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【破】Ⅲ

last update Last Updated: 2025-09-16 20:00:55

 雨の降る中を二人で館まで歩く。さっきまであんなに混乱していた気持ちが不思議と収まっていくのを五月は感じていた。門扉をくぐって敷石を踏み、重厚なドアを開くと、館の中はとても暖かい。居間に行くと暖炉には薪がくべられており、パチパチと火の粉が舞っていた。

 ハーベンはすぐにホットチョコレートを淹れて五月に手渡してくれる。しかし五月は冷え切っていて、上手くカップを受け取れなかった。

「先に体を温めよう。もう準備はできているからね」

「お風呂?」

「そう。今日はローズマリーを入れてみたよ」

 なんでもハーベンが言うにはローズマリーには殺菌や抗菌の効果が期待できるほかにも、血行をよくしたりリフレッシュを助けたりもできるらしい。外出して冷え切った体を流すにはピッタリだと選んでくれたのだろう。

 五月はハーベンに連れられてバスルームへ行き、衣類を丁寧に脱がせてもらって、ローズマリーの入浴剤が入ったバスタブへ浸かった。ハーベンはかたわらで腕まくりをして五月の髪と体を洗うと、より温まるよう腕やふくらはぎをマッサージしてくれる。

 急に体が温まったせいなのか、五月は何度か小さく咳をした。

「大丈夫かい?」

「うん」

「風邪でないといいだが……どんな薬も使いたくないからね。君には強すぎるかもしれないし」

「平気だよ、ハーベン」

 しっかりと温まった五月を、まるでこの世でもっとも貴重な宝石でも扱うかのような手つきでハーベンはタオルで包み込んだ。そして冷えない内にと手早く夜着とガウンを着せる。

 五月は今、自分がどんな顔をしているだろうかと恥ずかしくなった。子供のようにハーベンに風呂に入れてもらって、すべての世話を任せてしまっている。自然と顔が熱くなるのを感じた。バスルームに鏡がなくてよかったと心底思う。

「今日はもう疲れただろう? 早めに眠るといい」

「そうする」

「ホットミルクを持っていくから、先にベッドに入っていなさい」

 ベッドルームの前でハーベンはそう言い残して一度キッチンへと引き返して行った。五月はガウンを脱いで、言われた通りにベッドにもぐりこむ。サラサラと肌に当たる寝具が気持ち
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  • 紅の月、籠の鳥   【急】Ⅲ

     五月は翌日には目覚めたものの、ひどい貧血で起き上がることができなかった。ハーベンはそんな五月の世話を一から十まで焼く。体を拭いてやり、手ずからリゾットを口へと運んで食事を摂らせた。そしていつものホットミルクを飲ませて、五月を寝かしつける。 「おやすみ、サツキ。愛しているよ。よい夢を」 「……ぼくも。すき」  あのディナーの夜以来、初めて五月が発した言葉だった。  五月はハーベンによる死の一歩手前までの強烈な吸血行為による大量の失血と精神的なショックから、多くの記憶を壊されてしまった。痛みも悲しみも、真実さえも、もはや思い出すことができない。ただ、この館にずっといる事実と、目の前で甲斐甲斐しく自分の世話をしてくれるハーベンという人物を愛している感情だけが、白い紙にインクで丁寧に書き込まれて残っており、後はまるで塗りつぶされたかのように失われているのだ。  ふいに、こげ茶の瞳がハーベンを見上げた。 「ぼく、ここ、いていい?」  ―ー……ああ! とうとうこの瞬間が訪れた! とハーベンは心の内で歓喜に打ち震えた。今、この瞬間に五月は完全にハーベンのものになったと確信する。  表情には露ほども表わさず、優しい微笑みを浮かべたハーベンが五月をこの上なく優しい手つきで抱き寄せた。 「もちろん。君にはここがとてもよく似合うのだから」  そして五月の喉元に白く長い指を這わせ、ゆっくりと唇を重ねる。  窓の外には二人を静かに見下ろす、紅月がひっそりと浮かんでいた。      了

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     あの日の出来事がいったい何だったのか正体はわからないままだ。それでもハーベンと五月の暮らしは揺らぐことなく続いていた。 次の朝には五月は落ち着きを取り戻し、いつものようにハーベンが作った食事を食べて、本を読んだり庭の花々を見て回ったり、午後のケーキの時間にはハーベンと談笑したりと、しあわせな時間を過ごし、夜には彼と共に眠る。 今日はハーベンに借りていた本を返して、違う本を読ませてもらおうと書斎に行く予定にしていた。五月は自分の部屋を出て長い廊下を歩いて行く。規則的に並んだ窓からは庭がよく見えた。「天気、悪いなあ」 いつぞやのハーベンとの庭でのデートの時のように、重く暗く空には雲が垂れ込めている。しばし外を眺めていた五月の耳に、ハーベンの声が微かに届いた。何を言っているのかはわからないが、使用人と話しているようだ。ここ一週間ほどはハーベンの仕事が忙しく、食事と就寝の時しか顔を併せることができていなかったこともあって、五月は嬉しくなり話声のする方へと走り出そうとした。 ところが、そこへ使用人の小さな声が聞こえてきて、五月の足は自然と止まる。「申し訳なく存じます」「私はなぜ規則を破ったかと訊いているんだ」「それは……」 ハーベンが使用人に対して怒っているのは明白だった。廊下を曲がれば、そこにハーベンと使用人がいるだろう。五月は早鐘を打つ鼓動が鎮まるよう願いながら、こっそりと二人の様子をうかがった。 そこには想像通り、うなだれる若い男性の使用人とハーベンの姿がある。悲しそうにしている使用人は心から反省しているのだと思われた。対してハーベンの顔からは常日頃絶やすことのない笑みが完全に消えていて、本気で怒っている。 ハーベンの表情を見た瞬間、五月は体の芯から震え上がった。体温が急速に下がっていく感覚に襲われ、歯の根が合わない。 ここにいてはいけない。 理由もなく強く感じた五月は足音が立つのも構わずに走って、再び館から逃げ出した。 曇っていた空からとうとう雨粒が落ちてきた。薄着のまま館から出てきたからか、それとも恐怖からか、五月はガタガタと震えたまま町はずれの細い路地に座り込

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