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第 5 話

作者: 藍葉
綾香は必死に抵抗した。ハイヒールが飛びそうになるほど暴れたが、そのまま人のいない展望デッキまで運ばれてしまう。

「おとなしくしろ」低い警告が耳元で響く。

そして彼は大きな手で彼女の腰のあたりを軽く叩くと、ようやく慎重に地面へ下ろした。

綾香は怒りで頭に血が上っていた。乱れた髪をかき上げると、健司を睨みつける。「いったい何がしたいの?わざとでしょ?」

健司は高い位置から彼女を見下ろした。整った顔に感情はほとんど浮かんでいない。「助けてやったんだ。あの男は君には合わない」

「合うかどうかなんて、あなたには関係ないでしょ?あなたはただの上司よ。私の私生活に口を出さないで」

だが彼は横暴なほどきっぱりと言い切った。「俺が気に入らない限り、君は彼と結婚できない」

健司は気に入らなかった。

東雲グループを買収したばかりだというのに、綾香がやけに幸せそうに充実している。

自分はどうやら、元妻に幸運をもたらす男らしい。

離婚を切り出したのは彼女だった。愛していないと言って、容赦なく自分を捨てたのも彼女だ。

だからこそ、彼女の思い通りにはさせたくなかった。

綾香は心の中で冷たく吐き捨てた。

――あなたは普通に結婚して、幸せそうにしているくせに、私には一生一人でいろっていうの?

「もう疲れた。今は仕事なんてできない。気に入らないなら、明日クビにして」吐き捨てるように言うと、全力で彼を突き飛ばした。そして振り返ることなく歩き去った。

夜風が長い髪を乱す。彼女の心までかき乱していく。

あの日のことを、今でも覚えている。

彼が去った日の空は、どんよりと曇っていた。

彼は六千百八十万円の入ったキャッシュカードと、百二十平米のマンションを残していった。それが当時の二人の全財産だった。

目を覚ました時、彼女の手首には赤と白が混ざり合った石のブレスレットが巻かれていた。彼が肌身離さず持っていたものだ。半分は真っ白で、半分は深い赤をしていた。

綾香はイチョウの木の下で声を上げて泣いた。秋風に舞う落ち葉がひらひらと降り積もり、自分ごと埋め尽くしてしまいそうだった。

追いかけたかった。けれど体中が痛くて立ち上がることすらできなかった。

彼はもう戻ってこない。それだけは分かっていた。

その後、自宅へ戻った彼女は高熱を出し、二日二晩寝込んだ。命に関わるほどひどい状態だった。

大学四年間の恋。そして二年間の結婚生活。それはあまりにもあっけなく終わりを迎えた。

健司の母親は何度も離婚を迫った。もし彼が白川家の令嬢・白川雪乃(しらかわ ゆきの)と結婚すれば、白川家の力で事業は大きく飛躍できるからだ。

それでも彼女は拒み続けた。

だがあの日、綾香の父親が重病で倒れた時、健司は三日三晩連絡が取れなかった。

その間、彼女のスマホに一枚の写真が届いた。写真の中では、健司が豪華なベッドの上で眠っていた。その傍らには、白いハイヒールが一足置かれていた

その写真を見て、綾香は思った。彼は浮気をしたのだと。もう、自分だけの人ではないのだと。

帰ってきた彼は、仕事が忙しかったとしか言わなかった。ほかに説明は何一つなかった。

だから彼女は離婚を切り出した。「もう、気持ちはない。愛していない」と告げて。

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