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三十六話:止まった時計の向こう側

ผู้เขียน: 渡瀬藍兵
last update วันที่เผยแพร่: 2025-05-28 19:00:09

 ——それはまるで、彼から逃げているようだ。

 真っ先に浮かんだのは、その考えだった。

「あの日、あんなことさえなければ……」

 男は悔しさを噛み締めるように歯を食いしばり、低く、絞り出すような声でそう呟いた。

「失礼ですが——あんなこと、とは?」

 美琴が静かに尋ねた。

「……彼女は、事故の直前に母親と大喧嘩をしたんです。理由は——僕との結婚を、認めてもらえなかったから」

「…………」

「僕も必死でした。認めてもらおうと、できる限りのことをした。でも——何も変わらなかった。それほど、詩織の母親は深い傷を抱えているんです」

「深い傷……伺ってもよろしいですか?」

 美琴が慎重に言葉を選びながら続けた。

「……彼女の母親、静依さんは過去に夫に……去られています。それ以上のことは——申し訳ありませんが、話せません」

(なるほど……)

 記憶の中で幾度も繰り返されていた言葉——「男は信用できない」。その根にあるのは、静依さんが抱える喪失の傷なのか。夫に去られた痛みが、娘の幸せまで拒んでしまうほどに深く、癒えることなく残り続けていたのだとしたら——

「……そうですね。人それぞれに抱えているものがある。それを勝手にお話しいただくべきではありませんでした。軽率でした」

 美琴は丁寧に、申し訳なさそうに深く頭を下げた。

「いえ……僕が知ったのも、詩織から軽く聞いた程度のことで。詳しい理由までは分かりませんが——それが、僕を認めてもらえなかった理由なんでしょうね」

 男は続ける。

「……あそこで、詩織は確かに事故に遭いました。それ以降、その場所は心霊スポットなんて呼ばれている……」

 声が一段低くなった。

「血まみれの女性を見た。その霊が、事故を引き起こしている——だなんて噂されています」

 彼が言いたいことは明白だった。

 その女性が詩織だとするなら、事故を引き起こしているのも詩織だと——世間はそう突きつけているようなものだ。亡くなってなお、彼女は加害者にされている。

「それじゃあ、詩織さんが意図的に事故を引き起こしてるって言ってるようなものじゃないですかっ……!」

 声が震えた。怒りではない。理不尽さへの、やり場のない痛みだった。死してなお安らぐことを許されず、見知らぬ人々の噂の中で歪められていく——その残酷さが、悠斗の胸を内側から突き破ろうとしていた。

「……そうですね。だから、それを解決しなければいけません」

 美琴の声は静かだったが、そこには揺らぎのない決意が通っていた。

「彼女に会う前に、あなたの知る範囲のことで構いません。教えていただけませんか?」

「……詩織と詩織の母が、結婚のことで大喧嘩をしました」

 男が、ゆっくりと語りはじめた。

「その後、詩織は大雨の中、家を飛び出したようなのです」

「その日は、本当にひどい大雨で……車から見た道が、まったく見えないほどでした」

「……はい」

 悠斗と美琴は、ただ静かに耳を傾けた。急かす言葉も、相槌さえも挟まない。男が自分の速度で紡ぐのを、二人はじっと待つ。

「その後、詩織は風鳴トンネルへと向かい、そこで……事故に」

 一度、言葉が途切れた。男は唇を引き結び、何かを堪えるように浅く息をついてから、続けた。

「……轢かれてしまってから、数時間は生きていたそうです」

 声が、わずかに震えていた。

「彼女は……本当に、苦しんだのだと思います。でも——大雨で視界が悪かったこと、この峠を走る車が少なかったことによって轢かれた後、誰にも助けてもらえなかった……」

 その言葉が耳に届いた瞬間、悠斗の胸の奥で何かが軋んだ。大雨の中、暗いトンネルの路面に倒れたまま、助けを待ち続けた時間。痛みと恐怖の中で、どれほど誰かの名前を呼んだのだろう。どれほど——

「……それは辛かったでしょうね」

 美琴の声が、明らかに沈んでいた。いつもの穏やかさとは違う、感情を押し込めきれない重さがにじんでいる。

「……トラックの運転手は? まさか——」

「警察の事情聴取によれば、ひき逃げをして——今も服役中だそうです」

「……ひどい」

 美琴が小さく呟き、視線を足もとへ落とした。轢かれ、逃げられ、助けも来ない暗闇の中でひとり——その光景が、言葉にせずとも二人の脳裏に同じ像を結んでいた。

 その時、男のポケットから着信音が響いた。

「……失礼」

 男は軽く会釈し、二人に背を向けて通話に出た。

「はい、竹本です。ええ、お疲れ様です……え? それは……」

 声が少し硬くなる。仕事の連絡だろうか——悠斗はその背中から視線を外し、小声で美琴に話しかけた。

「……様子からして、職場からっぽいね」

「そのようですね」

 美琴が短く頷く。二人のあいだに、束の間の空白が生まれた。

「美琴は、どう思う? 詩織さん、彼を避けているような……そんな気がするんだけど」

 美琴は竹本の後ろ姿をじっと見つめていた。通話に気を取られた背中は、夕陽の中でどこか頼りなく見える。

「ええ。恐らくその考えで合っていると思います」

 声は静かだったが、その奥に痛みを押し殺すような重さがあった。

「悲しいことですが——彼の前に詩織さんが現れることは、ないでしょうね……」

 移動する霊。思い入れのある場所を巡りながら、それでもこの男の前にだけは姿を見せない。避けているのだとすれば——その理由は、恨みではないはずだ。むしろその逆。会えば、離れられなくなるから。会えば、逝けなくなるから。

 悠斗は、竹本の背中を見つめた。電話越しの声が、風に混じってかすかに聞こえてくる。彼はまだ、何も知らない。

「……すみません。会社から呼び出されてしまいまして、僕はこれで失礼します」

 竹本はスマートフォンをポケットに戻し、二人に静かに会釈した。

「あ——あの、今日はお話を聞かせていただいて、本当にありがとうございました」

 悠斗が慌てて頭を下げると、竹本は少しだけ笑った。笑ったはずなのに、その目尻には笑みの形をした寂しさだけが残っている。

「いえ。こちらこそ、聞いてくれてありがとう」

 それだけ言って、男は背を向けた。

 荷物も少なく、ただ一人。坂道を下っていくその背中は、来た時よりもどこか軽くなったようにも見えたし——その分だけ、余計に孤独が際立って見えた。

 夕陽が、その輪郭を橙に縁取っていく。やがて坂の向こうへ、影が沈むように消えた。

 悠斗は、その場から動けなかった。隣の美琴も同じだった。言葉はなかった。ただ二人の胸の中に、同じ痛みが静かに広がっていく——止まったままの時計を抱えて生きるということの、途方もない重さが。

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