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第480話

Author: 藤原 白乃介
車のそばまで歩いた智哉は、ふと顔を上げて二階を見上げた。

すると、佳奈がバルコニーの前に立ち、じっと彼を見下ろしていた。

その瞬間、智哉は衝動に駆られた。

すぐにでも駆け上がり、彼女を抱きしめて慰めたい――そんな気持ちが胸の奥から湧き上がった。

だが、彼は動かなかった。

ただその場に立ち尽くし、深く彼女を見つめ続けた。

二人は、ひとりはバルコニーに、もうひとりは庭に立ちながら、じっと見つめ合った。

その沈黙の時間は十数分にも及び、まるで永遠のように感じられた。

佳奈の心は、ほんの少し落ち着いていたはずだった。

けれど、智哉の姿を目にした瞬間、涙が再び溢れ出した。

――智哉は悪くない。彼には何の責任もない。

佳奈はわかっていた。玲子に母親を奪われた痛みを、智哉にぶつけるべきではないことも。

玲子の罪と智哉の存在を、きちんと切り離して考えると、何度も自分に言い聞かせてきた。

それなのに、目の前の智哉を見てしまうと、どうしても母親が命を奪われた時のことが蘇ってしまう。

母は、あの時どんなに苦しかっただろう。

若くして、愛する人たちのために必死に生きてきた母が、一番輝いている時期に命を奪われた。

その思いが胸を締め付け、佳奈の涙は止めどなく流れ落ちた。

そして、智哉の深く沈んだ瞳を見つめながら、ぽつりと呟く。

「智哉……私たち、どうしたらいいの?」

その唇が動くのを見た瞬間、智哉の心は鋭く抉られた。

彼はすぐに駆け出し、階段を上がろうとした。

だが、その時、佳奈はふっと視線を外し、カーテンを閉めた。

智哉は、その閉ざされたカーテン越しの影を見つめながら、立ち尽くすしかなかった。

じんわりと痛む目元を押さえ、そっとスマホを取り出すと、佳奈にメッセージを送った。

【佳奈、ちょっと会社に戻るよ。ちゃんとご飯を食べて、ゆっくり休むんだよ】

送信を終え、もう一度バルコニーを見上げたが、佳奈の姿はもうなかった。

智哉は庭で一本煙草を吸い、静かに深呼吸したあと、車に乗り込み別荘を後にした。

けれど、走り出して間もなく、本邸の執事から電話が入った。

「坊ちゃん、本邸に手紙が届きました。今すぐお持ちしましょうか?」

その一言に、智哉の眉間がピクリと動く。

この時代に、わざわざ手紙?

しかも、本邸宛て。

今の連絡先は会社かこの別荘
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