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4話

Author: Amy
last update publish date: 2026-08-14 13:59:22

通知を見て、私はすぐに家を出た。

自宅から継景本社ビルまでは、電車と徒歩で25分ほどかかる。駅からの道をほとんど走った。

向かっていることは、直哉にも麻里奈にも伝えていない。白椿の茶碗を自宅へ持ち帰る。私物を会社の建物に置いておく理由は、もうなかった。

午前10時を少し過ぎた継景本社ビルは、平日より静かだった。受付の照明は消え、廊下に人の姿もない。

第2スタジオのある4階でエレベーターを降りると、廊下の奥から声が聞こえた。

「もう少し手元を寄りで。古い継ぎ目が外れるところ、絶対に使いたい」

麻里奈の声だった。

駆け出し、第2スタジオの扉を開けた。

白い背景紙の前で、母の茶碗は再び2つの破片に分けられていた。金の線は削り取られ、白い断面に薄い跡だけが残っている。

麻里奈が白い手袋をはめ、片方の破片を回転台へ載せた。回転台には、保護用の布も、破片を支える台もない。

その横で、直哉がモニターを見ていた。

破片の丸い底が、ぐらりと傾いた。

「やめて!」

声が部屋に響いた。

麻里奈がこちらを向く。その間にも破片は回転台の上を滑った。手袋の指先が縁をかすめたが、止められない。

回転台の縁へ当たり、床へ落ちる。

乾いた音がした。

白い破片が、さらに3つに割れた。縁の薄い部分が砕け、小さな欠片が背景紙の上へ散った。

誰も動かなかった。

私だけが、床へひざをついた。

「触らないで」

近づこうとしたスタッフを止める。

大きな欠片から、1つずつ拾った。母が親指でよくなぞっていた場所は、細かく欠けていた。金の線は剥がされ、薄い跡だけが白い断面に残っている。

布がない。持ってきたハンカチを床へ広げた。

「紗季、手を切るぞ」

直哉が私の腕をつかもうとした。

「触らないで!」

自分でも驚くほど強い声が出た。

直哉の手が止まる。

床の上に、かすかな金色が散っている。私が初めて蒔いた金粉。母が10年以上、洗うたび、使うたびに触れてきた線の一部だ。

母は亡くなる前の冬まで、この茶碗を使っていた。

食欲が落ちてからも、朝になると少しだけおかゆを入れた。私が別の器へ替えようとすると、「これが手になじむから」と首を横へ振った。

最後に私が洗った日、金の線の一部が薄くなっていることに気づいた。

金の線を直そうかと尋ねると、母は笑った。

「紗季と私が、ここまで使ってきた跡でしょう。そのままでいいよ」

だから私は、薄くなった線に手を加えなかった。

不揃いな幅も、指が触れて薄くなったところも、母自身がそのまま残すと決めた跡だった。

麻里奈と直哉が削り取ったのは、古くなった修復ではない。

母がそのままでいいと言った時間だった。

同じ形につなぐことはできる。

足りない部分を補い、漆でつなぎ直して金粉を蒔けば、茶碗の形には戻せる。

けれど、母が好きだと言った線は、もうどこにもない。

「佐原さん、すみません。私、驚いて……」

麻里奈が手袋を外しながら言った。

「落とすつもりはなかったんです」

返事をせず、最後の欠片を探した。

千夏が第2スタジオへ飛び込んできた。本社へ向かう電車の中で、撮影日が変更されたことを知らせておいた。私のメッセージを見て、追いかけてきたのだ。

「佐原さん」

私のそばへしゃがみ、すぐにスマホを取り出した。

「動かす前に、撮ります」

「お願い」

千夏は床全体、回転台、道具、欠片の位置を順番に撮った。壁の時計も画面へ入れる。

私はカメラの前に立つ撮影スタッフへ顔を向けた。

「今の映像を消さないでください。撮影を始めた時刻から、茶碗が落ちたあとまで、元の状態で残してください」

若い男性スタッフは直哉を見た。社長の指示を待っている。

「預けていた私物が、ここで壊れました。持ち主として、映像の保存を求めます」

スタッフは床の欠片へ目を落とし、うなずいた。

「事故が記録された映像は、社内規定でも保存対象です。元データのまま保管します」

直哉が口を開きかけたが、スタッフは先にカメラから記録媒体を抜き、保護ケースへ入れた。千夏がその時刻と、記録媒体の番号を書き留める。

それから、壁際に置かれた箱を見つけた。

ふたには、私たちが貼った赤い札が残っている。

【私物・移動禁止】

箱の横には、【3階・佐原修復室】と書かれた管理部の予備鍵が置かれていた。透明な貸出ケースに、使用記録票が差し込まれている。

「午前8時42分。解錠申請者、野口麻里奈。承認者、佐原直哉」

千夏が読み上げる。

直哉が顔をしかめた。

「今はそんな確認をしてる場合じゃないだろ」

「今だから確認しています」

千夏の声は震えていたが、記録票から目をそらさなかった。

「記録票では、移動した時点の破損なし。撮影開始前の状態写真にも、新しい破損はありません」

撮影スタッフがカメラの表示を確認した。

「落下したのは、タイムコードで午前10時17分です」

千夏がその時刻を書き留める。

私はハンカチの四隅を持ち上げ、欠片を包んだ。

立ち上がろうとしても、ひざに力が入らない。千夏が腕を支えてくれた。

「紗季。まず、直せるか見てくれ」

直哉の最初の言葉は、それだった。

謝罪でも、けがの心配でもない。

「動画の公開は来月末だ。撮影をずらせるのは数日だが、すぐに修復へ入れば、まだ間に合う。作業工程は撮り直せばいい」

直哉はモニターと私を交互に見た。

床に残った金粉ではなく、公開日を見ている。

「直哉さん、今はそんな話……」

麻里奈が小さく止めた。

「君が企画したんだろ。最後まで責任を持て」

直哉は彼女へ言い、すぐに私へ向き直った。

「元よりきれいにすれば、問題にはならない。この茶碗だって、前に一度割れてるんだから」

胸ではなく、頭の中が熱くなった。

「前に割れたから、もう一度割ってもいいの?」

「そういう意味じゃない」

「移動させないでと書いた。私物だと伝えた。撮影には使わせないと、あなたにも送った」

「企画の価値を考えたら、使うべきだと判断したんだ」

「持ち主の意思より?」

「会社のためだ」

直哉は迷わず言った。

その一言で、不思議なくらい静かになった。

私の写真を使ったのも。

仕事から名前を消したのも。

愛人を妻と呼んだのも。

母の茶碗を壊したのも。

直哉の中では、すべて会社のためになる。

そして私は、会社のためなら、何をされても最後には直す人間だと思われていた。

「千夏さん。欠片の状態を撮ったら、ハンカチごと包んで。保管台帳には、撮影中の落下で破損、旧修復部分は撮影前に除去済みと書いて」

「はい」

「今日、修復室にある器も全部状態を確認する。継景の所有品と、顧客からの預かり品を分けて」

直哉が間へ入った。

「待て。何をするつもりだ」

「年間契約は更新しない。今の契約が終わるまでに、預かっている器を持ち主へ返す」

「たった数日で、そんなことを決めるな」

「数日じゃない。あなたは1年半前から決めていた。人前で誰を妻と呼ぶかも、私の仕事を誰の名前で見せるかも」

「麻里奈のことと仕事は別だと言っただろ」

「別なら、なおさら契約どおりに終わらせられる」

「感情で会社を困らせるのか?」

「感情で私物を持ち出したのは、私じゃない」

直哉の顔から、壇上で見せていた柔らかな表情が消えた。

「紗季の仕事がなくなるぞ」

怖かった。

修復室の賃料。材料費。千夏の仕事。来月からの生活。

どれにも、まだ答えがない。

それでも、ここへ戻って直哉の許可を待つ生活よりは、何もない場所のほうがましだった。

「なくなっても、継景の名前の下では働かない」

「継景はふたりで作った会社だろ」

「あなたの会社よ。私が売った土地のお金も、修復した器も使ったけれど、株は1株も持っていない。でも、その話を今ここで争うつもりはない」

一歩ずつ、言葉にする。

「佐原修復室は私の仕事です。白椿の茶碗も、私の物です。私の名前を使うかどうかは、私が決める」

直哉はしばらく私を見ていた。

やがて声を落とす。

「家へ帰って話そう。今はお互い普通じゃない」

また、私の肩へ手を置こうとした。

その手首をつかみ、体から離した。

「あなたとふたりで話すために、家へ戻るつもりはない」

「紗季」

「離婚したい。これからの連絡は、記録が残る形にして」

麻里奈が「待ってください」と呼びかけた。けれど、私は彼女を見なかった。

ハンカチに包んだ茶碗を、千夏から受け取る。

かつて母へ返したときより、ずっと軽く感じた。

失った部分の重さは、量れない。

「この茶碗を、いつまでに直せる」

それでも直哉は尋ねた。

私は欠片を抱き、第2スタジオの扉を開けた。

「もう、あなたのためには直さない」

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