ログイン白石家の親戚たちはもちろん、両親までもが千紗を甘やかしていた。私が家に戻ったばかりのころ、彼達は何度も諭すように言った。「千紗は悪くないのよ。間違ったのは、あの子の母親なの。長い間、本当の親のもとに戻れなかった千紗もかわいそうじゃない」――もし私が本当に「田舎娘」として、十八年も貧しい暮らしをしてきたのなら、その一言で胸が裂けただろう。十八年間、私の人生を奪い、私の名で贅沢を尽くしてきたのは千紗の方だ。それなのに、なぜ彼女が「かわいそう」なの?幸い、篠宮の両親に引き取られてからは、何ひとつ不自由のない暮らしを与えられてきた。だからこそ、私は千紗に対して嫉妬せずにいられたのだ。それからの日々、千紗はことあるごとに涙をこぼした。千紗が泣くたびに、両親はまるで空の星まで取ってやりたいかのように甘やかし、代わりに私に我慢を強いた。ある日、千紗が私の首にかかっていた篠宮家伝来の宝石のペンダントを欲しがった。両親は「たかが古い飾りじゃないか。千紗が欲しいならあげなさい」と言った。その瞬間、初めて私は声を荒げた。そして、父の手のひらが頬に叩きつけられた。その一撃で、私はこの家がどんな場所なのか、ようやく悟った。私は家を飛び出し、降りしきる雨の中をただ歩いた。そして、探しに来た蒼介と偶然ぶつかった。あのときの私はあまりにも無力で、ただ誰かに寄りかかりたかっただけだった。あの頃の私は、まだ蒼介を「結婚したいほど」愛していたわけじゃなかった。それでも、彼と結婚し、家を出た。それからの七年間で、私は何もできなかった箱入りの令嬢から、彼のために家事をこなし料理も洗濯も覚える女へと変わっていった。息子が生まれたとき、私はようやく「愛」という言葉を信じられる気がした。そんな穏やかな日々に慣れてしまい、私はこのまま彼と静かに生きていければいいと思っていた。だが、彼が望んでいたのは――私を陽の当たらない地下に閉じ込め、生涯「愛人」として飼い続けることだった。回想が途切れ、私はその血走った瞳を見つめながら、彼と出会ったことも、想いを受け入れたことも、結婚して子を産んだことも――すべてを悔やんだ。死を覚悟したその瞬間、訓練を積んだ警護たちが一斉に突入し、蒼介と千紗、そして怯えきった蓮を取り押さえる。
蒼介と千紗が、遅れて現実に引き戻された。千紗は目を見開き、うろたえた声を上げた。「お姉ちゃん、蓮を離して!あの子、わざとじゃなかったって言ってるでしょ?どうしてまだ許してあげられないの?」そう言いながらも、彼女は助けに入ろうとはしない。ただ少し距離を置いた場所から、静かに成り行きを見守っているだけだ。蓮は蒼介にとって唯一の息子だ。蒼介は私の手を力ずくでこじ開け、もう片方の手で私の頬を激しく打った。「何をしてる!人はもう死んだんだぞ!息子にまで怒りをぶつける気か!」衝撃で一瞬意識が飛び、我に返った時、口の中に鉄の味が広がっている。その不快な味が胃の奥まで広がり、吐き気と痛みで顔が歪んだ。蒼介はついに私の手を引きはがし、今度は報復するように両手で私の首を掴んだ。血走った瞳の中で、彼の歪んだ顔がゆっくりと近づいてきた。――誰、この人は。目の前の男は、もう記憶の中の蒼介ではなかった。今の彼は、まるで理性を失った獣だ。その身から立ち上るのは、ただ暴力と殺意の匂い。これが本当の蒼介なのだとしたら――七年間、よくもまあここまで隠し通してきたものだ。私は一度も、その本性を疑ったことがなかった。束縛から解かれた蓮は、恐怖に震えながら身体を丸め、赤くなった喉を押さえて怯えた目をしている。千紗はそんな彼を包み込むように抱き寄せ、優しく背中を撫でた。蓮は私を見つめた。――自分の父親に首を締め上げられている、この母親を。ほんの三十秒前、彼も同じように息を奪われたはずなのに、今の彼は何も言わず、何も止めず、ただ静かに見ているだけだった。まるで他人事のように。意識が遠のいていく。世界が霞み、思考の中に次々と過去の光景が浮かび上がった。まるで車に揺られながら、通りすぎた花畑を振り返るように。――私が白石家に戻されたあの日も、こんな曇り空だった。十八歳の誕生日。重たい雲が垂れこめ、雨の気配が漂う中、白石家の人は皆屋内で待機していた。誰一人、外に出て私を迎えに来る者はいなかった。私を送り届けた篠宮家の執事は、しばらく待っても迎えの姿が見えず、静かに車のドアを開けて言った。「お嬢様、私がお送りいたしましょう」この没落しつつある家では、もう庭師を雇う余裕すらなかった。毎日世話をす
蒼介はそう言うと、ポケットから財布を取り出し、カードを一枚抜き取った。軽く指先を離し、そのまま床に落とした。まるで施しを与えるような仕草だ。「ここに二千万円入ってる。まずはそれでお前の友人の家に払え。足りなければ、また言え」その言葉に、千紗が眉を寄せ、わざとらしくため息をついた。「蒼介、優しすぎるわ。そんな簡単に二千万円も出して……ああいう貧しい人たちって、お金を見ると飢えた狼みたいになるのよ。強欲で、図々しくて。あなたがそんなに気前よく出したら、もっと要求してくるわ」喉の奥から、笑いとも嗤いともつかない声が漏れた。美羽の家は裕福で、幼いころから大切に育てられてきた。千紗の言うような「貧しい人」なんかじゃない。それなのに――なぜ千紗が人を見下せる?誰の家系だって、遡れば貧しかった時代がある。もし私の養父母が裏で白石家を支えなければ、今ごろ白石家などとっくに落ちぶれていたはずだ。友人を殺しておきながら、なおも侮辱する。その醜さに、体の奥が凍るように冷たくなった。誰も私の表情に気づかないまま、蒼介は千紗の頭を撫で、平然と続けた。「心配するな。白石家も神崎家も、誰かにたかれるような家じゃない。二千万円で足りないと言うなら――彼らを娘のもとへ送り届ければいいだけだ」その言葉に、心臓が一気に冷えきた。七年、同じベッドで眠った男が、こんなにも平然と人を殺せるのか。私は顔を上げ、三人の顔を睨みつけながら、吐き出すように言った。「その言葉、美羽に直接言ってみなさいよ」蒼介はこめかみに手を当てて、鼻で笑った。「楓、お前は本当に口だけは達者だな。友人の死を見てもまだ分からないのか?俺に逆らえば、お前も同じ道を辿るぞ」その瞬間、蓮の顔から血の気が引いた。小さな手で蒼介の裾をつかみ、震える声を絞り出いた。「パパ……約束したじゃないか……」蒼介はその声にようやく表情を緩め、静かに言った。「息子の顔を立てて、今回は見逃してやる。このカードを持って行け。友人に良い墓を買ってやれ。それから、ネットで千紗と俺に謝罪文を出せ。そうすれば許してやる。これまで通り、俺の『愛人』として生きろ」その言葉の最後、千紗の顔がわずかに曇った。蒼介はそれを見て、彼女の肩を抱き寄せ、穏やかに囁いた。
私が言葉を終えると、電話の向こうが一瞬、静まり返った。その沈黙の瞬間、心臓が喉元までせり上がり、腕の中の美羽の冷たい体と一緒に、血の気がすうっと引いていく。――もしかして、養父母が私の願いを拒むのではないか。そんな恐れが胸をかすめた。生まれてからこれまで、私の願いを二人が断ったことは一度もなかった。彼らは、誰の前でも頭を下げずに生きていいと教えてくれた人たちだ。私が白石家に引き取られてからというもの、実の両親は養父母との関わりをきっぱり断とうとした。相手の素性も知らないまま、「田舎の出身で、育ちの悪い家の人間だ」と決めつけ、それが「家の品位」を損なうとでも思っていたのだ。養父母もまた、私のもとを訪ねてくることはなかった。自分たちが顔を出せば、白石家の人たちが気を悪くして、そのとばっちりが私に向かうかもしれない――そう思って、ずっと遠慮していたのだ。ふたりはよく私に言っていた。「楓、もし白石家でつらい思いをしたら、振り返らなくていい。そのまま帰っておいで。私たちはいつでも、あなたの港だから」私は二人にとって唯一の子であり、宝石のように大切に育てられた娘だった。白石家に引き取られたあと、母は悲しみに耐えられず、父が彼女を連れて世界を旅に出た。二人は行く先々から、その土地の品を選んで送ってくれた。結婚して七年、もう三十に近い今でも、母は毎月欠かさず手紙をくれ、その中でいつもこう呼んでくれる――「楓ちゃん、私たちの宝物」――けれど、今このとき、私は一瞬だけ思った。もしかして、もう愛されていないのではないか、と。たった三日間で、あまりにも多くの失望を味わったから。だが、そんな不安は一秒で消えた。電話の向こうから聞こえた声が、すべてを温かく包み込んでくれた。「楓、心配しないで。お父さんがすぐに手を打つ」「あなた、何かされたのね?待っていなさい。お父さんもお母さんも、もう飛行機を降りたところよ。すぐ帰ってあなたを守るから」その瞬間、胸の奥にこれまでにない幸福と温もりが広がった。熱い涙が頬を伝い、美羽の冷たい頬に落ちた。安心と同時に、電話を静かに切った。背後から、千紗の笑い声が聞こえた。「お姉ちゃん、こんなときまで強がらないで。まさか、自分の養父母が『篠宮家』だなんて思ってる
その言葉をきっかけに、ざわついていた人たちが一気にどよめいた。蒼介と蓮の顔は色を変え、千紗は大げさな芝居がかった悲鳴を上げたかと思うと、そのまま気を失って倒れ込んだ。私は美羽を連れて病院へ向かった。蒼介の一蹴りで、美羽の肋骨が一本折れてしまったのだ。友人が激しい痛みに身をよじる姿を見た瞬間、胸の奥で静かに誓った。必ず、美羽のために復讐してみせた。その直後、蒼介の怒声が耳をつんざくように電話越しに響いた。「楓、千紗をどこに隠しているんだ。出さなければ、本当に離婚するぞ!」反応する間もなく、蓮が携帯を奪い取り、泣きじゃくりながら叫んだ。「ママ、千紗さんがあなたのせいで気絶したんだよ!どうしてまだ放してくれないの?お願いだよ……あの人を返して」私は眉をひそめた。「私と関係ない。もう電話をかけてくるな」電話を切り、養父母の便の到着時刻を確認すると、彼らが午後に到着することを確かめて、復讐の決意を胸に、静かに眠りについた。再び目を覚ますと、ベッドに美羽はいない。氷が胸に張り付いたような冷たい感覚が走った。蒼介が裏で何か仕掛けたと悟り、私はすぐに神崎家へ向かった。その時、何事もなかったかのように、千紗が蒼介の腕の中で嗚咽している。私は最初の痛みも失い、心の内は冷たい灰と化した。冷たい声で言った。「美羽を出せ。さもなければ、責任はそちらが取ることになる」私の平然とした声を聞くと、蒼介はふいに前の茶卓を蹴りつけ、私よりもさらに冷たい口調で応じた。「返してやってもいい。だが千紗はお前に散々苦しめられ、消えかけたんだ。お前が土下座して頭を百回下げるなら、直ちに解放してやる」私は乾いた笑いをこらえられなかった。「蒼介、騙されて結婚し、子を産んで、それでも『愛人』にされ脅されるのは私じゃなくて彼女なのか?」その言葉に、千紗は声をあげて泣きわめいた。「お姉ちゃん、もういいの。蒼介も蓮もあなたに返す。私はいらないの!」私は彼女の芝居に付き合う気はない。最後通告を一度だけ告げた。「今すぐ美羽を放せ。さもなければ、覚悟して」言い終えると、蒼介は見上げて高笑いし、手を打った。ふと、その場の空気が変わるのを感じて振り向くと、生涯忘れられない光景が目に映った。美羽が宙吊りになり、全身血だらけで、傷
声が響いた瞬間、蒼介はためらいもなく私を階段から突き落とした。床に叩きつけられた瞬間、足首に鋭い痛みが走り、全身に広がっていく。それでも蒼介は一瞥すらせず、千紗の手を取り、優しい声でなだめた。「今のは彼女が俺に掴みかかってきただけだ。俺は何もしてない」その声に気づいた蓮が飛び出してきて、思わず叫ぶ。「ママ、大丈夫?!」一瞬、胸の奥が温かくなった。言葉を返そうとした、その刹那――千紗の声が被さった。「大丈夫よ、蓮。ママは平気」その一言で、蓮の足が止まった。数メートル先で立ち尽くしたまま、迷うような顔をして、やがて静かに千紗のそばへ寄り添う。――思い出した。まだ蓮が小さかったころ、彼はよく私に聞いた。「ママ、どうしておじいちゃんとおばあちゃんに会わせてくれないの?」何度も考えた。いつか蓮を連れて、養父母に会いに行こうと。あの人たちは私を実の娘のように愛してくれた。だから、蓮のことも同じように大切にしてくれると信じていた。でもその幻想も、今、息子の手で壊された。――もういい。彼が私を要らないというなら、私も彼を要らない。胸の奥の痛みを飲み込み、足首の激痛に耐えながら、ゆっくり立ち上がった。階段の上から千紗が見下ろすように言った。「お姉ちゃん、あなたがここまで追いかけてきたこと、もう両親に話したわ。次やったら、家から追い出すそうよ。お姉ちゃん、せっかく『田舎娘』から『お嬢様』になれたんだから、もう少し大人しくしてたほうがいいわよ」――私は、養父母の正体を誰にも話したことがなかった。あの日、白石家に戻った私は、篠宮家が用意した十数台の高級車の車列に送り届けられ、首には篠宮家に代々伝わる宝石のペンダントをかけていた。どう見ても、「田舎から引き取られた娘」には見えなかったはずだ。それに、この数年間、養父母は私が白石家に戻って生活水準が下がらないよう、裏でずっと白石家に大型案件を回し続けていた。そのおかげで、わずか数年で白石家は名ばかりの豪門から業界の中心にまでのし上がった。けれど今――その養父母が、私が白石家でどれほど屈辱を受けてきたかを知った。帰ってくれば、白石家の終わりはすぐそこだ。そう思うと、不思議と痛みが遠のく。私は冷ややかに笑い、唇を開く。