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3話

作者: Amy
last update publish date: 2026-08-14 13:55:26

白椿の茶碗は、修復室にはなかった。

保管台帳を閉じ、千夏と一緒に継景本社ビルを探した。1階の展示棚、2階の広報部資料室、修復室と同じ3階にある第1スタジオ。どこにもない。

午前10時を過ぎたころ、撮影担当の社員が教えてくれた。

「白い茶碗なら、4階の第2スタジオにありましたよ。昨日のイベント前に、野口さんが持ってきたと思います」

千夏とエレベーターで4階へ上がった。廊下の突き当たりにある、第2スタジオの扉を開ける。

天井近くまで引き上げられた白い背景紙の前に、茶碗が置かれていた。

柔らかな布も、転倒を防ぐ台もない。細いアクリル板の上で、照明を浴びている。横には、撮影用のドライフラワーが並べられていた。

千夏が茶碗へ近づき、ラベルを読み上げる。

「白椿茶碗。佐原紗季さん個人所蔵。撮影移動の記録、なし」

「戻そう」

照明の電源を切り、両手で茶碗を持ち上げた。

器の表面は冷たかった。金の線へ傷はない。高台にも欠けはない。息を詰めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。

「何をしているんですか?」

背後から、麻里奈の声がした。

振り返ると、タブレットを抱えた彼女が立っていた。今日は黒いパンツスーツだった。

「私の茶碗を戻します」

「今日も撮影があります。終わったら戻しますから」

「私は貸していません」

麻里奈は、困った子どもをなだめるように笑った。

「昨日の映像、すごく反応がよかったんです。この茶碗は継景の原点でしょう?大切にしまっておくより、たくさんの人に見てもらったほうがいいと思いませんか」

「誰に聞きました?」

「直哉さんです。会社を始めるきっかけになった器だって」

「これは母の遺品です。会社の所有物でも、広告用の備品でもありません」

「でも、会社の成り立ちと切り離せないですよね」

言葉を返す前に、千夏が口を開いた。

「野口さん。私物を移動するときも、保管台帳への記入が必要です。昨日の移動時刻と、運んだ方のお名前を教えてください」

「社内撮影でしょう。そこまで必要?」

「必要です」

千夏の返事は短かった。

麻里奈の笑みが消えた。タブレットの端を指でたたき、私を見る。

「佐原さん。昨日のことは驚かせたと思います。でも、仕事に私情を持ち込むのはやめませんか」

私情。

夫が愛人を妻と呼んだことも、母の遺品を無断で持ち出されたことも、彼女にとっては私情らしい。

「仕事として言っています。記録のない移動は認めません」

茶碗を胸の高さで支えたまま、麻里奈の横を通った。

「撮影案は変更してください」

「直哉さんは許可しています」

「この器の持ち主は、私です」

修復室へ戻ると、茶碗の状態写真を撮り直した。正面、背面、見込み、高台。金の線も数センチずつ区切って残す。

撮影棚へ置かれていた時刻と、戻した時刻を台帳に記入する。千夏が確認者の欄へ署名した。

「鍵付きの棚に戻します」

「念のため、箱にも移動禁止と書いて」

千夏は赤い札を作り、箱のふたへ貼った。

棚の鍵は、私と千夏が持っている。ただ、修復室は継景本社ビルの一室を借りており、管理部には、火災や漏水などの緊急時に備えた予備鍵がある。

だが、預かり品を動かすための鍵ではない。記録と札を無視して、勝手に持ち出すことはできない。

物理的には、また持ち出せる。

それでも、状態を台帳に残し、箱には【私物・移動禁止】の札を貼った。これを無視して動かせば、もう手違いでは済まない。

それで十分だと、そのときは信じていた。

……

午後、長谷川文江(はせがわ ふみえ)が湯のみを受け取りに来た。

去年亡くなった夫が、40年使っていた器だという。縁の一部が欠け、胴には細いひびが入っていた。

「きれいになりましたねえ」

文江は両手で湯のみを包み、窓の光へかざした。

「金が派手すぎませんか。最初に相談したとおり、少し落ち着いた色にしました」

「これくらいがいいの。あの人、目立つものが苦手だったから」

ひびをつないだ線は、薄い灰色に近い。欠けた部分だけ、わずかに金粉を薄く蒔いてある。

「茶渋まで全部落とすと言われたら、どうしようと思ってたんですよ」

「ご希望でしたので、使用に差し支えない範囲で残しました」

文江は内側に残る淡い色を見て、笑った。

「あの人が毎朝お茶を飲んだ跡だから。傷も染みも全部なくなったら、知らない湯のみが帰ってくるみたいでしょう」

ケースへ戻そうとしていた手が止まった。

直すことは、過去を消すことではない。

修復を始めたころ、母にも同じことを教えられた。

白椿の茶碗を割ったのは、母だった。食器棚から取り出すとき、指が滑った。床に落ちた茶碗は2つに割れ、母はしゃがんだまま動けなくなった。

祖母から贈られた物だからと、何度も謝った。拾い上げたあとも、両手で包むように欠片を持ち、もう戻らないものを見る目をしていた。

当時の私は、教室で習ったばかりの方法でつないだ。金の幅は不揃いで、表面にはわずかな盛り上がりが残った。

直し終えた茶碗を差し出すと、母はすぐには受け取らなかった。

金の線を目でたどり、やがて両手で包み込んだ。親指で少し盛り上がった継ぎ目を何度もなぞるうち、固く結んでいた口元がほどけた。

それから母は、失敗した線ではなく、私の指を見た。

「紗季の手は、なくしたくないものを残してくれるね」

あの一言で、私は修復の仕事を選んだ。

「佐原さん?」

文江に呼ばれ、顔を上げた。

「すみません。箱へお入れします」

湯のみを布で包み、ふたを閉める。文江は受領書へ署名し、箱を大切そうに抱えた。

「頼んでよかった。最初に継景で受付をしてくれた人には、金の線をもっと目立たせたほうが写真映えするって言われたけど」

「誰が、そんなことを?」

「広報を担当している若い女の方。物語になるから、作業の様子も動画にさせてほしいって」

麻里奈だ。

「お断りになったんですよね」

「ええ。夫の湯のみを知らない人の宣伝に使われたくないもの」

文江は当たり前のように言い、帰っていった。

扉が閉まったあとも、その言葉が部屋に残っている気がした。

知らない人の宣伝に使われたくない。

私は、母の茶碗を宣伝に使っていいかと、一度も聞かれていない。

受付記録を閉じる前に、継景の案件管理システムを開き、文江の依頼番号を検索した。広報利用を断った記録が、きちんと残っているか確かめたかった。

依頼画面には、赤い字で【広報利用不可】と表示されていた。

その下に、修復担当者の欄がある。

以前は私の名前が入っていた場所が、【継景修復チーム】へ変わっていた。

過去の案件も開いてみた。

5年前に直した染付の鉢。4年前の急須。3年前、海外の展示会へ貸し出された大皿。どの案件からも、私の名前が消えている。

念のため、継景の公式サイトも開いた。

会社紹介の記事には、麻里奈の写真が載っていた。

【伝統を今の感性でよみがえらせる――継景の修復監修・野口麻里奈】

彼女が入社する前の仕事まで、同じページに並んでいる。

同じ記事を紹介する継景の公式インスタも開いた。投稿のコメント欄には、麻里奈を称賛する言葉が並んでいた。

【野口さんの感性が好きです】

【こんなに繊細な仕事ができる女性に憧れます】

知らない人が麻里奈を褒めることに、腹は立たなかった。その人たちは、見せられた情報を信じただけだ。

苦しかったのは、そこに載っている写真が、私の手で直した器ばかりだったことだ。写り込んだ自分の指先を見ても、それが誰の手なのか、私自身まで分からなくなりそうだった。

私は公式サイトのページとインスタの投稿を保存した。取り返す方法を考えるためではない。昨日まで何が書かれていたのかを、自分まで忘れないためだった。

夕方、継景との業務連絡用チャットを確認した。社員ではない私が見られるのは、修復案件の予定を共有する専用チャンネルだけだ。

そこに、広報部から新しい撮影計画が添付されていた。

【企画名 継景の原点を、もう一度つなぐ】

白椿の茶碗の写真。その下に、撮影手順が並んでいる。

古い継ぎ目を取り除き、修復前の状態へ戻す。

麻里奈が工程ごとに金継ぎを体験する。

数回に分けて撮影し、完成までを一本の短い動画に編集する。

指先が冷たくなった。

古い継ぎ目を外せば、母が指でなぞった金の線はなくなる。同じように漆でつなぎ、金粉で仕上げ直しても、母が触れた線には戻らない。

計画書の承認欄には、直哉の名前があった。

私はすぐ、計画書が共有されたスレッドへ書き込んだ。白椿の茶碗は私物であり、撮影も移動も、継ぎ目の除去も一切許可しない。

箱へ赤い【私物・移動禁止】の札を貼った写真と、保管台帳、私物として登録した記録も添えた。

数分後、直哉から個別にメッセージが来た。

【いちいち全員が見る場所で騒ぐな】

【広告のことは麻里奈に任せてある】

入力欄を開いた。

【白椿の茶碗は私物です。撮影にも広告にも使わせません】

送信した。

直哉から返事はなかった。

……

3日後の土曜日、午前9時28分。

業務連絡用チャットに、撮影計画の更新通知が届いた。

撮影予定日が、翌週の月曜から今日へ変更されている。

私が修復室を休む日だった。

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