Mag-log in通知を見て、私はすぐに家を出た。
自宅から継景本社ビルまでは、電車と徒歩で25分ほどかかる。駅からの道をほとんど走った。
向かっていることは、直哉にも麻里奈にも伝えていない。白椿の茶碗を自宅へ持ち帰る。私物を会社の建物に置いておく理由は、もうなかった。
午前10時を少し過ぎた継景本社ビルは、平日より静かだった。受付の照明は消え、廊下に人の姿もない。
第2スタジオのある4階でエレベーターを降りると、廊下の奥から声が聞こえた。
「もう少し手元を寄りで。古い継ぎ目が外れるところ、絶対に使いたい」
麻里奈の声だった。
駆け出し、第2スタジオの扉を開けた。
白い背景紙の前で、母の茶碗は再び2つの破片に分けられていた。金の線は削り取られ、白い断面に薄い跡だけが残っている。
麻里奈が白い手袋をはめ、片方の破片を回転台へ載せた。回転台には、保護用の布も、破片を支える台もない。
その横で、直哉がモニターを見ていた。
破片の丸い底が、ぐらりと傾いた。
「やめて!」
声が部屋に響いた。
麻里奈がこちらを向く。その間にも破片は回転台の上を滑った。手袋の指先が縁をかすめたが、止められない。
回転台の縁へ当たり、床へ落ちる。
乾いた音がした。
白い破片が、さらに3つに割れた。縁の薄い部分が砕け、小さな欠片が背景紙の上へ散った。
誰も動かなかった。
私だけが、床へひざをついた。
「触らないで」
近づこうとしたスタッフを止める。
大きな欠片から、1つずつ拾った。母が親指でよくなぞっていた場所は、細かく欠けていた。金の線は剥がされ、薄い跡だけが白い断面に残っている。
布がない。持ってきたハンカチを床へ広げた。
「紗季、手を切るぞ」
直哉が私の腕をつかもうとした。
「触らないで!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
直哉の手が止まる。
床の上に、かすかな金色が散っている。私が初めて蒔いた金粉。母が10年以上、洗うたび、使うたびに触れてきた線の一部だ。
母は亡くなる前の冬まで、この茶碗を使っていた。
食欲が落ちてからも、朝になると少しだけおかゆを入れた。私が別の器へ替えようとすると、「これが手になじむから」と首を横へ振った。
最後に私が洗った日、金の線の一部が薄くなっていることに気づいた。
金の線を直そうかと尋ねると、母は笑った。
「紗季と私が、ここまで使ってきた跡でしょう。そのままでいいよ」
だから私は、薄くなった線に手を加えなかった。
不揃いな幅も、指が触れて薄くなったところも、母自身がそのまま残すと決めた跡だった。
麻里奈と直哉が削り取ったのは、古くなった修復ではない。
母がそのままでいいと言った時間だった。
同じ形につなぐことはできる。
足りない部分を補い、漆でつなぎ直して金粉を蒔けば、茶碗の形には戻せる。
けれど、母が好きだと言った線は、もうどこにもない。
「佐原さん、すみません。私、驚いて……」
麻里奈が手袋を外しながら言った。
「落とすつもりはなかったんです」
返事をせず、最後の欠片を探した。
千夏が第2スタジオへ飛び込んできた。本社へ向かう電車の中で、撮影日が変更されたことを知らせておいた。私のメッセージを見て、追いかけてきたのだ。
「佐原さん」
私のそばへしゃがみ、すぐにスマホを取り出した。
「動かす前に、撮ります」
「お願い」
千夏は床全体、回転台、道具、欠片の位置を順番に撮った。壁の時計も画面へ入れる。
私はカメラの前に立つ撮影スタッフへ顔を向けた。
「今の映像を消さないでください。撮影を始めた時刻から、茶碗が落ちたあとまで、元の状態で残してください」
若い男性スタッフは直哉を見た。社長の指示を待っている。
「預けていた私物が、ここで壊れました。持ち主として、映像の保存を求めます」
スタッフは床の欠片へ目を落とし、うなずいた。
「事故が記録された映像は、社内規定でも保存対象です。元データのまま保管します」
直哉が口を開きかけたが、スタッフは先にカメラから記録媒体を抜き、保護ケースへ入れた。千夏がその時刻と、記録媒体の番号を書き留める。
それから、壁際に置かれた箱を見つけた。
ふたには、私たちが貼った赤い札が残っている。
【私物・移動禁止】
箱の横には、【3階・佐原修復室】と書かれた管理部の予備鍵が置かれていた。透明な貸出ケースに、使用記録票が差し込まれている。
「午前8時42分。解錠申請者、野口麻里奈。承認者、佐原直哉」
千夏が読み上げる。
直哉が顔をしかめた。
「今はそんな確認をしてる場合じゃないだろ」
「今だから確認しています」
千夏の声は震えていたが、記録票から目をそらさなかった。
「記録票では、移動した時点の破損なし。撮影開始前の状態写真にも、新しい破損はありません」
撮影スタッフがカメラの表示を確認した。
「落下したのは、タイムコードで午前10時17分です」
千夏がその時刻を書き留める。
私はハンカチの四隅を持ち上げ、欠片を包んだ。
立ち上がろうとしても、ひざに力が入らない。千夏が腕を支えてくれた。
「紗季。まず、直せるか見てくれ」
直哉の最初の言葉は、それだった。
謝罪でも、けがの心配でもない。
「動画の公開は来月末だ。撮影をずらせるのは数日だが、すぐに修復へ入れば、まだ間に合う。作業工程は撮り直せばいい」
直哉はモニターと私を交互に見た。
床に残った金粉ではなく、公開日を見ている。
「直哉さん、今はそんな話……」
麻里奈が小さく止めた。
「君が企画したんだろ。最後まで責任を持て」
直哉は彼女へ言い、すぐに私へ向き直った。
「元よりきれいにすれば、問題にはならない。この茶碗だって、前に一度割れてるんだから」
胸ではなく、頭の中が熱くなった。
「前に割れたから、もう一度割ってもいいの?」
「そういう意味じゃない」
「移動させないでと書いた。私物だと伝えた。撮影には使わせないと、あなたにも送った」
「企画の価値を考えたら、使うべきだと判断したんだ」
「持ち主の意思より?」
「会社のためだ」
直哉は迷わず言った。
その一言で、不思議なくらい静かになった。
私の写真を使ったのも。
仕事から名前を消したのも。
愛人を妻と呼んだのも。
母の茶碗を壊したのも。
直哉の中では、すべて会社のためになる。
そして私は、会社のためなら、何をされても最後には直す人間だと思われていた。
「千夏さん。欠片の状態を撮ったら、ハンカチごと包んで。保管台帳には、撮影中の落下で破損、旧修復部分は撮影前に除去済みと書いて」
「はい」
「今日、修復室にある器も全部状態を確認する。継景の所有品と、顧客からの預かり品を分けて」
直哉が間へ入った。
「待て。何をするつもりだ」
「年間契約は更新しない。今の契約が終わるまでに、預かっている器を持ち主へ返す」
「たった数日で、そんなことを決めるな」
「数日じゃない。あなたは1年半前から決めていた。人前で誰を妻と呼ぶかも、私の仕事を誰の名前で見せるかも」
「麻里奈のことと仕事は別だと言っただろ」
「別なら、なおさら契約どおりに終わらせられる」
「感情で会社を困らせるのか?」
「感情で私物を持ち出したのは、私じゃない」
直哉の顔から、壇上で見せていた柔らかな表情が消えた。
「紗季の仕事がなくなるぞ」
怖かった。
修復室の賃料。材料費。千夏の仕事。来月からの生活。
どれにも、まだ答えがない。
それでも、ここへ戻って直哉の許可を待つ生活よりは、何もない場所のほうがましだった。
「なくなっても、継景の名前の下では働かない」
「継景はふたりで作った会社だろ」
「あなたの会社よ。私が売った土地のお金も、修復した器も使ったけれど、株は1株も持っていない。でも、その話を今ここで争うつもりはない」
一歩ずつ、言葉にする。
「佐原修復室は私の仕事です。白椿の茶碗も、私の物です。私の名前を使うかどうかは、私が決める」
直哉はしばらく私を見ていた。
やがて声を落とす。
「家へ帰って話そう。今はお互い普通じゃない」
また、私の肩へ手を置こうとした。
その手首をつかみ、体から離した。
「あなたとふたりで話すために、家へ戻るつもりはない」
「紗季」
「離婚したい。これからの連絡は、記録が残る形にして」
麻里奈が「待ってください」と呼びかけた。けれど、私は彼女を見なかった。
ハンカチに包んだ茶碗を、千夏から受け取る。
かつて母へ返したときより、ずっと軽く感じた。
失った部分の重さは、量れない。
「この茶碗を、いつまでに直せる」
それでも直哉は尋ねた。
私は欠片を抱き、第2スタジオの扉を開けた。
「もう、あなたのためには直さない」
10月8日、見覚えのない証明書が届いた。差出人は、継景と取引のある老舗ホテルの購買担当者だった。私は古い町家の2階に借りた仮作業室で、応募用の作品記録を整理していた。机が狭く、撮影板を置けばノートパソコンを端へ寄せなければならない。それでも、継景の社内を通らずに仕事ができるだけで、呼吸が楽だった。メールの件名には、【修復証明書の記載内容について】とある。宛先は、佐原修復室の業務用アドレスだった。添付ファイルを開く。ホテルの客室に飾る大皿の修復証明書だった。作業日は10月3日。修復責任者の欄には、佐原紗季。問い合わせ先にも、佐原修復室のアドレスが記載されている。ページの下に、私の署名が入っていた。けれど、私はこの皿を見たことがない。写真を拡大する。藍色の波模様。縁から中央へ伸びた割れに沿って、金色の線が走っている。署名だけは、確かに私の字だった。自分の右手を見る。誰かが、私と同じ署名を書けるはずはない。そう思ったあと、2年前の状態報告書を開いた。署名の形が一致する。「紗季」の「季」の最後に、インクが小さくにじんでいるところまで同じだった。手書きした署名を画像として切り取り、新しい書類へ載せている。ホテルからの本文を読み直した。【納品された皿の接合部分に浮きが見られたため、作業内容をご確認いただけますでしょうか。証明書に記載された修復責任者様へ直接伺うよう、担当部署から案内を受けました】喉が渇いた。返信画面を開き、指を置く。この書類は偽物です。夫が私の署名を使いました。そう書けば、すぐに直哉を追い詰められる。けれど、書類を作った人間も、作業した人間も、私は知らない。直哉が直接指示したのかも分からない。分からないことまで怒りで埋めれば、私も直哉と同じになる。電話を取り、弁護士の森下絵里(もりした えり)へ連絡した。離婚と契約終了の交渉を頼んでいる代理人だ。事情を話すと、森下はメールと添付ファイルを、受け取った状態のまま転送するよう言った。30分後、オンラインで画面をつないだ。森下は証明書と、2年前の状態報告書を見比べた。「まず、届いたメールと添付ファイルは、そのまま保存してください。佐原さんが確実に言えることは、3つです」「この皿を見ていない。作業していない。この証明書を発行していない」「はい。それだけ
月曜日、修復室は返却用の箱で埋まった。机の上に6箱。壁際に4箱。乾燥棚には、作業を終えるまで動かせない器が7点残っている。私は保管台帳を開き、千夏が読み上げる管理番号と照合した。「K-2417。青磁の鉢。修復前の状態写真、12枚。修復作業は未着手です」「返却理由は、業務委託契約の終了に伴う修復担当の変更。継景から持ち主へ連絡済み?」「昨日、継景の受付担当が会社のアドレスから送りました。返信も案件管理システムに共有されています。修復せず返却を希望です」「分かりました。箱を閉じてください」器を包む薄紙の音だけが続く。茶碗が壊れた翌日、私は直哉へ書面を送った。10月31日で年間契約を終了し、更新しないこと。同日付で修復室の賃貸契約も終了し、部屋を明け渡すこと。新しい依頼は受けないこと。作業中の器は持ち主の希望を確認し、期限までに完成させるか、未修復のまま返却すること。夫婦のことは、代理人を通して話したいとも書いた。返事は1行だった。【勝手な行動で顧客に迷惑をかけるな】その言葉に従い、迷惑をかけないための作業をしている。昼前、1階受付から内線が入った。私は小さな花器の箱を持ち、エレベーターで1階へ下りた。持ち主は、60代の男性だった。亡くなった姉が作った花器で、底にひびがある。まだ状態を調べただけで、修復には入っていない。「会社から、担当者の都合で返すと連絡がありましてね」男性はそう言い、私の顔を見た。「あなたが担当の佐原さん?」「はい。私個人の都合ではなく、継景との委託契約が終了するためです。それでも、途中でお返しすることになり、申し訳ありません」花器を箱から出し、預かったときから状態が変わっていないことを一緒に確認した。修復前の写真と撮影日、いま撮った返却時の写真も見せた。「ここまで調べてあるなら、このままお願いできませんか」「契約終了までに仕上げられるとお約束できないため、未着手の器はお返ししています。別の修復先は、継景からご案内できます」「会社じゃなくて、あなたに頼んだつもりだったんだけどなあ」男性は困ったように笑った。その一言が、痛かった。うれしいと感じてしまったからだ。仕事を失う怖さの中で、私の手を選んでくれる人がいる。それでも、その気持ちを利用して顧客を連れていくわけにはいかない。「こちらから個別
通知を見て、私はすぐに家を出た。自宅から継景本社ビルまでは、電車と徒歩で25分ほどかかる。駅からの道をほとんど走った。向かっていることは、直哉にも麻里奈にも伝えていない。白椿の茶碗を自宅へ持ち帰る。私物を会社の建物に置いておく理由は、もうなかった。午前10時を少し過ぎた継景本社ビルは、平日より静かだった。受付の照明は消え、廊下に人の姿もない。第2スタジオのある4階でエレベーターを降りると、廊下の奥から声が聞こえた。「もう少し手元を寄りで。古い継ぎ目が外れるところ、絶対に使いたい」麻里奈の声だった。駆け出し、第2スタジオの扉を開けた。白い背景紙の前で、母の茶碗は再び2つの破片に分けられていた。金の線は削り取られ、白い断面に薄い跡だけが残っている。麻里奈が白い手袋をはめ、片方の破片を回転台へ載せた。回転台には、保護用の布も、破片を支える台もない。その横で、直哉がモニターを見ていた。破片の丸い底が、ぐらりと傾いた。「やめて!」声が部屋に響いた。麻里奈がこちらを向く。その間にも破片は回転台の上を滑った。手袋の指先が縁をかすめたが、止められない。回転台の縁へ当たり、床へ落ちる。乾いた音がした。白い破片が、さらに3つに割れた。縁の薄い部分が砕け、小さな欠片が背景紙の上へ散った。誰も動かなかった。私だけが、床へひざをついた。「触らないで」近づこうとしたスタッフを止める。大きな欠片から、1つずつ拾った。母が親指でよくなぞっていた場所は、細かく欠けていた。金の線は剥がされ、薄い跡だけが白い断面に残っている。布がない。持ってきたハンカチを床へ広げた。「紗季、手を切るぞ」直哉が私の腕をつかもうとした。「触らないで!」自分でも驚くほど強い声が出た。直哉の手が止まる。床の上に、かすかな金色が散っている。私が初めて蒔いた金粉。母が10年以上、洗うたび、使うたびに触れてきた線の一部だ。母は亡くなる前の冬まで、この茶碗を使っていた。食欲が落ちてからも、朝になると少しだけおかゆを入れた。私が別の器へ替えようとすると、「これが手になじむから」と首を横へ振った。最後に私が洗った日、金の線の一部が薄くなっていることに気づいた。金の線を直そうかと尋ねると、母は笑った。「紗季と私が、ここまで使ってきた跡でしょう。そのままでいいよ」だから私
白椿の茶碗は、修復室にはなかった。保管台帳を閉じ、千夏と一緒に継景本社ビルを探した。1階の展示棚、2階の広報部資料室、修復室と同じ3階にある第1スタジオ。どこにもない。午前10時を過ぎたころ、撮影担当の社員が教えてくれた。「白い茶碗なら、4階の第2スタジオにありましたよ。昨日のイベント前に、野口さんが持ってきたと思います」千夏とエレベーターで4階へ上がった。廊下の突き当たりにある、第2スタジオの扉を開ける。天井近くまで引き上げられた白い背景紙の前に、茶碗が置かれていた。柔らかな布も、転倒を防ぐ台もない。細いアクリル板の上で、照明を浴びている。横には、撮影用のドライフラワーが並べられていた。千夏が茶碗へ近づき、ラベルを読み上げる。「白椿茶碗。佐原紗季さん個人所蔵。撮影移動の記録、なし」「戻そう」照明の電源を切り、両手で茶碗を持ち上げた。器の表面は冷たかった。金の線へ傷はない。高台にも欠けはない。息を詰めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。「何をしているんですか?」背後から、麻里奈の声がした。振り返ると、タブレットを抱えた彼女が立っていた。今日は黒いパンツスーツだった。「私の茶碗を戻します」「今日も撮影があります。終わったら戻しますから」「私は貸していません」麻里奈は、困った子どもをなだめるように笑った。「昨日の映像、すごく反応がよかったんです。この茶碗は継景の原点でしょう?大切にしまっておくより、たくさんの人に見てもらったほうがいいと思いませんか」「誰に聞きました?」「直哉さんです。会社を始めるきっかけになった器だって」「これは母の遺品です。会社の所有物でも、広告用の備品でもありません」「でも、会社の成り立ちと切り離せないですよね」言葉を返す前に、千夏が口を開いた。「野口さん。私物を移動するときも、保管台帳への記入が必要です。昨日の移動時刻と、運んだ方のお名前を教えてください」「社内撮影でしょう。そこまで必要?」「必要です」千夏の返事は短かった。麻里奈の笑みが消えた。タブレットの端を指でたたき、私を見る。「佐原さん。昨日のことは驚かせたと思います。でも、仕事に私情を持ち込むのはやめませんか」私情。夫が愛人を妻と呼んだことも、母の遺品を無断で持ち出されたことも、彼女にとっては私情らしい。「仕事として言っ
帰宅したのは、午後11時を回ってからだった。ダイニングの照明をつけると、テーブルに白い花束が置かれていた。10本のバラに、金色の数字をかたどった飾り。朝にはなかったものだ。【結婚10周年おめでとう】小さなカードには、直哉の字でそう書かれている。昼間なら、喜んで花瓶を選んだかもしれない。今は、壇上で麻里奈の腰を抱いていた手が花屋でこれを受け取る姿しか浮かばなかった。花束には触れず、契約書の封筒をテーブルへ置いた。直哉は30分ほど遅れて帰ってきた。玄関で靴を脱ぎ、リビングに私がいるのを見ると、少しだけ眉を上げた。「起きてたのか」「話すんでしょう」「明日でもいい。疲れただろ」冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、立ったまま半分ほど飲む。イベントが成功した夜の顔をしていた。頬にわずかな赤みがあり、口元にはまだ笑みの名残がある。「麻里奈さんとは、いつから?」直哉はペットボトルのふたを閉めた。「仕事の関係なら、入社したときからだ」「壇上で妻と呼ぶ関係」「言葉尻をつかむなよ」椅子を引き、私の向かいへ座る。視線だけは外さなかった。営業先で不都合な質問を受けたときと同じ顔だ。「麻里奈には発信力がある。器に興味のない人間にも、継景の価値を届けられる。今日だって、彼女を前に出したから取材が集まった」「私が聞いたのは仕事の評価じゃない」「仕事と私生活を切り離せない時期があった。それだけだ」「今も続いてる?」数秒待っても、答えはなかった。直哉が答えないことが、そのまま答えになった。ひざの上で両手を組む。指が冷たかった。怒鳴りたいわけではない。泣いて謝らせたいわけでもない。ただ、10年間一緒に暮らした相手の口から、事実を聞きたかった。「いつから?」「1年半くらい前だ」数字があまりに簡単に出てきて、息が止まりそうになった。1年半。私が母の一周忌を終えたあと、仕事へ戻れずにいたころだ。直哉は毎朝コーヒーを入れ、無理をしなくていいと言った。夜になると、広報戦略の会議だと言って出かけていた。「離婚するつもりだった?」「そこまでは決めてない」「麻里奈さんには?」「紗季」直哉は私の名を低く呼び、テーブルの上へ手を置いた。「今夜のことと、俺たちの10年は別だ。会社も家庭も、感情だけで切れるほど単純じゃない」「別にしたのは、あなたでし
結婚10周年の夜、夫は別の女を妻と呼んだ。私の名前は佐原紗季(さはら さき)。陶磁器の修復を仕事にしている。そのとき私は、舞台袖で1枚の皿を支えていた。直径40センチほどの白い大皿には、枝からこぼれる椿が描かれている。半年前、2つに割れた状態で持ち込まれ、私が漆でつないだ。継ぎ目に薄く漆を塗り、乾ききる前に金粉を蒔いて仕上げる。そうして生まれた金の線が、舞台の照明を受けて細く光っている。「佐原さん、展示台へ運びます」助手の小暮千夏(こぐれ ちなつ)が、白い手袋をはめた両手を差し出した。「待って。右の留め具が少し浮いてる」皿を片手で支え、展示台の金具を締め直す。会場から拍手が起こった。黒い幕の隙間から、照明に浮かぶ壇上と、そこへ向けて並ぶ客席の端が見えた。招待客が席を埋め、壁際には継景が手がけた器がガラスケースに並んでいる。株式会社継景の創立7周年記念イベント。会場は、都内ホテルの大宴会場だった。正面に設けられた舞台を囲むように丸テーブルが並び、取引先や顧客、メディア関係者が席を埋めている。壁際には、継景が手がけた器がガラスケースに収められ、照明を受けて静かに輝いていた。壊れた器を継ぎ、そこに残る暮らしの景色を未来へ渡す。その思いを込め、夫の佐原直哉(さはら なおや)が「継景(つぐけい)」を立ち上げてから7年になる。そして今日は、私たちの結婚記念日でもあった。継景の開業日をこの日に決めたのは、直哉だった。 「夫婦で始める会社なんだから、記念日も同じでいいだろ」 7年前、彼はそう言って笑った。朝、直哉はネクタイを締めながら言った。「会社も夫婦も節目だ。今夜は、今まででいちばん大事な日になる」その意味を、私は取り違えていたらしい。「ここまで継景を育ててこられたのは、私ひとりの力ではありません」直哉の声が、スピーカーから滑らかに流れてくる。舞台袖のモニターには、壇上に立つ夫が映っていた。濃紺のスーツに、私が誕生日に贈った銀色のタイピン。ライトを浴び、穏やかに笑っている。「器に残された思いを見つけ、今の暮らしに届く物語へ変えてくれた人がいます」客席の視線が、壇上の脇へ集まった。深い緑のドレスを着た野口麻里奈(のぐち まりな)が歩み出る。継景の広報責任者で、2年前に入社してから、いつも直哉のすぐ隣にいた女性だ。仕事の