Share

第 6 話

Author: 藍葉
目の縁が痛いほど熱くなる。それでも歯を食いしばり、涙だけはこぼさなかった。

――健司を好きにならなければよかったのに。

翌日、綾香がオフィスに着くとすぐ、健司に呼び出された。

ドアをノックして中に入る。

デスクの向こうにいる男は、以前にも増して整った顔立ちをしていた。

高級なスーツが広い肩と引き締まった体を包み込んでいる。

椅子にもたれかかる姿は気だるげなのに、圧迫感だけは容赦なく伝わってきた。

ようやく彼が口を開く。その声は淡々としていて、まるで温度がない。「今日から君の役職を、俺の専属秘書に変更する。二十四時間待機だ」

何それ?

嫌がらせ?

綾香は口元を引きつらせるように笑った。「社長って太っ腹ですね。まさか給料を三倍にしてくれるんですか?」

健司は組んでいた手をデスクの上に置き、指先で軽く机を叩いた。「不満か?

四年も会わないうちに実力は伸びなかったのに、上司と値段交渉する術だけは覚えたんだな」

「恐縮です」綾香は営業スマイルを返した。「ただ気になっただけです。社長のこれは公私混同なのか、それとも私がいないと生活できないほど困ってるのか、どっちなんでしょう?」

健司の口元がわずかに上がる。どこか面白がるような笑みだった。「これを公私混同って言うのか?」

そう言うと椅子を引き、立ち上がる。デスクを回り込み、一歩ずつ彼女へ近づいてきた。「俺はこれを、適材適所と言う」

彼は綾香の目の前で立ち止まる。懐かしい柑橘系の爽やかな香りが、否応なく彼女の肺の奥へ入り込んでくる。

綾香は鼻で笑い、首から社員証を外してデスクに叩きつけた。「もう辞めるわ。そんなの、付き合ってられない」

逃げるくらいなら、できる。そう思いながら、彼女は背を向けた。

「待て」健司の声は大きくないが、逆らえない迫力があった。彼は引き出しから書類を取り出し、彼女の前へ放る。「ちゃんと読め」

綾香は手に取ってページをめくる。次の瞬間、頭の中が真っ白になった。

うそでしょ!完全にハメられた。

怒りが一気に頂点まで突き抜ける。「これ、ブラック企業じゃない……」

健司は満足そうに笑った。

綾香は目の前の整った顔を睨みつける。今すぐ噛みついてやりたい気分だった。

だが、苛立ったまま振り返った瞬間、「ガンッ!」とガラスドアに思いきり額をぶつけた。

「っ!」

健司は驚いて駆け寄り、温かい手で赤くなった額にそっと触れる。「あや……」

思わず口をついて出た呼び方に、綾香は固まる。

何が「あや」よ!

「近寄らないで」彼女は健司を突き飛ばし、そのままオフィスを出て行った。

この男、絶対わざとだ。

付き合っていた頃、健司はいつも自分を「あや」で呼んでいた。

それなのに今さら昔のように呼ぶなんて。成功した今になって、そんなことで自分をからかうつもりなのだろう。

午後になると、社内チャットに新しい通知が届いた。送信者は健司だった。しかも彼女宛てにメンションまで付いている。

記載されていたのは住所と連絡先だけ。余計な言葉は一切なかった。

綾香は観念してバッグを掴み、その住所へ向かった。タクシーの中でも頭の中はぐるぐるしていた。

まさか半年前に更新した契約書に、競業避止条項まで入っていたなんて。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 突然現れた冷徹上司は元夫だった!   第 26 話

    「出て行って。ここには来ないで」健司は彼女の整った顔を見つめると、いきなり手を伸ばした。しかし綾香に手を払われる。「綾香、君って本当に薄情だな。今日は絶対に何か作ってもらうからな」そう言いながら勝手にソファへ腰を下ろし、鋭い目で部屋の中を見回した。そして、その視線が思奈に止まる。「じゃなきゃ、君の妹を食っちまうぞ。唐辛子とネギを散らして蒸してやる」「……」綾香は呆れて白目を向けた。どうやら本当に酔っているらしい。「待ってて」彼女はキッチンへ向かい、生姜とレモンを使って温かい飲み物を作った。しばらくして、湯気の立つマグカップを運んでくる。気づけば思奈は健司の膝の上に座っていた

  • 突然現れた冷徹上司は元夫だった!   第 25 話

    綾香はわかっている。自分のこの癖は本当に厄介だ。お酒を飲むと、秘密を次々と口にしてしまい、何も隠しておけなくなる。新婚初夜もそうだった。酔っぱらった自分は、健司の首に腕を回しながら、うとうとした声で話し始めた。子どもの頃、近所にとても優しくしてくれたお兄さんがいて、「大きくなったらお嫁さんにする」と言ってくれたこと。そして、自分はそのお兄さんのことが本当に好きだったこと。もしそのお兄さんが海外へ留学しなければ、自分が健司と結婚することなんてなかったはずだ、と。その後のことは思い出したくもない。健司はその場で激怒し、一晩中容赦なく自分を追い詰めた。まるでベッドの上で大喧嘩をしている

  • 突然現れた冷徹上司は元夫だった!   第 24 話

    東方レジデンス。由梨の車を地下駐車場に停めると、女性のハウスキーパーを呼び、二人がかりで悪戦苦闘しながら、泥酔した綾香をようやく家まで連れ帰った。ゲストルームのベッドに寝かせると、由梨は大きく息を吐いた。その時、綾香が突然寝返りを打ち、怒鳴るように言った。「健司……このバカ……奈々は……渡さない……どうして……裏切ったの……?」由梨は思わずため息をついた。やっぱり酔っぱらうと何でも口にするタイプだ。健司に連れて行かせなくて正解だった。慌てて水を用意しに行き、戻ってくると、綾香の姿が消えていた。探してみると、ぬいぐるみを抱きしめたまま、ウォークインクローゼットの隅にしゃがみ込

  • 突然現れた冷徹上司は元夫だった!   第 23 話

    ホテルを出たそのとき、遠くから耳をつんざくようなエンジン音が近づいてきた。真っ赤なスポーツカーがタイヤを鳴らしながら滑り込んできて、彼らのロールス・ロイスの前にぴたりと横付けする。ドアが開くと、由梨がハイヒールを鳴らしながら勢いよく駆け寄ってきた。「健司!綾香を下ろして!」健司の表情が一瞬で曇る。「酔っているんだ。俺が家まで送る」由梨は冷笑を浮かべ、腕を組んだまま彼を上から下まで眺めた。「元夫のあんたが送り届けるつもり?それじゃ羊を狼の前に放り出すようなものでしょ。綾香をこっちに渡して」健司は綾香を抱く腕に力を込めたまま、渡すつもりはなかった。由梨の目つきはさらに鋭くなる。「黒崎社長

  • 突然現れた冷徹上司は元夫だった!   第 22 話

    綾香は思わず健司へ視線を向けた。彼は上座に座り、ゆったりとグラスを回している。その深い瞳は彼女を見つめていたが、助け舟を出す気配はまるでない。ただ静かに見ているだけだった。結局、綾香は覚悟を決めてグラスを手に取った。辰樹と和也は息の合った連携で次々と酒を勧めてくる。料理はほとんど口に入らなかったが、酒だけは一杯、また一杯と重ねていった。東雲グループ側の希望比率は30%。だから彼女は六杯目まで必死に耐えた。刺激の強い酒が喉を焼きながら流れ落ち、胃の中まで熱くなる。白い頬はとっくに赤く染まり、その姿は息を呑むほど艶やかだった。綾香はトイレでひとしきり吐いたあと、ふらつく足取りで廊下

  • 突然現れた冷徹上司は元夫だった!   第 21 話

    綾香は、この男がまだ諦めていないことくらい分かっていた。むっとしながら、娘を健司の腕の中へ押しつける。「はい、どうぞ。あげます。一日四回ミルクで、ニンジンは嫌い、あと海鮮アレルギーがあります」健司は、ふわふわでミルクの香りがする小さな思奈を抱きながら、どうしていいか分からず固まった。「君、名前は?」健司が尋ねる。「私は水野思奈。思奈の『思』は思いの『思』。みんなには『奈々』って呼ばれてるの」思奈は真面目な顔で自己紹介した。黒ぶどうのような大きな瞳が、嬉しそうにきらきら輝いている。「じゃあ、あの人は?」健司は綾香を指差した。「お姉ちゃんだよ、かっこいいパパ!」思奈はそう言って、ま

  • 突然現れた冷徹上司は元夫だった!   第 16 話

    今になって後悔しているのだろうか。三十分ほどで星良は帰っていった。健司は自らエレベーターまで見送り、戻ってくると綾香に声をかけた。「綾香さん」呼ばれた綾香は顔を上げ、慌てて社長室へと入る。そしてまず、例の高価なネックレスをそっと机の上に置いた。「社長、こちらネックレスです。傷などはありません」「そうか」健司はうなずいただけで、ろくに見ようともしなかった。綾香はほっと息をつき、その日のスケジュール報告を始める。報告が終わると、健司が口を開いた。「夜七時と九時の予定はキャンセル。クルーザーを手配してくれ」「承知しました。どちらのお客様をご同伴されますか?」綾香は真面目にメモを取るよ

  • 突然現れた冷徹上司は元夫だった!   第 15 話

    陽太とは一年以上前、前の上司の接待に同行した際に知り合った。それ以来、ずっと付きまとわれている。しょっちゅうプレゼントを送りつけ、まるで落とす相手として見ているかのように、追い続けている。琴音はベルベットの箱を手に取り、中から星形のダイヤモンドブレスレットを取り出して目の前で揺らした。「これも処分するの?最新コレクションのブレスレットだよ。『君という星』シリーズ。一千四十万円もするのに」その時だった。健司が部屋へ入ってきた。隣には美しい女性を連れている。そのオーラと身なりからして、やり手の女性社長のような雰囲気だ。綾香はすぐに給湯室へ避難した。美咲もついてきて、意味ありげに彼

  • 突然現れた冷徹上司は元夫だった!   第 14 話

    それは先ほど和也が届けてきたもので、ついでに黒幕についても報告を受けていた。綾香は中身を確かめることもなく、錠剤をつかむと迷わず口に放り込み、水なしで無理やり飲み込んだ。「濡れた服を着替えろ」健司は冷たく彼女を見下ろして言った。「明日の予定は重要だ。病欠は認めない」そう言い残すと、彼は振り返りもせず部屋を出て行った。ドアが閉まる音を聞き、綾香は張り詰めていた心がようやく緩むのを感じた。行ってしまった。それが一番賢明な選択だ。二人はもう関わるべきではない。たとえ……彼を忘れられなくても。四年間も彼を待ち続けていたとしても。母は健司に強い憎しみを抱き、二人の間には、あまりにも

  • 突然現れた冷徹上司は元夫だった!   第 1 話

    「奈々、早く靴履いて!遅刻しちゃうよ!」水野綾香(みずの あやか)の声には焦りがにじんでいた。「やだ!今日は幼稚園行かない!」水野思奈(みずの しな)は小さな体をくねくねさせながら、ふにゃふにゃと抵抗する。「ほら、いい子だから。午後になったらママがケーキ買ってあげる。イチゴ味だよ」綾香はあの手この手を使い、声まで何段階も甘くした。その誘惑に負けたのか、思奈はしぶしぶ小さな足を差し出した。綾香は素早く靴を履かせると、そのままひょいっと抱き上げる。階段を下りながらスマホを取り出し、慣れた手つきで小泉美咲(こいずみ みさき)に電話をかけた。「美咲、助けて!遅刻しそうなの!少しだけフォローお

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status