LOGIN大学の合格通知書が届いたその日。 家族のグループチャットに、お母さんから二枚のチケットの画像が送られてきた。 同じリビングにいるというのに、わざわざチャットで送りつけてきたのだ。 一枚は、帝都へと向かう飛行機のチケット。 搭乗者の名前は、私、白石結月(しらいし ゆづき)。 もう一枚は、西の港湾都市へ向かう新幹線の普通席チケット。 こちらの名前は、藤堂杏奈(とうどう あんな)。 「今回は特別に、あなたにはわざわざ飛行機を取ってあげたのよ」 お母さんはわざとらしく大きなため息をつくと、これみよがしに言った。 「杏奈ちゃんなんて、窮屈な新幹線に乗っていくっていうのに。これで私たちがひいきしてるなんて文句、もう絶対に言わせないからね」 リビングの隅では、お兄ちゃん、蒼大(そうた)が杏奈の荷造りを手伝っている。 彼女の大好きな地元の高級なお菓子や特産品が、大きなトランク三つにこれでもかと詰め込まれていた。 蒼大は私を忌々しそうに睨みつけ、鼻で笑う。 「全くだ。飛行機代がどれだけ高いと思ってんだよ。お前は昔から嫉妬深くてがめついからな。杏奈のチケットにまで難癖つけるんじゃないぞ」 私はただ静かに俯き、何も言い返さなかった。 だって、私は昨夜見てしまったから。 お父さんの書斎の机に置かれていた、あのファイルを。 そこには、新築の家具付き高級マンションの売買契約書と、本当の家族旅行のスケジュール表が挟まっていたのだ。 そう、彼らは家族総出で、杏奈を大学まで見送りに行く。 さらには、彼女の通う大学の目の前にある高級マンションを買い与えていた。 契約書の名義は、しっかりと杏奈のものになっていたのだ。 杏奈は、両親の親友の忘れ形見だ。 彼女が我が家に引き取られてからの8年間。 私はずっと、この家でまるで透明人間のように扱われてきた。 昔の私は、両親からのほんのわずかな愛情を拾い集めたくて必死だった。 どうして杏奈ちゃんにはあって私にはないのと、泣いて叫んで訴え続けた。 でも、今はもう痛いほどわかっている。 誰からも愛されない子供は、いくら駄々をこねて泣き喚いても、甘いお菓子をもらうことなんてできないのだ。 私は静かにスマホの画面をタップした。 そして、国際的な特殊研究機関が支援する、特別エリート留学生プログラムの同意書に迷うことなく電子署名をする。 学士から博士課程まで一貫した8年間のプログラム。 その間は一切の帰国が許されないという、厳しい条件付きだ。 ……ええ、あなたたちの望み通りにしてあげる。 私はこれから、二度と手の届かない遠い空の彼方へ飛び立つのだから。
View Moreそのたった一言に。お母さんは雷に打たれたように固まった。まるでその場に見えない釘で縫い付けられたかのように動けなくなり、唇をわななかせ、しばらく声も出せずにいた。やがて、彼女の口から堰を切ったような激しい嗚咽が漏れ出した。「結月……っ、お母さん、どうしたらいいの……っ?あなたに償いたいのに、何からどう償えばいいのか、もうわからないのよ……っ。あなたが小さい頃にどんな惨めな思いをしていたか、今になって思い出すと……もう、自分が恨めしくて、死んでしまいたいくらい……っ!」彼女はそれ以上言葉を続けられず、着ていたエプロンの裾をちぎれんばかりに握りしめて泣き崩れた。私は彼女の白髪交じりのつむじを見下ろしながら、自分の心の中を探ってみた。不思議なことに、あれほど望んでいたはずの「復讐を果たしたような爽快感」は、微塵も湧いてこなかった。昔は、こんな日が来ることを数え切れないほど夢見ていた。彼らが後悔に苛まれ、泣き喚いて、私に許しを乞う姿を。でも、実際にその光景を目の当たりにして、ようやくわかった。どれだけ深い悔恨の涙を見せられたところで、壊れた過去が元通りになるわけじゃない。彼らの涙は、私に「お前はあの時、確かにゴミのように見捨てられたのだ」という残酷な事実を、ただ再認識させるだけだった。「……お母さん」私がその呼び名を口にしたのは、8年ぶりのことだった。お母さんが弾かれたように顔を上げた。その涙に濡れた瞳に、すがるような小さな希望の光が灯る。私は静かに、凪いだ海のように穏やかな声で告げた。「昔のことは、もう全部終わったことよ。私には今、私の新しい生活があるの」その瞬間、彼女の瞳の光はスッと音を立てて消え失せた。お父さんがたまらず身を乗り出してきた。「結月、すぐに許してくれとは言わない!ただ、ほんのたまにでいいから、こうして顔を見せに帰ってきてくれないか……一緒にご飯を食べるだけでもいいんだ……っ」蒼大も、目を真っ赤に充血させて絞り出すように言った。「俺を殴っても、罵ってくれてもいい。俺が最低だった。お前にやるべきだったものを全部他人に貢いで、お前のことを我慢が足りないなんて責めて……一番馬鹿で、わからず屋だったのは……俺の方だったんだ」私は彼らの悲痛な懺悔を聞き
昔は私の顔を見るたびに眉間にシワを寄せて「鬱陶しい」と言い放っていたあの蒼大が。今は青ざめた顔で、まるで幽霊でも見たかのようにその場に立ち尽くし、ブルブルと震えている。ただならぬ物音に気づき、お父さんも慌てて駆け寄ってきた。そして、私の顔をはっきりと視界に収めた瞬間、彼の全身も石のように強張った。「結月……?」それは、とてもか細い、すがるような声だった。ほんの少しでも声を荒らげれば、私が幻のように消えてしまうか、すぐに背を向けて逃げ出してしまうとでも思っているかのように。突然、お母さんがドアの隙間から腕を伸ばし、私の袖口をガシッと掴んだ。「結月……っ、寒くない!?お腹は空いてない?お母さん、うどんを作ってあげる!あなたが小さい頃に大好きだった、卵とじうどんをすぐに作ってあげるからっ……!」私は、袖を掴むその手を静かに見下ろした。骨と皮ばかりになったその手は、痛いほど私の服を握りしめ、小刻みに震えていた。……ああ。子供の頃の私は、お母さんがこうやって私の手を引いてくれる日を、どれほど待ち望んでいただろう。「寒くない?お腹空いてない?」そのたった一言の温かい言葉をかけてもらうだけで、私はきっと、一週間は有頂天になって喜んでいたはずだ。でも、彼女のその言葉は。私に届くまでに、あまりにも長い、長すぎる年月がかかってしまった。今になってその言葉を聞いても、私の胸の奥に広がるのは、ひどく薄味で淡い哀愁だけだった。私はお母さんの手を振り払うことはせず、静かに答えた。「寒くないわ」その瞬間、お母さんの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。目の前にいるのが幻覚ではなく、本物の娘なのだとようやく確信したように。彼女は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちるように泣き崩れた。「結月……っ!ごめんなさい、お母さんが悪かったの……っ!お母さんが、本当に……本当に、馬鹿だった……っ!」リビングは、あの頃から大きく様変わりしていた。けれど同時に、何一つ変わっていないようにも感じられた。古びていたソファは新しいものに買い替えられている。そして壁の一番目立つ場所には、私が高校三年生の時に表彰された、あの立派な「最優秀特待生」の賞状が額縁に入れられて飾られていた。その周囲には、私の写真がこれで
それから、8年の歳月が流れた。私が祖国の地へ降り立った日、季節はすでに秋の深まりを告げていた。空港から手配されたハイヤーに乗り込む際、同じ研究チームの先輩がドアを開けてくれながら、からかうように笑った。「結月博士、八年ぶりの帰国だけど、少しは緊張してる?」私は静かに微笑むだけで、何も答えなかった。スケジュールは分刻みで埋まっていた。上層部が社運を懸けて推進する、海外からの最先端技術導入プロジェクト。その中核メンバーとして、私は翌日には新しい研究所での勤務をスタートさせた。お昼休みのことだった。オフィスの下にあるカフェでコーヒーのテイクアウトを待っていると、背後からひどく戸惑ったような声が聞こえた。「……お姉、ちゃん?」振り返ると、そこには杏奈の姿があった。昔のような、庇護欲をそそる純真でか弱い少女の面影は、もうどこにもない。仕立てのいいグレーのパンツスーツを身に纏い、控えめなメイクを施した彼女の顔つきには、社会の荒波に揉まれて培われた逞しさと、ほんの少しの疲労感が滲み出ていた。あれから長い月日が経って。よもや自分が、彼女とこうして向かい合って穏やかにコーヒーを飲める日が来るなんて、想像もしていなかった。「上の階のIT企業で働いてるの?」私は彼女の胸元で揺れる社員証に目をやった。「うん。数年間ずっと営業でドサ回りをやってて、この前やっとサブリーダーに昇格したんだ」杏奈はアイスコーヒーのグラスの中の氷を、ストローでカラカラと掻き回した。「……おばさん、ここ数年ですっかり体を壊しちゃって。最近は記憶もだんだん曖昧になってきてるんだ。私、月に一度はあの家へ様子を見に行ってるんだけど……玄関を開けるたびに、私のことを『お姉ちゃんが帰ってきた』って勘違いして抱きついてくるの」そこまで言うと、彼女の目尻がうっすらと赤く染まり、声が震え始めた。「結月お姉ちゃん。結局のところ、家族を壊したのは私のせい。お姉ちゃんが私のことを一生許せなくて、憎んでいたとしても、当然だと思う」彼女は小さく深呼吸をして、すがるような目で私を見た。「でも、もし時間があるなら……一度だけでいいから、おばさんに会ってあげてくれないかな。毎晩毎晩、ベランダのあの薄暗い仕切り部屋に座り込んで、誰が止めても出てこようとしな
航空会社の相談窓口から電話がかかってきたのは、翌日の夕暮れ時だった。その時すでに、お母さんは丸二日間一睡もせず、生ける屍のように虚ろな目でスマホを握りしめていた。着信音が鳴り響いた瞬間、彼女は文字通り電話機に飛びついた。「はいっ!!見つかったんですか!? 娘の結月は無事なんですか!?」「――奥様。搭乗者名簿を改めて確認いたしましたところ、白石結月様は確かにスターライン航空4922便のチケットを購入されておりました」その言葉を聞いた瞬間、お母さんの目の前が真っ暗になった。「ですが――」スタッフの次の一言で、彼女の思考は完全に停止した。「結月様は、当該便への搭乗手続きを行っておりません」リビングに、水を打ったような静寂が落ちた。お母さんは、流していた涙すら忘れてポカンと口を開けた。「……え? 今、なんと?」「結月様は、墜落した便には搭乗されておりません。空港のセキュリティ記録を確認したところ、彼女は同日午前、国内線ではなく国際線の出発ゲートを通過したことが判明しました。申し訳ありませんが、それ以降の渡航先についての情報は、弊社のシステムでは追跡できかねます」お母さんはまるで、深い海の底から急に引きずり上げられたかのように、ヒュッと息を吸い込んだ。しかし次の瞬間、さらに深いパニックの底へと突き落とされる。「国際線……? 外国に行った……?」彼女はスマホを握りしめたまま、うわ言のように繰り返した。「どうして外国に? あの子は帝都大学に入学するはずなのに……なんで……?」翌日。お父さんは自分の会社のツテやありとあらゆる人脈を駆使し、私が通っていた高校に何度も面会を求め、ようやく確かな情報を引き出すことに成功した。応接室で彼らを出迎えたのは、先日家に支援金を持ってきたあの校長先生だった。校長先生は二杯の熱いお茶を淹れて彼らの前にコトリと置くと、ひどく複雑な、そしてどこか哀れむような目を向けた。「……ご両親。いくらなんでも、親として結月さんのことに無関心すぎませんか」「え……?」「結月さんはね、世界的な特殊研究財団が主催する『国際エリート留学生プログラム』の同意書にサインしたんですよ。全国でたった二枠しかない超難関を、彼女は独学のコンクール実績と面接だけで勝ち取ったんです。
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