緊急速報のニュースが映し出されていた。

「【緊急速報】本日午前十時十五分、南州空港発・帝都行きのスターライン航空4922便が、天竜連峰の上空でレーダーから消失。

関係当局によれば、同機は山中に墜落した模様。現在、救助隊が緊急出動し現場へ急行中――」

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