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第 2 話

作者: 藍葉
この声……

綾香は顔を上げた。目の前にあったのは、底知れないほど深い瞳。端正で冷たい顔立ち。高く通った鼻筋。忘れたくても忘れられない顔だった。

綾香の瞳が大きく揺れ、息が止まりそうになる。

嘘でしょ?

健司……!

元夫だ。

どうしてここに?

「いつまで抱きついてるつもりだ?」苛立ち混じりの声が再び響く。わずかな嘲りも含んでいた。

綾香は我に返り、感電したように手を離した。慌てて姿勢を正し、髪を整え、スーツの裾を引っ張る。

エレベーターの中は重苦しい沈黙に包まれた。

昨夜もまた、健司の夢を見た。

あの日と同じ光景だった。イチョウの木の下に敷かれたマット。頭上には満天の星空……

彼は自分の上に覆いかぶさっていた。それは離婚が成立した日であり、二人にとって最後の激しい別れだった。

「健司、もう止めて!」綾香は叫ぶ。本当に限界だった。身体の感覚が溶けていくようだった。

男は身をかがめ、熱い吐息を耳元に落とす。「そんな大声が出せるなら、まだ余裕があるってことだな」

健司の声は淡々としていて、そこには情け容赦の欠片もなかった。

離婚に至るまで、すべては駆け引きだった。離婚は綾香の方から切り出したものだ。そして離婚後、最後の「一度だけ」という条件を押し通したのは健司だった。

対等な取引だ。だから互いに貸し借りはない。

どれほど時間が経っただろう。

ふと違和感を覚えた綾香は、はっと我に返り、硬い肩を力いっぱい叩いた。「破れた!早く離れて!」

健司は動きを止めた。夜の闇の中、その瞳は冷え切っている。感情は何も見えない。「終わらせるかどうかは俺が決める」

綾香は怒りで震えた。「妊娠したらどうするの!?」

「財産分与に二千円上乗せしてやる。それでアフターピルでも買え」

綾香は目を赤くし、全力で罵った。「最低!」

健司はさらに顔を近づけ、鼻先が触れそうな距離まで迫った。「その最低男を選んだのは君だろ」

どうにも腹の立つ言い方だった。

……

丸一日以上振り回された末、ようやく彼は去っていった。そして彼女の人生から完全に姿を消した。

大学時代、二人が愛を誓ったあのイチョウの木は、最後には別れの場所になった。

綾香は灰色の空を見上げたまま動けず、声を上げて泣き続けた……

チン――

エレベーターが最上階に到着した。

美咲と藤原琴音(ふじわら ことね)はすでにエレベーター前で待っていた。

「黒崎社長、おはようございます」二人はぴたりと動きを揃え、深く頭を下げた。

綾香の心臓が大きく跳ねた。

新しい社長が、健司?離婚のとき、全財産を私に残して手ぶらで出ていったあの男が?

たった四年で数百億規模の東雲グループを買収したというの?

世界がおかしいのか。それとも自分がおかしいのか。

考える暇もなく、綾香は急いで美咲の隣へ駆け寄り、背筋を伸ばして立った。

健司がゆっくり歩いてきて、冷たい視線で三人をなぞる。

社長室付き秘書の三人は、全員かなりの美人だ。

特に、綾香。

彼は淡々と口を開く。「黒崎健司だ。本日より東雲グループの社長を務める。

コーヒーに砂糖は入れない。香水の匂いは嫌いだ。部下の遅刻も嫌いだ。よく覚えておいてくれ」

「はい、社長」三人が声を揃える。

健司は綾香を見た。その目つきは明らかに険しい。「君が水野綾香さんか?」

綾香「……」

私の名前も知らないの?記憶喪失にでもなったの?

「はい、そうです」

健司は高級腕時計に目を落とした。「一分の遅刻だ。今月の皆勤手当と評価点は全額カット」

綾香「!!!」

見せしめ?

私がその標的ってこと!?

社長の威厳を示すために利用された!?

「……承知しました」結局飲み込むしかなかった。母親と思奈を養わなければならない。仕事を失うわけにはいかない。

健司はうなずき、さらに尋ねる。「資料によると離婚歴があるそうだな」

「……」この男、絶対わざとだ。

それでも、綾香は真面目に答えた。「はい」

「離婚理由は?」健司は続ける。「部下の私生活を詮索する趣味はない。ただし俺のそばで働く人間には厄介な事情がないことを確認したい」

私怨を仕事に持ち込む気?

「夫婦生活の相性が悪かったので」綾香はさらりと言った。

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