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第3話

作者: ルル
将希の表情がほんの一瞬だけ強ばった。けれどすぐに、彼は声を大きくした。

「夫婦なんだから、お前のものを俺が使って何が悪い。いいからパソコンを出せ。データを汐音の端末に移せば済む話だろ」

私はパソコンバッグを胸元に引き寄せた。

「渡すつもりはない」

将希は鼻で笑うと、近くにいたホテルの警備スタッフを呼び止めた。

「すみません。この人、宿泊者でもないのにロビーで絡んでくるんです。対応してもらえますか」

警備スタッフがこちらへ歩いてきた。雨に濡れてみすぼらしい私の姿に目を留めた途端、その態度が少し硬くなる。

「お客様、恐れ入りますが、いったん外へお願いいたします」

そのとき、汐音が遠慮がちに将希を見上げた。

「社長……まだ雨、かなり降ってますよ。真央さん、このままだと風邪を引いてしまいます」

将希は取り合わなかった。

「構うな。少し濡れたほうが頭も冷えるだろ。真央、資料を出すまでここに残れると思うな」

警備スタッフに追い立てられるまま、私は回転ドアを抜けて外へ出た。

冷たい雨が、たちまち全身を濡らした。ガラス扉の向こうでは、将希が汐音を連れてエレベーターのほうへ歩いていく。

途中で、汐音がふと振り返った。ガラス越しの口元が、はっきりと笑っていた。

どれくらいそうしていたのか分からない。指先がかじかんで、スマホを持つのもやっとになった頃、私は以前から世話になっている弁護士の佐伯研二(さえき けんじ)に電話をかけた。

「佐伯先生、離婚協議書を作ってください」

電話の向こうで、研二が一瞬言葉を詰まらせた。

「高瀬様、本気でおっしゃっていますか?」

「はい。あわせて、技術ライセンス撤回の通知書も用意してください。明日の朝九時付で、将希の会社宛てに正式に送ってください」

電話を切ったあと、私はホテルの向かいにある二十四時間営業のコンビニに入った。イートインの隅で、夜が明けるのを待った。

午前三時、伏せていたスマホが短く震えた。汐音からだった。

送られてきた写真には、ソファにもたれて眠る将希が写っていた。体には汐音のジャケットが掛けられている。

添えられていたメッセージは、こうだった。

【真央さん、お洋服ありがとうございました。暖かくて助かりました。社長のことは、私がそばで見ていますね】

私は写真を閉じ、そのまま汐音をブロックした。

翌朝八時。入札会場の入口付近では、スーツ姿の人々がひっきりなしに出入りしていた。

私は乾いた服に着替え、関係者パスを手に会場の入口へ向かった。

将希と汐音は、受付の前に立っていた。

汐音が着ているのは、体のラインにぴったり合った高級スーツだった。先月、将希がわざわざパリまで行き、彼女のために仕立てさせたものだ。

あのとき将希は、いざという時に必要になると言っていた。

――その「いざという時」が、今日だったらしい。

私の姿を見つけた途端、将希の眉間にしわが寄った。彼は人混みを抜けるようにして、こちらへ歩いてくる。

「やっと来たか」

近づくなり、将希は私にだけ聞こえる声で言った。

「資料は持ってきたんだろうな。もうすぐ入場だ。余計なことをして邪魔するなよ」

私は静かに彼を見返した。

「資料は用意してある。でも、彼女には渡さない」

将希の顔が一気に険しくなった。何か言い返そうとした、そのときだった。

汐音が慌てた様子で駆け寄ってきた。

「社長、大変です。主催側から、今年は技術審査の形式が変わったと言われました。その場でコードを書いて、処理性能を比べる実装テストをするそうです。スライドを読むだけでは通らないみたいで……」

将希は言葉を失った。

「そんな話、聞いてないぞ」

汐音は額に汗を浮かべ、すがるように私を見た。

「真央さん、どうしたらいいんでしょう。私、根幹部分のロジックなんて書けません」

将希は私の腕をつかんだ。指が食い込み、鈍い痛みが走る。

「真央、聞いただろ。今すぐ根幹部分のロジックを書いて、汐音に渡せ。早くしろ!」

私はその手を振り払った。焦りを隠せなくなった将希を、静かに見据える。

「根幹部分のロジックは、この案件の心臓部よ。何か月もかけて中身を把握していない人間が、その場で扱えるものじゃない。今ここで彼女に覚えさせて、どうにかなると本気で思ってるの?」

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