Share

第7話

Author: 一時
私はひとまず、友人が使っていないマンションの一室に身を寄せた。

翌日、弁護士を通じて亮介に離婚協議書の案を送ってもらったが、返事はなかった。

その日の午後、今度は麻衣から会いたいと連絡が来た。

待ち合わせたカフェで、麻衣はもうあのブレスレットを外していた。手首には、うっすらと跡だけが残っていた。

「亮介に、これ返してこいって言われたの」

麻衣はジュエリーボックスを私の前に差し出した。

「それは亮介に渡すために用意したものよ。私が受け取るものじゃないわ」

私は受け取らなかった。

麻衣は小さく笑った。

「本当に離婚するの?」

「あなたに関係ある?」

「あるわよ」

麻衣はコーヒーを一口飲んだ。亮介の前で見せていた、あのしおらしい態度はもうなかった。

「彩香さん、私と亮介は大学の頃からの付き合いなの。最初の事業プランも二人で考えたし、研究室に泊まり込んだことだってある。会社がうまくいったら、一緒に水中ホテルへ行こうって約束もしてた」

「それで、今さら亮介まで自分のものにするつもり?」

「今さらじゃないわ。もともと私のものだったのよ」

麻衣は平然と言った。

「あ
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 結婚3周年、今度は私一人でオーロラを見に行く   第10話

    亮介は自分名義のマンションを2戸売り、スポーツカーも手放して、会社の損失を埋めた。財産分与で私の取り分になったお金も、一円残らず私の口座へ振り込んできた。亮介の母にも実家へ戻ってもらい、私が嫌がっていたことを、今さら一つずつなくしていった。離婚届を出す前日、亮介はベルベットの小箱を手に、私の会社の前で待っていた。中に入っていたのは、5カラットもあるダイヤの指輪だった。以前、買ってくれると約束していたものよりずっと大きく、眩しいほど輝いていた。亮介が私の前で片膝をつくと、通りがかった人たちまで何事かと足を止めた。「彩香、麻衣はもう捕まった。会社もなんとか持ち直した。もう前みたいなことにはならない」亮介は縋るような目で私を見上げた。「もう一度だけチャンスをくれないか。一からやり直そう。今度こそちゃんとお前の話を聞く。アイスランドにも行こう。二人でいろんな国を回ろう……」私は差し出された指輪を見た。あれほど欲しかったはずなのに、今はもう何も感じなかった。「桐谷さんのことも会社のことも片がついて、こんな指輪まで用意したら、それで私が戻ると思ったの?」亮介は言葉を失った。指輪を持つ手が、かすかに震えた。「その指輪、きれいね」私は静かに続けた。「結婚3周年の日にこれをもらってたら、きっと嬉しくて泣いてたと思う」もう一度、指輪に目を落とした。「でも今は、きれいな石だなって思うだけ」私は亮介の横を通り過ぎた。「明日10時、区役所に来て。遅れないで」翌日、私たちは区役所に離婚届を出した。手続きが終わっても、亮介の手はまだ震えていた。「彩香……これからも、友達ではいられないか?何かあったら、電話してもいいか?」目を赤くした亮介に、私は首を横に振った。「無理よ」外へ出ると、雨は上がり、珍しくきれいな青空が広がっていた。「これから先、あなたがうまくやっていけたらいいと思ってる。でも、もう私がそばにいることはないわ」それだけ言って、私は待たせていたタクシーへ向かった。タクシーが走り出してからバックミラーを見ると、亮介は区役所の前に一人でしゃがみ込み、顔を覆っていた。ポケットからは、あのオーロラブレスレットが滑り落ち、足元の水たまりに落ちた。けれど、それももう私には関係なかった。

  • 結婚3周年、今度は私一人でオーロラを見に行く   第9話

    3日後、会社にいた亮介のもとへ、家庭裁判所から離婚調停の申立書の写しが届いた。同じ日、弁護士に申し立ててもらっていた仮差押えも認められ、亮介名義の預金の一部と、亮介が持っている会社の株式の一部は動かせなくなった。午後2時、亮介が私のマンションに押しかけてきた。目は充血して真っ赤で、裁判所から届いた書類を握りしめていた。いつもはきちんと着ているスーツも、その日はしわだらけだった。「彩香、俺の口座まで押さえたのか?そこまでしなくてもいいだろ」亮介はかすれた声で言い、書類をテーブルに叩きつけた。私はソファに座ったまま、コーヒーを一口飲んだ。「私に黙って桐谷さんと水中スイートに泊まったときは、私のことなんて気にしなかったでしょ」「だから、あれは出資のためだったって言ってるだろ!」亮介は苛立ったように髪をかき上げた。「今は口座も株も押さえられて、出資の話まで止まりかけてる。このまま金が入らなかったら、会社だって回らなくなる。何年もかけてここまでやってきたのに、全部潰す気かよ」「私だって、その会社をずっと一緒に支えてきたのよ」私は立ち上がった。「起業したばかりの頃、あなたが寝る間も惜しんでコードを書いてる間、私は仕事を二つ掛け持ちして家賃を払ってた。胃出血で入院したときも、3日間ずっと付き添った」亮介は黙ったままだった。「この会社は、あなただけでここまで来たんじゃない。それなのに、その株を桐谷さんに渡そうとしたんでしょ。だったら私が、自分の分を取り戻したっていいじゃない」亮介は一歩後ろへ下がり、顔色を変えた。「会社を麻衣に渡すつもりなんてなかった……」亮介の声から、さっきまでの勢いが消えた。「彩香、調停も仮差押えも取り下げてくれないか。麻衣はすぐ会社から外す。だから、家に戻ってきてくれ。これからはちゃんとお前の話も聞くから」「もう無理よ」私は麻衣から送られてきた写真を、亮介の前に置いた。「結婚3周年のために用意したブレスレットを、桐谷さんと二人でつけてたでしょ。あれを見たとき、もう戻れないって思ったの」亮介は写真を見つめたまま、何も言えなくなった。ずっと、私が怒っているだけで、そのうち元に戻ると思っていたのだろう。けれど裁判所から書類が届き、預金や株まで押さえられて、ようやく私が本気

  • 結婚3周年、今度は私一人でオーロラを見に行く   第8話

    離婚協議書を亮介に送ってから5日経っても、署名したものは返ってこなかった。その間も、亮介は秘書を通して花や食事を送ってきた。しまいには、アイスランド行きの航空券まで二人分取り直してきた。私はどれも受け取らず、そのまま返した。金曜日の午後、家に置いたままになっていた必要な書類を取りに戻った。ドアを開けると、リビングに麻衣がいた。私のスリッパを履き、テーブルには私が使っていたマグカップまで置かれていた。亮介はバルコニーで電話をしていたが、私に気づくとすぐに切った。「麻衣が泊まってたホテルで、宿泊客の個人情報が漏れたらしい。しばらくあそこにいるのは危ないから、何日かうちに泊まってもらうことにした」まるで離婚の話なんてしていないような口ぶりだった。麻衣が立ち上がった。「彩香さん、亮介から最近はこっちに帰ってないって聞いてて……二晩だけ、お邪魔させてもらうつもりだったんです」「ここ、まだ私たちの家なんだけど」私は亮介を見た。「悪いけど、今日は出ていってもらって」亮介は眉をひそめた。「ホテルの件は仕事にも関わるんだ。俺たちのことで麻衣まで巻き込むなよ」「私の物を勝手に使って、この家にまで泊まってるのに、それも仕事だって言うの?」麻衣はすぐにスリッパを脱いだ。「ごめんなさい。私、今すぐ出ます」キャリーケースを引き寄せ、私の横を通ろうとしたところで、麻衣がふらついた。亮介はとっさにその体を支えた。「まだ調子戻ってないんだろ。無理するなよ」亮介は迷うことなくローテーブルの引き出しから飴を取り出し、包みを開けて麻衣に渡した。それは、私が自分のために置いていたものだった。以前、低血糖で一度倒れたことがあり、それからずっと同じ場所に入れていた。亮介は飴の場所は覚えていたのに、それが私のために置いてあったことは忘れていた。それでも、麻衣が低血糖になりやすいことだけは覚えていた。「いいから、少し座ってろ」麻衣は亮介に支えられたまま、その肩越しに私を見た。さっきまでの弱々しさは消え、どこか得意げだった。私はそれ以上何も言わず、書斎で必要な書類だけを取った。管理会社にも連絡し、顔認証の登録を解除してもらった。玄関を出ようとしたところで、亮介が追ってきた。「彩香、こうなるたびに俺に

  • 結婚3周年、今度は私一人でオーロラを見に行く   第7話

    私はひとまず、友人が使っていないマンションの一室に身を寄せた。翌日、弁護士を通じて亮介に離婚協議書の案を送ってもらったが、返事はなかった。その日の午後、今度は麻衣から会いたいと連絡が来た。待ち合わせたカフェで、麻衣はもうあのブレスレットを外していた。手首には、うっすらと跡だけが残っていた。「亮介に、これ返してこいって言われたの」麻衣はジュエリーボックスを私の前に差し出した。「それは亮介に渡すために用意したものよ。私が受け取るものじゃないわ」私は受け取らなかった。麻衣は小さく笑った。「本当に離婚するの?」「あなたに関係ある?」「あるわよ」麻衣はコーヒーを一口飲んだ。亮介の前で見せていた、あのしおらしい態度はもうなかった。「彩香さん、私と亮介は大学の頃からの付き合いなの。最初の事業プランも二人で考えたし、研究室に泊まり込んだことだってある。会社がうまくいったら、一緒に水中ホテルへ行こうって約束もしてた」「それで、今さら亮介まで自分のものにするつもり?」「今さらじゃないわ。もともと私のものだったのよ」麻衣は平然と言った。「あのとき私が海外に行かなかったら、今、亮介の隣にいるのはあなたじゃなかった。何年か一緒に苦労したからって、私と亮介の10年に代われると思ってるの?」「そこまで自信があるなら、どうしてみんなで私に嘘をついたの?」麻衣の笑みが少し消えた。「亮介が、あなたを傷つけたくなかったからよ」「違うわ。私が傷ついたあと、自分が責められるのが嫌だっただけ」窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。麻衣はしばらく黙っていたが、ふいに口を開いた。「あの夜、亮介がどうして男性用のブレスレットをつけてたか知ってる?」カップを持つ私の手が止まった。麻衣はスマホを取り出し、一枚の写真を見せた。水中スイートの大きな窓の前に、亮介と麻衣が並んで立っていた。麻衣は女性用を、亮介は男性用のブレスレットをつけていた。青い水の光に照らされた二本は、まるで本当に二人のために作られたペアのように見えた。「これ、彩香さんが用意したペアだって、亮介にはちゃんと言ったの」麻衣は静かに続けた。「それでも外さなかったわ」私は写真を見たまま、本当かどうかは聞かなかった。麻衣が何を

  • 結婚3周年、今度は私一人でオーロラを見に行く   第6話

    「旅行と株のことで離婚って……本気で言ってるのか?」個室を出ると、亮介がすぐに追ってきて、エレベーターの前で私の手首をつかんだ。何度か振りほどこうとしたが、なかなか離してくれなかった。個室のほうから、亮介の母の怒鳴り声が聞こえてきた。「行かせなさい!離婚して一人でどれだけやっていけるか、見ものだわ。どうせ何日もしないうちに、泣きついて戻ってくるんだから!」「旅行だけの話じゃないでしょ。ホテルのことも、ブレスレットも、あの写真もある」「だから、それはもう説明しただろ」「同じ嘘を繰り返しただけでしょ」ちょうどエレベーターのドアが開き、中にいた人たちが一斉にこちらを見た。亮介はようやく手を離し、声を落とした。「麻衣は帰ってきたばかりだし、ファンド側は麻衣しか信用してないんだ。株のことだって出資の条件の一つだよ。俺が麻衣に未練があるとか、そういう話じゃない」「じゃあ、どうして私に嘘をついたの?」亮介は少し黙ったあと、ようやく答えた。「お前が反対するって分かってたからだ」これが本当の理由だった。私に余計な心配をさせたくなかったわけでも、社内を騒がせたくなかったわけでもない。私が反対すると分かっていたから、最初から黙って進めた。それだけだった。「彩香、俺はお前と別れるつもりなんてなかったんだ」亮介の口調が少しやわらいだ。「ホテルのことは悪かった。俺もやり方を間違えた。出資が決まったら、麻衣とはちゃんと距離を置くから」「ブレスレットは?」「あれがお前の用意したものだとは知らなかった」「じゃあ、私がただ買っただけのものなら、桐谷さんに渡してもよかったってこと?」亮介は何も答えなかった。エレベーターのドアが閉まりかけ、亮介は手で押さえた。「今は頭にきてるだけだろ。今日はもう帰ろう。離婚の話は、落ち着いてからにしよう」亮介はまだ、離婚を認めさえしなければ、私もそのうち諦めると思っているようだった。家に戻ると、私はスーツケースを出して荷造りを始めた。3年間暮らした家には、私が選んだものがあちこちにあった。それなのに、いざ持っていくものを選んでみると、本当に自分のものと呼べるものは驚くほど少なかった。持っていくことにしたのは、服と仕事用のパソコン、それから母が遺してくれた真珠のイ

  • 結婚3周年、今度は私一人でオーロラを見に行く   第5話

    書類に書かれた麻衣の名前を見つめていると、なんだか笑えてきた。結婚3周年の旅行で泊まるはずだった水中スイートも、80万円のジュエリーも、結局は麻衣との10年を埋め合わせるために使われた。そして今度は、麻衣から出資を受けるために、夫婦の財産まで差し出そうとしていた。しかも最後は、その書類に私自身の手でサインさせるつもりだった。「つまり、今日みんなを集めたのは、水中スイートのことを説明するためでも、残業だって嘘をついたことを謝るためでもなかったのね」私は顔を上げ、テーブルを囲む四人を見渡した。「私に納得させたうえで、夫婦の財産まで昔の恋人に渡そうとしてたってこと?」「彩香、そういう言い方やめろよ」亮介は眉をひそめた。「これは出資の条件の一つなんだ。向こうの投資会社だって、こっちの本気を見たいんだよ。株もいったん麻衣の名義にするだけで、資金調達が済めば戻す。投資のことも分からないのに、感情的になって話をややこしくするなよ」「私が、投資のことを何も分かってないって?」私は亮介を見た。「5年前、あなたが事業に失敗したとき、半月ほとんど寝ずに財務モデルを作って、投資家を回って出資を取りつけたのは誰だった?」亮介は言葉に詰まり、気まずそうに目を伏せた。麻衣はすぐに目を潤ませて立ち上がった。「彩香さん、本当に違うんです。私、彩香さんの株が欲しいわけじゃありません。ただ、少しでも力になれたらと思っただけで……お金目当てだと思われるくらいなら、私、この件から手を引きます」「麻衣、いいから座って。麻衣は何も悪くない」亮介は麻衣の手首をつかんで引き止めると、私を見た。「彩香、もういい加減にしろよ。会社のためだって言ってるだろ。資金調達まで潰す気かよ?」亮介の母も鼻で笑った。「普段、何不自由なく暮らしてるでしょう?亮介の仕事で必要だっていうんだから、サインくらいしてあげればいいじゃない。こんなときまで意地を張って。少しは亮介の立場も考えなさい」私は亮介の母の嫌味を聞き流し、亮介を見た。亮介は悪びれる様子もなく、当然のような顔で座っていた。不倫をしたことも、嘘をついたことも、私に黙って夫婦の財産を動かそうとしたことも、少しも悪いとは思っていないらしい。悪いのは、黙って従わない私のほうだと言いたげだった。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status