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第9話

Author: クレヨンくま
「なに?智也、お前今なんて言った?白嶺国の航路を飛ぶだと?聞き間違いじゃないのか?お前、この一生二度と白嶺国は飛ばないって誓ったはずだろ?五年前の件で、俺だってわざわざ本部に申請出してやって、そのせいで散々怒られたんだよ!」

智也がメッセージを送ってから一分も経たないうちに、電話が鳴った。

受話口の向こうは驚愕と不信に満ちていた。

五年前、智也が白嶺国便で事故に遭ったあと、彼は本部に「二度と白嶺国を飛ばない」と申請を出し、もし認められなければ退職するとまで言った。

その話は当時、航空会社のみんななら誰もが知る出来事だった。

だが今、彼は自ら白嶺国を飛びたいと申し出たのだ。

驚かぬ者などいない。

「俺は本気だ、隼人さん。どうかもう一度本部に掛け合ってくれ。できるだけ早く!」

智也の声は異様なほど強い決意に満ちていた。

「……一体どうしたっていうんだ?」電話の向こうから問う声が重なる。

「隼人さん、ひとつ聞かせてくれ。この三年間、みんな心の中では、俺が花音と一線を越えてるって思ってたんだろ? そして、美優に対して裏切ってるって思ってたんだろ?」

しばし沈黙が流れた。

だが沈黙こそが何より雄弁な答えだった。

「そうか……」智也は苦い笑みを浮かべた。

「花音が弟子になってから、俺は美優とろくに食事すらしなくなった。祭日も過ごさなかった。贈ったプレゼントも投げやりで、同じものばかり。さっき数えたが、この三年で美優との入籍をすっぽかしたのは十数回にもなってた。

だけど、それでも本気で別れるなんて一度も考えたことはなかったんだ。でも今日、美優は会社を辞めて、白嶺国へ行ってしまった」

そこまで言った時、電話口からようやく低い声が返ってきた。

「分かった」

それだけ言って、通話は切られた。

三十分後、メッセージが届いた。

【本部が了承した。明日の白嶺国行き第一便、お前が機長だ】
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